第4話 劫火
数ヵ月後、征和二年のまだ残暑の厳しい旧暦七月、民間人・官僚・貴族を問わず、多くの人々が巫蠱の罪で告発され逮捕され始めた。
彼らは身に覚えのない罪状に震えながら無実を訴えるも、その自宅敷地から発見された巫蠱人形が動かぬ証拠として提出され、激しい拷問により次々と自白に追い込まれた。
その証拠は江充の手の者によりあらかじめ埋められたものであった。朱安世の手法を真似たのだ。それもはるかに大規模にである。
彼・彼女らは罪を逃れようと互いに罪をなすり付け合い、こうして連鎖的に逮捕者は増えてゆき、長安中の牢獄はあっという間に逮捕者であふれた。その結果、実に数万人が拷問の末、命を落とした。
江充は皇太子と皇后という真の標的を隠蔽する、それだけのために無実の数万人を犠牲に捧げたのだ。
人の皮を被った悪魔と言っても過言ではない。
このとき、取り調べと裁判を担当する廷尉(司法官)の数も常勤者では圧倒的に足りなくなったため、地方に勤務する優秀な官僚が都へ招集された。このとき魯国から招集されたのがこの物語の後半の主人公である丙吉だが、登場はもう少しあとになる。
話を戻す。江充は都を巫蠱で充満させてから、武帝が病気で寝込んでいるのを見計らい、手先の胡巫(匈奴出身のまじない師)を使い武帝に奏上した。
「宮中にも巫蠱の気があります。早急に取り除かなければ陛下の命がありません」と。
病床の武帝は江充の他、武官の韓説、監察官の章贛、宦官の蘇文に宮中の捜索を命じた。江充の仲間たちに他ならない。
彼らは後宮の夫人たちの住居から始め、次々と地面を掘っては捜索してゆき、ついに皇太子の宮殿で木彫りの巫蠱人形が発見された。皇太子は己の喉笛に江充の魔の手がかかったのを感じて恐怖した。
江充は勝利を確信した。
(甘泉宮には一報を入れたから、明日にも参内し他の3人と揃って捜査報告を奏上したら、終わりだ。真面目なお坊ちゃまの皇太子は震えて命乞いするしかないだろう)と愉悦に浸っていた。
皇太子は苦悩した。
(このままでは今日明日にでも誅殺されるのは確実だ。主上と直接話して私の真心を訴えればきっとわかって頂けるだろう。だが、病気で甘泉宮に籠もられ、面会すらさせて頂けない。身を守るには君側の奸を倒すしかないが、許可を得ずにするのは不忠であり不孝ではないか)
躊躇う皇太子だったが、家臣から「始皇帝の太子扶蘇と同じ末路を辿るつもりですか」と説得され、ついに決意した。
その晩、江充のもとを節(使者の印)を持った勅使が訪れ「陛下は甘泉宮から未央宮に戻られました。今すぐ報告を聞きたいと江充様をお召しです」と伝えた。
(ふふん、気の短い老いぼれだ。不安で夜も眠れないのだろう。安心させてやるか)と江充は勅使の車に同乗した。
だが、車から降りたところは未央宮ではなく、現れたのは武装した皇太子と兵士たちであった。連れ出したのは皇太子の賓客(私的な家臣)が化けた偽勅使だったのだ。
「しまった」と逃げる間もなく、江充は皇太子の前に荒々しく引き据えられた。
ついに江充の悪運も尽きた。最後の最後で油断したのが命取りになったのだ。
怨敵を前にして、さすがの貴公子も怒りに燃えた目で見据え「この趙の下郎め!キサマは趙王父子を乱すだけでは飽き足らず、我が父子まで乱そうとするのか!斬れ!」と罵り、眼の前で江充の首を刎ねさせた。
こうして悪魔は滅びた。めでたしめでたし。
と、おとぎ話であれば終わるのだが、現実は非情である。読者諸兄は心して聞いてほしい。
本当の悲劇はここからなのだ。悪の元凶は滅びたが、遺した呪いの爪痕は現世を蝕み続ける。
皇太子は限られた時間の中で矢継ぎ早に手を打った。既に江充以外の捜査担当者である韓説、章贛、蘇文にも賓客を偽勅使として送っていた。
韓説は怪しんで同行を拒んだため、偽勅使に撲殺され、江充の手先の胡巫も捕らえられて庭園で火あぶりにされた。
だが、章贛は致命傷を負うも絶命前に逃げ出し、蘇文も危険を察知し、二人とも甘泉宮に逃げ込んだ。
その間に皇太子は未央宮へ入り、母である皇后に事情を報告のうえ、「奸臣が謀反を起こし陛下は甘泉宮に監禁されている」と非常事態を宣言し軍隊に招集をかけたが、情報が錯綜し軍も官僚も大混乱に陥った。
皇太子は国軍のひとつである北軍を指揮下に収めるべく、北軍指揮官の任安を召喚し、協力を求めた。
任安は表向き承諾の返事をして軍営に戻ったものの、慎重に情勢を見極めるべく軍を動かさなかった。どう考えても適切な判断であったが、理不尽な末路が彼を待ち受けていた。
一方、章贛と蘇文から「皇太子謀反!」と報告を受けた武帝だが、さすがに我が子、それも謹厳実直な皇太子が謀反したとは信じがたく、事情を聞くため使者を派遣し皇太子を召喚しようとした。
だが使者は命惜しさであろうか、皇太子のもとへは行かず武帝のもとへ引き返し、「太子の謀反は本当でした。殺害されそうになり、命からがら逃げ帰りました」と嘘の報告をした。江充一派を信任し周囲に嘘つきの佞人しかいなかったのだ。
この報告を信じた武帝は激怒し、丞相の劉屈氂に皇太子討伐を命令した。
老いたりとはいえ、武帝は腹が据わっている。狼狽える丞相に対し「牛車を障害物として近接戦闘を避け、死傷者をなるべく少なくしろ。城門を閉じて謀反人を逃すな!」とテキパキと指示を与えた。
こうして父と息子の、それも誤解による争いは、多くの人々を巻き込み拡大してゆく。
長安市内の駐屯兵や囚人まで動員した皇太子の軍数万と、周辺地域から軍勢を招集した丞相の軍はとうとう長安城内で遭遇し、戦闘を開始した。
激しい市街戦が5日間続いた。両軍の兵士は言うに及ばず、城門を閉ざされ逃げ場を失った市民の多くが戦闘に巻き込まれ死者は数万人にもおよび、市内の排水溝は流れた血で染まった。
皇太子の軍は奮戦したが、兵力を増強した丞相の軍にジリジリと押されていった。民衆は皇太子が無実であり真の悪人は江充であることを知っていたが、公式に謀反人と布告された皇太子に味方する者は少なくなり、ついに皇太子軍は敗走し、東南門からの脱出を図った。
東南門を守備する田仁は、戦国時代の斉王の末裔であり義侠で知られた田叔の息子で、皇太子に同情し見て見ぬふりをしたため、皇太子は息子2人とともに長安から逃亡に成功した。こうして都で繰り広げられた内戦は収束した。
皇太子の最期を先に述べておこう。大規模な捜索を逃れ長安の南東にある村に落ち延びた。多くの庶民は皇太子の無実を知っており、義侠心の厚い貧しい靴売りが自宅に匿った。
だが、他の援助者へ出した手紙で足がつき、1ヵ月後ついに役人に取り囲まれた。
最期を悟った皇太子は首を吊って自害、38歳で悲運の死を遂げた。その間、家の主人は兵士と闘ったが、抵抗虚しく哀れにも皇太子の息子2人とともに殺害された。
その間に関係者の処分も進んでいた。皇太子敗走後、まず衛皇后の地位が剥奪され、既に覚悟していた皇后は従容と自害した。武帝に嫁いで48年、長年武帝に連れ添った賢夫人といえど身を全うすることはできなかった。
そして衛一族はもちろん、皇太子に従った者たちもことごとく族滅、東南門で皇太子を見逃した田仁も腰斬のうえ族滅された。皇太子の家族は1人を除き、全て処刑された。
宮廷の役人として仕える司馬遷は、暗澹たる思いで事件の経過を見つめていた。
声には出さずとも天下の人民は皆「天道、是か非か!」の思いの点では司馬遷と共通していた。
そんな折、司馬遷はさらなる悲報を聞く。友人である任安が腰斬の刑を宣告されたのだ。
前述の通り、北軍指揮官の任安は皇太子の命令に従うフリをしただけで加勢しなかったが、それでも〈疑わしきは罰する〉で極刑が決まった。
冬を迎える前に予定されていた刑の執行を待つ任安へ宛て、司馬遷は急いで手紙を書き送った。かつて任安から受け取った手紙、司馬遷が男の誇りを捨てて宦官となってまで生き延びた真意をただす手紙に対する返事だ。
いくら言葉を尽くしたとしても、自分と同じような経験をした人でなければ真意は理解できないであろうと考え返事せず放置していたのだが、死を待つ友なら自分の真意を理解してくれるだろう、と考えたのだ。
自分が宦官となる恥を忍んでまでも生き延びたのは、先祖から受け継ぎ志なかばで倒れた父の悲願である、孔子の書いた「春秋」に続く歴史書を完成させるためなのだ、という真情が手紙には切々と書かれていた。
およそ170年後に完成した、史記に続く歴史書・漢書『司馬遷伝』に収録されたこの名文『任少卿に報ずる書』は、後世の多くの著述家の魂を震わせることになる。
ここまで耳を覆いたくなるような嫌な話が続いた。だが、闇の中にたったひとつだけ光が残されていた。わずかな風で消えてしまいそうな、小さな小さな灯火ではあるが。