〇三 草原の男、虎の姫と出逢う事
西域の国々には、紅毛の駿馬がいるという。
人の語を解し、忠に厚く、一日に千里を走る脚を持つ。
あまりの評判にかつての帝が国へ攻め入って幾千と奪ったが、彼らは愚人に懐かず、慣れぬ土地に暴れないではいられない。結局すべて駄目にしてしまったそうだ。
「どんな生き物も心の拠る場所から離されたら、きっと生きてはいかれないのね」
姉からそんな話を聞く度に、乾いた陽の下で誰にも縛られず、煌々と照らされて駆ける若駒の姿を思い浮かべた。
眼下の男はまさにそれだと白秋は思った。
彼の肌が、興奮で血色を帯びているのが特にそう見えた。
太陽のよく似合う奴だと思った。
***
司春は己がどうして暴れているのか分からなくなってきていた。
はじめは、掏摸とごろつきを片付けることができればそれでよかった。
そうしたら何故か観衆から混ざってくる奴が現れて、騒ぎを鎮めに捕吏も来た。その結果が大乱闘。
瑚滉はいかれた街である。司春にはもう都の道理が分からない。
「俺ァただ、働きに来ただけなんだ……」
汗が涙のように頬を垂れた。
そうして何人目かも分からない相手の胸倉を掴んで投げようとすると、涼やかな声に止められた。
「待て」
そちらを見れば、随分と身なりのよい男が微笑を湛えている。
栗色の蓬髪には愛嬌があって、赤銅色の瞳は穏やかな気品を帯びている。
司春のあずかり知らぬことではあるが、都に知れた貴人の訪れに、周りで騒いでいた連中も畏れてすっかり黙ってしまっていた。
「夏却を放してやってくれないか。もう目を回しているようだ」
今、自分が掴んでいる小柄な奴は男の部下か知り合いなのだろう。そう理解した司春はそのまま手を離し、気の毒な夏却は尻から地に激突した。
「誰だ?」
「私はそこの家の主人だ、無弦という」
司春の形ばかりの質問に、無弦も快く応えた。
今までの闖入者に、拳ではなく言葉を扱う者はなかった。
どうやら相手は他とは違うらしいと思い、司春も少し話を聞く気になった。
「四半刻も暴れて疲れただろう。どうだ、一度落ち着いて、上がって茶でも飲まないか」
「それで俺に痺れ薬を盛って髪を刈って目と財布を抜くんだろう……」
「今までに何があったんだよ」
目前の偉丈夫がそんな怯えた声を出すので、無弦も驚かずにはいられなかった。
収集を付けようと思って言ったことだが、かえって彼の警戒を強めてしまったようだった。
すると、ようやく天地の感覚を取り戻したらしい夏却が、石畳に座り込んで言った。
「お前、組み打ち以外で何ができるか言え。場合によっては宰相家が召し抱えてやるぞ」
「えっ?」
「ああ?」
司春が聞き返すよりも早く、その宰相のほうが素っ頓狂な声を上げた。
主君の困惑をよそに、夏却は重ねて問うた。
「何かないのか、なきゃあ牢にぶち込むが。おれじゃなくて無弦さまが」
「えっ? ねえ、俺なの?」
司春は黙り込んだ。
無弦とやらとの問答で随分と時間を食ってしまっている。
まもなく自分でも破れない数の捕吏や武官が集まってくるだろう。
この小姓すらも自分を騙そうとしているのでなければ、癪だが活路は他にない。
もしかすれば、雇い主を見つけるという本意を遂げられる。司春は言葉を選んで答えた。
「……馬一頭と弓矢の一本を寄越してくれれば、半刻で兎を獲る」
「もう一声」
「ああ!? ……撃剣で賊を三十人討った」
本当は二十八人だったが大した嘘ではない。多分、賊の棟梁で首級三人分にはなる。
夏却は頷くと、無弦の顔を見上げた。
「どうですか、無弦さま」
「まあ、いいんじゃねえかな?」
無弦はあっさりと了承した。実に気の抜ける主従である。
司春は呆れたように自分の髪を掻き上げた。
「お人好しだな。お前の家でまた暴れるかもしれないのに」
「なに、害を為せば万里の先でもお前の首を射るさ」
そう言うと、無弦はきょろきょろと辺りを見回し始めた。
何をしている、と司春が訊く前に、彼は二羽の鵯が宙を飛んでいるのを見つけた。
すると無弦は馬鹿には見えぬ弓矢でも持っているかのように構えると、絞ったそのままに無の矢をひょう、ふっ、と放つ。
二鳥は同時に落ちた。
「よし、これで昼飯にでもしよう」
男は射の意を識っていた。
ほくほくとして鳥を拾う無弦に、司春は唖然とするばかりである。
***
「いやあ、とんでもない男でした。おれもまだ精進が足りませんな」
その晩、夏却が白秋のもとを訪れた。新しい仲間を歓迎する酒盛りを抜け出して、事の次第を語りに来てくれたのである。
白秋は、弧星児が夏却のために出した茶菓子を食べながら話を聞いた。頭を抑えられた雪虫が一生懸命に菓子の匂いを嗅いでいる。
「そのやり取りは聞こえなかったけど、外廊から見てたよ。手も足も出てなかったね」
「体格の暴力っす。おれ、止めに入っただけなんすけどね」
小柄なほうである彼が司春に文字通り振り回される姿は、干される前の洗濯物のようだった。
ちょっと面白かった、と心からの感想を述べると夏却は袖を噛んで再戦を誓っていた。
「それで……あの男、無弦が雇うの? いや、雇わせた……?」
いくら腕が立つとして、普通あれを拾うものか。
とはいえ、彼のことが少しだけ心に掛かったのも真実だ。白秋は妙な縁もあるものだと思った。
夏却の方は、彼が誘いに乗ってくれたのが存外に嬉しかったらしい。好敵手の登場に気分がよさそうだ。
「あれほどの益荒男を逃す手はありません。最初にうちが見つけたのに他家に抱えられたら悔しくないっすか?」
「そうかな……そうかも……?」
首を傾げる白秋を見上げ、雪虫はきゃんと一つ吠えた。
夏却は酒盛りが終わる前にと帰り、白秋は彼らの楽しそうな唄を遠くに聞きながら眠りについた。
***
司春は真夜中に起きた。
酒盛りも終わり、気づけば他の男衆と一緒に大部屋で寝ていたのだ。
あの無弦の家臣ともあれば皆、人の好い人間ばかりで、司春が瑚滉で溜めた毒気もすっかり抜かれてしまった。
「しかし、気を抜き過ぎたな」
一応の用心に身体を検めるが、妙なことをされた様子はなく、銭入れもずっしりと重い。
少し息を吐くと、急に喉が渇いてきた。
酒精のせいか、とりあえずの居場所ができたことに心が安堵したのか、両方かもしれない。
「……まあ、探せばそこらに井戸か水瓶くらいあるか」
しかし、司春の考えは甘かった。そんなことを思っていられたのも数分の限りである。
湖上に建てられた瑚滉の家々は、限られた土地のために高く積まれている。
つまり、縦にも横にもある空間をむやみやたらに歩いても目的地には辿り着かないのである。
さらにここは腐っても大国の宰相が邸宅、広さ高さは馬鹿にならなかった。何ならば、司春は階段というものを初めて見た。
並の使用人が入ってはならない場所はとっくに越えた気がするが、それを咎めてくれる人物さえ行き当たらない。
流石に焦りが渇きを上回ってきた頃、司春はある上等な部屋の前で妙な物音を聞いた。
何か衣の擦れる音、重いものを引きずる音。そして、しのび泣く女の声。
「……?」
まず頭に過ぎったのは、この屋敷に暮らしていると聞かされた無弦の娘のことだった。
それから、すすり泣きの合間に何か獣の唸る声がして、それで瑚滉の人食い虎の話を思い出した。
まさか、部屋の中にその虎がいるのだろうか。
司春は姫の顔を見てはならないことも忘れて思わず襖を開け放ち、中を覗いてしまった。
まず、一枚の薄い衝立があった。月夜の草叢の絵だった。
衝立の向こうに灯りがあるらしく、表に声の主の影がぬらりと映っていた。
「彼は誰そ」
しゃがれた声がそう尋ねた。
夏却が言うには、姫君は大層な長身であるそうだ。
しかし、己の目に映る影は、そのような話で済む大きさではない。
司春は唾を飲んだ。
「その声は宰相の姫君か。何か困っているか」
「……な入りそ」
司春の呼びかけに、影は低く応えた。獣の唸る音が脅すように一層強まった。
定めた領域に爪先でも触れれば、たちまち殺してやろうという志が、肌にびりびりと伝わってくる。
しかし、とうとう司春の勇気が恐怖を超えた。
司春は早足で近寄ると、勢いよく衝立を払い除けた。
そこにあったのは、瀟洒な寝台と女物の衣服だけだった。獣の臭いが微かにした。
瞬間、壁と天井を駆けた塊が雷のように跳びかかった。咄嗟に腰の刀を抜こうとして、馬と一緒に売ってしまったことを思い出した。
司春と獣は二転三転と部屋の中を組み合い、とうとう物見の外廊まで転がり出た。
重い爪が服を裂く。毛むくじゃらの躯が圧し掛かる。
望月が一人と一匹を照らし上げ、押し倒された司春はとうとう獣の正体を得た。
それは青い眼をした、月のように白い虎だった。
「────あァ、こりゃ確かに綺麗だな」
まさに虎口に頸を食い千切られんという危機の中にあって、司春の喉からはただ、賛美のみが漏れた。
虎の瞳孔が細くなる。
ひたり、と止まった虎は、二度三度と顎を閉じ、少し匂いを嗅いでから鼻先を逸らした。
「……お前じゃない」
虎は訳の分からないことを微かに呟いて、頭を振った。
はらわたを潰す重みに司春が我に返ると、自分の上に虎の姿はなく、代わりに一人の女が服も着ないで座っていた。
ぞっとするほど美しい女だった。
「こんなところまで這入ってきたのはあなたが初めて」
女は黒曜の色をした髪を垂らして顔を近づけ、紅口白牙の唇で彼にそっと囁いた。
白秋という名を、司春は未だ知らない。
***
司春の幼い頃、商いに出かけた伯父が白い虎の皮を持ち帰ってきたことがあった。
そういう虎が遠い南方に棲むと聞いていたから、一体どこまで行ったのかと訊いた。
すると、伯父は瑚滉の北の山中だと言う。
夜中、一休みをしていたら突然に襲い掛かってきたので、驚いて射ち殺してしまった。
「悪いことをした」
伯父は酒を飲みながら呟いた。
南国から流れてきたのか、金色の親から偶然に生まれたか、どちらにしたとしても、あの白虎は孤独であったろう、と。
「青い眼が美しかった。あれ以上の色を俺は知らん」
酔った伯父がそう言う度に、濡れた銀光の下で誰にも顧みられず、独り岩上に伏せる獣の姿を思い浮かべた。
眼前の女はまさにそれだと司春は思った。
虎の瞳が、興奮で爛々と輝いているのが特にそう見えた。
月のよく似合う奴だと思った。