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序文

 月が明るくなってくると、決まってあの晩の夢を見る。

 故郷の山の中、蝋梅(ろうばい)の花が薄く光る古い道。

 家ごと両親や姉を焼く炎のせいで、夜道はどこまでも照らされている。


 刀傷に濡れる背中よりも、氷雪を踏む裸足の爪先よりも、鮮血の色が焼き付いた心が一番ひどく痛むので、今に錆びた刃で切り落としてしまいたかった。


 幼い少女の泣く声が、冬の山中に響いていた。


 白秋(はくしゅう)が安酒に酔ったような悪寒に目を開けたのは、暁にもまだ遠い夜分の頃であった。

 手探りで行燈に火を点けると、寝床の周りがぼんやりと明るくなった。


 破れそうなほどに速く脈打つ心臓が、ここが悪夢の醒めた現世であると必死に報せている。

 水差しを取るために身を起こそうとして、その首が頭をもたげる以上には持ち上がらないと気づいたとき、白秋はまた自分の(わずら)いが出たと分かった。


 さっきまで火打石を持っていた女の細腕はすっかり毛皮が覆う獣のそれに変わっており、喉から漏れる声には低く地を這う()き声が交じる。


 鏡を窺えば、寝台の上にいるのは女ではなく白い一匹の虎であった。


 白秋は人間である。しかし、喜怒哀楽に心が昂ると、たちまちにこのような虎の姿に変じてしまう。十一年前に遭った、ある事件からのことである。


 白秋は雪のように白いこの体躯を見て、さめざめと泣いた。


 このように醜い姿になると、脳に潜む虎の心が何かを吼えたて、奇妙な衝動に駆られる。その衝動の正体は分からないが、しかし、言う通りにしてしまったら、己が取り返しのつかない化け物になってしまうような気がして、それが恐ろしくて泣いている。


 そのとき、衝立(ついたて)の向こうの(ふすま)を開け放つ音がした。

 屋敷の侍女ではない。白秋は寝台に身をかがめて幼い子どものように尋ねた。


「あなたは誰?」


 こちらのほうが明るいので、衝立の向こうはまったく窺えない。返ってきたのは若い男の声色だった。


「■■■■、■■■?」

「入らないで」


 音は聞こえているのに、言葉がまったく届かない。

 遠くで虎が哭いている。

 男が僅かに唾を飲んで、部屋に踏み込んだ音がする。

 頭に焼き付いた記憶が、現実の景色にちかちかと交じって思考を侵していく。


 見られてはいけない。


 そんな強迫が身体を支配し、薄荷(ハッカ)を吸ったように本能が冴える。


 怯えながらも近づいてくる見知らぬ男の気配が、あの日に姉を手に掛けた仇のそれと重なった。真実には似ても似つかぬ、まったくの錯乱だった。


 全身の銀毛が逆立ち、波打った。

 男の手が衝立を払い除けたその瞬間、白秋の心は人の理性を失い、獣の衝動に奪われてしまった。


 獣は落雷のように男へ躍りかかった。

 そのまま虎と男は二転三転と部屋の中を組み合い、とうとう物見の外廊まで転がり出た。


 重い爪で服を裂く。毛むくじゃらの(からだ)で圧し掛かる。

 望月が一人と一匹を照らし上げ、男に乗りかかった虎は彼の喉笛に食らいつこうと牙を剥いた。血の色を見なければ気が済まなかった。

 男は口を開いた。


「────あァ、こりゃ確かに綺麗だな」


 その目は、温かな草原の色をしていた。

 化け物も恋に落ちるのだと、白秋は初めて知った。

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