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一五 白秋、天魔の誘惑を受ける事

 大烏のような影が摩天楼の頂上に飛び込んだ。

 瑚滉の迷宮を伝い、奇天が邸宅に帰ったのである。


 陽望楼(ようぼうろう)と名付けられたそれは、高層の楼閣が立ち並ぶ都でも、頭一つ抜けていた。

 つるばみで染めたように黒い瓦が、不気味に星の(きら)めきを吸い込んでいる。


 奇天は欄干に留まって深く息を吐く。

 真新しい檜の床に白秋を放り出すと、ぞんざいな足取りで自分も降り立った。


「フウ、フウ……」


 荒い息が部屋に響く。

 奇天は背に腕を回し、刺さったままの小刀を掴んで勢いのままに乱暴に抜く。

 それから一瞥することもなく、苛立ちに任せて投げ捨てた。

 ぼたぼたと赤黒い血液が垂れ落ち、床を染める。まるで時季外れの紅梅だ。


「ハァ、なまくらは、無駄に、頑丈で困るな」


 重い音を立てて転がっていった小刀を(なじ)りながら、しばらくの間、奇天は傷口を押さえて上を向いていた。

 止血が済むと、椅子に掛けてあった服を掴み、白秋の目もはばからず着替え始める。


 知らない屋敷の中に逃げ場はなかった。白秋は膝を抱え、そっぽを向いて過ごした。

 虫も鳴かない夜更けの静けさの中に、鼻をすする音が紛れ込んでいた。


「おや、どうした白秋。泣いているのか」


 身支度を終えた奇天は穏やかな声で、覗き込むように見下ろした。


 白秋は顔を覆って嗚咽を繰り返していた。

 羞恥と怒りで鼻先を赤くして、ぐしぐしと掌底で目元を擦る。

 その度に青い袖が濡れ、曇天の雲のように重くした。


「クソ、畜生、お前、何回、どれだけ、私の周りをめちゃくちゃにしたら気が済むんだよ……っ」

「白秋、花氷の顔でそんな言葉を吐くな。あいつが汚れるだろう」


 事もなげに姉の名前を出され、白秋はぼろぼろと涙を溢れさせた。

 松葉のような睫毛(まつげ)はしとどに濡れ、まなじりは潤んで赤く、彼女の顔立ちを一層幼く見せていた。

 白秋は床にへたり込んだまま、背を丸めて吐き捨てるように喚いた。


「訳分かんない! わたしが、お姉ちゃんが、何したっていうの」


 床に転がった、夏却の小刀を掴んで、切先の欠けた刃を奇天へ向ける。


「もう認めろよ、お前は無弦に負けたんだよ!」

「いいや、オレの勝ちだ」


 小刀を恐れることなく白秋に近づくと、奇天はしゃがみ、彼女の喉を持ち上げた。


「何となれば、帝も貴族も官吏も全員殺して、この奇天が天下を頂く」


 人が聞けば鼻で笑うような絵空事だ。

 石英宮には近衛の兵が大勢いるし、後詰めの軍勢だって郊外に基地がある。無弦が夏却や司春を屋敷に住まわせているように、ほかの貴族たちもそれぞれの武力を集めているものだ。天下とは、たった一人の将の気分で獲れるものではない。


 馬鹿なことを、と言おうとして、強く顎を握り込まれる。


「白秋、獣の力を得たのは自分だけだと思っていたか?」


 はっと息を飲み、宝玉のような瞳が奇天を見上げる。

 その青を慈しむように見つめる瞳は、贅沢な金色の、しかし白秋と同じ輝きを持っていた。


「選ばれたのは二人(・・)だ。あの夜を共有するオレとお前が、対のように運命を得て虎に変わったんだ!」


 そう言って、奇天が白秋の乱れた黒髪に触れる。

 その目線は白秋を通して、別の誰かの面影を暴こうとしているようだった。


 白秋は咄嗟に奇天へ小刀を突き立てようとするが、ぼろぼろの刃先では何にもならなかった。

 幼子がちゃんばらごっこで大人へ棒きれを叩きつけるような、滑稽な時間ばかりが続いた。


「オレはお前とは違って、虎を受け入れることにした。今となっては、誰が束になってかかろうと、負ける気がしない」


 とうとう刃を握っていた手を下ろした白秋の頭を、奇天が褒めるように撫でる。

 白秋は虚ろな目で、拒絶もしなかった。


「瑚滉に来てからというもの、凡愚相手に爪牙を振るってばかりで飽き飽きしていた。人食い虎などと畏れられるのもまあ悪くはなかったが、やはり名声というのは真の名を刻んでこそ後世に残るものだ」


 奇天はあっさりと、自分が瑚滉の人食い虎であることを認めた。

 彼に殺された民草の数は如何ばかりか。白秋は汗をにじませて憂いた。


 この男がこんなにも、人を害することに馴れきった人物であると分かっていたら、無弦も別のやり方を取ろうとしただろう。そればかりが惜しまれ、悔しくて仕方がなかった。


「名を残す、そんなことで、一国を亡ぼすのか」

「おかしいことは何もない。己の価値を損ない、存在が失われることを恐れる動物だろう、人間というのは」


 人間は無意味であることを何より嫌がる。

 子を為すのも、書を記すのも、戦って名を挙げようとするのも、すべて、自分がかつて確かに世界に在ったことを、骨が朽ちても知らしめるためではないのか。

 奇天は(うそぶ)くように答えた。


「つまらない問答より、役に立つ取引をしよう」


 そう言うと、奇天は白秋の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせた。

 爪先立ちにされた白秋の細い脚が、震えて張り詰めていた。

 足元がおぼつかなく、ふらつく白秋をしっかり掴み上げ、奇天は顔を寄せる。


「お前、オレのところに来い」


 奇天は引き寄せた耳元で囁いた。

 低声が脳を掻き混ぜる。

 くらくらするような甘ったるい匂いがずっと漂っていた。あの晩と同じ匂いだった。


「新たな王となったオレの傍に立て。代わりに、屋敷のやつらはみんな見逃してやる。傷一つ付けないでおこう。どうだ、悪い話じゃないだろう」

「う……」


 白秋は唇を噛んで顔を背けた。

 ぐちゃぐちゃした心が、また歩みを止めようとしている。


 何も分からなくなって、愚鈍に頷いてしまいそうだった。

 つまらない誇りのために、大切な人々を生贄にしようとしているのではないかと己の頭さえ疑った。

 白秋が息を詰めて震えるのを見て、奇天はくすくすと笑って首をもたげた。


「何を迷うことがある。お前の心が折れたとて、きっと誰も責めないぞ」


 はたして本当にそうだろうか。白秋はぼんやりと考えた。


 確かに自分は運のよいやつで、優しい人々に囲まれて暮らしてきたものだ。

 これまで受けた恩に報いるには、ここで奇天に(ひざまづ)き、彼らの命乞いをするしかないのではないか。


 実際、どちらの選択肢を選び、結果がどうなったとしても彼らは決して白秋を責めないだろう。

 だが、賭けに出て逆らってみたところで、最悪の出目を引いてしまったら、苦労した上で大切なものは全部失うのだ。


 それならば、姉の代わりになって、この男に媚びて、何もかもを辱められ、しかし全部あの人たちの幸せのためなのだと泣いて暮らすほうが、ずっと安全で楽なのではないか。


 白秋は、泣き濡れた顔で奇天を見上げた。


「奇天、お前、人を馬鹿にするのも大概にしろ!」


 右の手のひらが男の頬を殴り抜いた。

 奇天の手が緩み、白秋は彼の腕を押し払う。数歩を後ずさりながら、小刀を持った左手を振り上げた。


 奇天は顔色をがらりと変えた。

 小刀は切先と刃のほとんどが潰れて駄目になっていたが、鍔の近くだけは欠けずに残っていた。


 白秋は僅かな躊躇いもなく、自分の髪をばっさりと切り落とした。

 たちまち、夜の闇を紡いで撒いたように、黒い束が辺りに散らばった。

 あの小河のように美しかった黒髪は、肩口ほどの長さしか残らなかった。

 白秋は短くなった毛先を払い、己を奮い立たせる。


 何が報恩だ。この悪党に屈し、無垢の人々を捨て置いて、自分たちだけが助かることを喜ぶと思うほうが、ずっと、彼らに背く行いだ。


 もはや、恩讐だ何だというのは問題ではなかった。

 もっと大きな、大切なもののために戦うのだ。


 たとえ上手く行かず無意味に死んだとしても、確かに胸を張っていられるほど、大切なものだ。立ち向かうことに価値があるのだ。

 信頼に応えるというのは、そういうことだ。生きるというのは、そういうことだ。


 恩人その人に報いるのではない。周りに許されるかどうかを考えるのではない。

 ただ、あの太陽に恥じぬように、ひた走ればよいだけのことなのだ。

 いま虎は、咆哮した。

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