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築山殿  作者: 瀬緒 遊
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五・破滅

 大賀弥四郎の裏切りが知れた。


 家康、信康の両人に信用され、それぞれに毒のある言を含ませ親子の離反を画し、信康の精神をむしばみ、武田との連絡を密にしていたこの男はのこぎり引きという残酷な方法で処刑された。


 そして名高い長篠の戦い。鉄砲を多く使う革命的な戦法で、信長の天才と武田騎馬軍の壊滅が世に広く喧伝された。


 旗色が鮮明になったところで、減敬は逃げても良かった。そもそも武田に対しての忠心など持っていない。それでも減敬がまだ築山殿の傍にいたのは、彼自身が清州同盟の決裂を見たかったからだ。


 戦乱を鎮めるための同盟?そんなことは何者でも言うことだ。若い頃の友情や理想は、そのうち現実がそれを許さなくなるし、年とともに摩滅もする。


 我こそが世直しの正義の人と言う顔をした家康など、自分の家庭ひとつ平和に納められぬ人物にすぎぬ。その息子の信康などは、これまで減敬や大賀がひそかに巡らせた陰険な策謀ごときで家中からの信頼を完全に失い、今や破滅寸前まで追い詰められた柔弱な若造にすぎず、こんなものが城主の若殿のと持ち上げられるのがそもそも間違いだ。


 戦場を歩き、人の世の暗きの底を見続けて、人を信じぬ人となった減敬である。不実や卑劣がその報いを見ること以上に心がなぐさめられることはなく、信じられるのは虚無と皮肉だけとなり果てた今、もうこれと心中してやろうという気になったのだ。


 そして破滅の緒は産室で開かれた。


 昨年の初産で女児を上げていた徳姫が年子で産んだのがまた女だったことで、信康はこの妻を乱暴な言葉でなじったのだ。


 まだ後産も降りぬ新産婦の枕もとに来て、産を労うどころか跡継ぎを産めぬ役立たずと罵った信康に姫は逆上し、これまで長く耐えてきた信康への憤懣を長い手紙に書いて実家の父へ送った。世に言う十二か条の訴状である。


 それを読んでもほとんどのことは信長を驚かせなかった。

 織田もまた各地に情報網を張っており、信康の身辺もこまかく調べている。築山殿の武田への内通、医師減敬との密通、信康の良民への狼藉など、どれも既知の巷説であり、真偽は確かめられ必要な手もすでに打ってあった。しかし信長が知らなかったことがひとつあった。


 信康が気晴らしに鷹狩に行ったがあいにく不猟でますます機嫌を損じて帰るところ、道中で僧侶にであった。

 殺生戒を説く僧侶に出会うとその日は不猟になるという因習を思い出して腹を立てた信康は、この不運な僧侶の首に縄をかけ馬で引いて縊り殺した。ここまでは聞いている。


 しかし一見些細なことだったので信長には報告されていなかったことが一つあった。後日信康がこれを詫びた際に、「信長公は比叡山で数千の僧侶の首を落としたではないか。わしはたった一つのことだ」と言ったことだ。これで信長の心が決まった。


 信康を切腹させるべしとの報せが信長から届いた浜松城では、家臣らはみな血眼だった。

 いかに責めるべき言動があったとしても、仮にも当家の嫡男を、主家にも当たらぬ織田氏の指図でなにゆえ腹斬らせねばならぬのか。近頃の織田家の増上慢は目に余っていたところ、一戦じゃ、と肩を怒らせる者。いや、こうなっては若殿を出家させて寺にでも入れるから勘弁してくれと丸く納めようという者。


 そうした議論の中、家康の胸はもう決まっていた。十二か条の訴状のうち、家康の知らないものがいくつかあったことも、いかに家内取り締まりが甘かったかという反省になった。しかし、信長からの手紙の大意は一つだけであり、家康にはそれが明瞭だった。


 信長は殺すべきは殺すが、自儘で殺した者は一人もおらぬ。それを分別せぬ者が我らの後継であってはならぬ。無意味な蛮行と大望のための犠牲とが、世の目に同じものと映っては断じてならぬ。


 戦に次ぐ戦の生活で、信康のことは家内のことと後まわしにしてきたのが誤りだった。これは信長が信康にではなく家康に振るった鞭であり、家康を試す鞭だった。


 あの蜜柑の日の声がまざまざと耳に蘇った。わすれまいぞ、竹千代。そうだ、忘れてはいけない。彼の人は殺す大将、そして我こそは......!


 家中の反発の声が大きい中、家康は厳しく武装して岡崎城を訪れ、これを囲んだ上で信康に謹慎を申しつけ、追っての切腹の沙汰を待つよう言い渡した。


 城内すべての者が我が耳を疑ったが、その中に減敬もいた。まさか!これで織田と徳川は手切れとなるはずだったのに!家康はそれほど信長が怖いのか?


 知らせを聞いて驚きあわてる築山殿のもとに、家康が立ち寄った。武装のままだった。

 信康の潔白を訴える築山殿の泣き声が筒抜けに聞こえる次の間に控えていた減敬は、この信長怖しの腰抜け武将の顔を見てやろうと隙見した。


「信康に望ましからぬ振る舞いがあったことに気づいていながら放っておいた、わしの罪じゃ。」


 家康の顔は、これまで減敬が見たことのない顔をしていた。悲しみの顔はいくらでも見てきた。観念の顔も、自責の顔もわかる。しかしこれはそれだけではない。なにかゆるぎないものがあり、そして怒りや欺瞞のかけらも混じっていない。


「承知できませぬ、信康は嫡男ぞ!武田との内通など根拠のない飛語で腹斬らせとは、信長殿の専断が過ぎまする、どうぞ信長殿に談判してくださいませ!」


「流言、飛語が問題なのではない。また談判したところで許されぬ。それどころかその時にはわしのことも切り捨てるお方じゃ、信長公というお人は。お方にはわかるまい……。お方のことは不憫に思うておる。許せ。」


 そう言って泣き崩れる築山殿を置いて家康は去った。次の間に混乱する減敬を残して。


(次回で完結!)

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