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天道の涯  作者: 三好長慶
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第2話 冬の始まり

始皇帝が統一し「ひとつの中華」という概念を初めて人々の意識にもたらした秦帝国。


この秦帝国を倒した項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)の両雄が争った末、勝利した高祖・劉邦が樹立したのが漢帝国。

その第7代皇帝・武帝(ぶてい)は、気宇壮大(きうそうだい)で自信とバイタリティに満ちた、まさに皇帝らしい皇帝であった。



武帝は16歳で即位し22歳で親政を開始すると、歴代皇帝が貯蓄した国力を解放し、積極政策に打って出た。

抜擢した衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)ら若手将軍の活躍により漢の長年の宿敵・匈奴(きょうど)を撃ち破り領土を拡大、西域(さいいき)との交易ルートを開拓、朝鮮半島から中央アジアに至る世界帝国として全盛期を築き上げた。



だが、払った代償も大きかった。度重なる大遠征により財政は赤字となり、徴兵された数多の若者は過酷な環境での戦闘・寒さ・飢えで命を落とし漠北ばくほく白骨はっこつさらした。


労働人口の減少により生産力は低下、さらに悪いことは重なる。史上最大規模の黄河決壊が発生し、被災した農民の多くは耕地を失い流民るみんと化した。


武帝も無策だったわけではない。戦費を賄うため斬新な経済政策を打ち出した。


御史大夫ぎょしたいふ(副宰相)に任命した張湯ちょうとうや経済官僚の桑弘羊そうこうようらが推進した《塩・鉄・酒の専売制》《統一貨幣(五銖銭(ごしゅせん))の新規発行》《均輸法(きんゆほう)平準法(へいじゅんほう)》がそれだ。


まず専売制について。

人間の生命維持に必要不可欠なミネラルであるナトリウムつまり塩、そして農作業具に広く使われ生活必需品である鉄の生産と流通は元々民間で行われていたが、全国の生産拠点に塩官・鉄官が設置され、塩は民間業者が生産し政府が買い上げて民間に販売、鉄は生産から販売まで全て政府が行うこととし私的な販売は禁止された。のちに酒も専売に追加される。

民間で流通していた利益を政府が独占することで、莫大な収益が国家財政に組み込まれることとなった。


統一貨幣の新規発行について。

このとき作られた《五銖銭》は1枚で5銭の価値を持つ少額貨幣で、ざっくりといえば現代日本の500円硬貨程度の価値の感覚であろうか。唐時代まで流通した優秀な通貨だった。いわば経済という国家の血管を流れる、貨幣という赤血球を良質なものとして、流れやすいサラサラの血液としたのだ。五銖銭は700年に渡り長く使われ、経済の安定に寄与することになる。


《均輸法・平準法》は簡単に言えば、国家が全国の商品流通と売買に直接介入し、物価を安定させ収益を国庫に入れるという経済政策で、財政再建という点では大成功を収めた。


だが、こうした政策は政府が独占企業となる民業圧迫でもあった。民間の商工業者や運送業者は失業し、膨大な戦費と武帝の贅沢による増税のため民衆の負担は増え、失業者や流民が盗賊化した流賊が横行し、治安は悪化した。


増大する社会不安に対し、武帝が起用した"酷吏(こくり)"と呼ばれる官吏が厳罰主義で取り締まりに当たり、福祉政策は疎かにされた。

業績不振の罰で処刑されることを恐れた地方官は粉飾報告するしかなく、中央政府の認識と地方の現場の実情が乖離し、ますます社会が不安定化する負のスパイラルに陥った。


それが武帝の治世終盤の頃の世相であった。




平均寿命の短い時代である。治世40年を超え還暦を過ぎた武帝の肉体は衰え、贅沢な生活も災いし老化と病気に悩まされるようになっていた。

若き日の武帝は剛直な臣下からの耳の痛い諫言を聞き入れる度量があった。しかし老化により脳が硬直化して思い込みが激しく感情的に不安定となり、怒りを制御(アンガーコントロール)できなくなり、些細なことで怒って臣下を厳しく処罰するようになった。

司馬遷の発言に激怒したのはそのせいもあるだろう。

司馬遷の二の舞はごめんである。群臣は処罰を恐れ、武帝に逆らう者はいなくなった。


心身の弱った武帝の元には、直言する硬骨漢の代わりに、権力という甘い汁に群がる害虫のような怪しい連中が集まるようになった。不老長寿を説く方士ほうし阿諛追従あゆついしょう佞臣ねいしんたちだ。

こうなると、秦の始皇帝と全く同じパターンである。彼らの影響で神仙思想しんせんしそうに傾倒した挙句「自分の病は誰かに呪われているせいだ」という強迫観念に取り憑かれてしまった。



前置きが長くなったが、ここからが今日の話の本題である。


この当時、《巫蠱(ふこ)の術》というものが広く信じられていた。木彫りや土造りの人形()を地面に埋めてまじない師()が酒を振りかけ術を施せば、誰かに呪いをかけて殺したり、心を操ることができる、というものだ。



巫蠱の起源については諸説あり定かではない。が、術師を「胡巫(こふ)」(外国人のまじない師)とも呼ぶことから、少なくとも外国起源と認識されていたことは間違いない。「悪いものは外から来る」という、古今東西を問わずに共通する偏見によるのかもしれない。



巫蠱は特に女性の間で流行したようだ。現代でもおまじない・占いなどが女性の間で人気なのと同じといえる。2000年前と現代と、人間の基本的な思考にあまり差はないのだ。



だが、問題は国家の絶対者である皇帝がそれを信じているということだ。



司馬遷が李陵を弁護し投獄された天漢てんかん二年(BC99)の秋、武帝は巫蠱の術を禁令とし犯した者は腰斬ようざん(胴体切断の死刑)と定めた。


これは国家が「巫蠱の術は本当に効果がある」と公式に認めたことになるとも言えるだろう。



その3年後、司馬遷が出獄した太始たいし元年(BC96)、将軍の公孫敖(こうそんごう)は妻が巫蠱の術を行なった罪に連座し、腰斬で処刑された。


公孫敖は故・大将軍衛青の若き日の恩人で、過去二度の敗戦の罪でも賠償金で死刑を免れた男だが、巫蠱に関わると問答無用で極刑を回避できなかったのだ。



巫蠱の恐ろしさは、人形と儀式の跡が物的証拠とされ容疑者は無実を証明できないことにある。つまり誰かを罪に陥れるのにこれほど便利なものはないと言える。


老いて心の不安定な皇帝・それを畏怖する群臣と民衆・治安悪化による社会不安という可燃性ガスは充満し、爆発寸前の段階に達していた。



発火点となったのは朱安世(しゅあんせい)という裏社会の大物であり、その火種をガス溜まりに投げ込んだのは江充(こうじゅう)という武帝の寵臣ちょうしんだった。


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