第1話 序章
「──」
最後の竹簡に文字を書き終え、深く息を吐き筆を置いたその男の顔は、深く刻まれた年輪ゆえに実年齢の45歳よりずっと老いて見えた。
彼はあしかけ25年をかけて完成させた著作を前にして、喜びと苦難の入り混じった感慨を胸に瞑目していた。
後世、"太史公"《たいしこう》と尊称され最も著名な歴史家として知られることになる司馬遷その人だ。
そして彼がいま完成させた著作こそ、中華史上初の正史(国定歴史書)にして、歴代最高傑作とされる『太史公記』略して『史記』だ。
史記の完成時期がいつかについては諸説あるが、この物語の中では漢(前漢)征和二年(BC91)のこととする。
『史記』列伝(君主ではない人々の伝記)の冒頭『伯夷叔斉伝』の中で、司馬遷は人類史について重要な疑義を提示した。
《所謂天道是邪非邪》(いわゆる天道とは正しいのか、間違っているのか)
「歴史上、善人が苦しんで死に、悪人が安楽に生きた例がたくさんある。世間では〈天は公平で善人は良い報いを得る〉といわれているが、本当に信じて良いのだろうか?」という、普遍的なクエスチョンである。
古代中国では、"天"という人格神ではない漠然とした上位存在があり、"道"という法則のようなものに従って人の運命を司っている、と考えられていた。その天の法則に疑問を呈したのだ。
司馬遷自身の悲惨な経験が、その問いをより切実なものとしている。
史記完成より8年前の天漢二年(BC99)のことだ。
北方の異民族匈奴との戦いにおいて別働隊の歩兵5千を率いた李陵は、3万の匈奴軍と遭遇。6倍もの騎兵を相手にして李陵は一歩も引かず、1万を討ち取る獅子奮迅の働きを見せたものの、圧倒的な戦力差は覆し難く、奮戦虚しく敗れ部隊は壊滅。李陵は自刃する間もなく捕虜となった。
この悲運の武将は時の皇帝・武帝に嫌われていた。開かれた朝議において、皇帝に迎合した群臣皆が李陵を非難するなか、敢然と公正に弁護したのは司馬遷ただ一人だった。だが、それは皇帝の逆鱗に触れることになり、激怒した武帝は司馬遷を不敬罪と断じ、投獄した。そして後に宮刑(性器切除の刑罰)を宣告した。
獄中で司馬遷は苦悩した。李陵を弁護したことには一片の悔いもない。己の正義を貫くことができて、晴れやかな気持ちでさえいた。だが、男性機能を失わせる宮刑を受けるということは、男性としての誇りを打ち砕き、人間以下の存在として臆病者の謗りと侮蔑を受け屈辱に塗れて生き続けるという、死刑より辛い道であった。
この当時、死刑を免れるためには、宮刑以外に多額の賄賂を支払って自らの身を贖う方法もあったが、清貧な歴史家である司馬家にそのような大金はなかった。
士大夫としての誇りのある司馬遷にしてみれば、自害するほうがよっぽどマシであったが、亡き父の悲願であり、先祖代々受け継いた歴史書編纂の事業を完成させる前に、自害するわけにはいかなかった。
司馬遷は宮刑を受け、宦官として生き続ける道を選んだ。
一時の激情で司馬遷を投獄したものの、頭の冷えた武帝は少し後悔した。
司馬遷の能力と高潔な人格を評価していたのだ。そこで宦官の就任する中書令に司馬遷を任命した。宮廷文書を扱う中書令は重要な役職だったが、司馬遷の屈辱は癒えることはなく、残りの人生全てを歴史書完成に注ぎ込んだのだった。
完成した史記はすぐに公開しなかった。皇帝批判と受け取られかねない文章もあるため、武帝の怒りを買って破却されないように複製を娘に託して自宅へ置き、本編は名山の祠へ奉納し、秘蔵した。
公開される後世の人々に史記の評価を、「天道、是か非か」という疑問の答えを託したのだ。
だが、史記が完成したまさにその頃に起きたある事件が、司馬遷個人に降りかかった悲劇より遥かにおぞましく、多くの人々に深い傷を負わせることに、
心ある人々の「天道、是か非か!」という叫びが天下に満ちることを、司馬遷はまだ知らない。
─後世、その事件を《巫蠱の禍》という。