三・毒の雨
岡崎城の家康の居間では、不愉快な空気が重くよどんでいた。
家康が信康を叱っているのだ。
浜松城を居城とし岡崎城は信康に譲った家康だが、岡崎を訪れる時には収支勘定を検め各所を見て回る。今回来てみると勘定帳が不明瞭で各倉も雑然としており、城主信康はもとより役目の者も過不足を把握していなかった。
以前から信康は、家康に付けられた傅役や家老の諫言を聞き入れず、意に添わぬ者を冷遇する傾向があった。それが小者の場合は厳しく叱りつけ、時には過剰な折檻におよぶ。信康の管理能力以前に、そうした信頼関係の欠如やそのための連絡の齟齬が、家康にはより切迫した不安に感じられた。
そうして言葉厳しく理を踏まえて説く家康の前に、信康は冷ややかな不貞腐れた表情のまま誠意のこもらない詫びを言い、用はそれだけかという態度をあらわにして早々に下がっていった。
左右に隣席していた数人の者らも立って行った。が、一人残った。人質時代からの家康の近侍であり、政武どちらにおいても徳川家筆頭の石川数正だった。二人はしばらく言葉もなくただ座っていたが、やがて数正が口を切った。
「殿、なにゆえあの時、瀬名姫様を駿河からお連れ申したので?」
聞こえぬ者のように開いた庭に目をやっていた家康だが、ほどなくして言った。
「わしの母は、乱世を鎮める大将を授け賜れと祈願の参篭し、縁薄く一別した後も心を込めた便りを絶やさずわしを励ましてくださった。瀬名があの苦境の中でそうした祈りを持ってわしの子を育てていてくれたら、とな。」
数正は、まさか、というように首を振った。
「駿河ではそうした躾で子女を育てておりませぬ。義元公自身の嫡男でさえあの出来損ない、ましてや女子の瀬名姫様では、窮地の折の辛抱も意気地も……」
ふん、と家康は鼻で返事をした。
「若殿は二歳になるまでその辛抱も意気地もない母親の手ひとつで育てられ、その後も今日まで御前の膝下にあられた。泣き言恨み言で言葉を覚え、嘆きと不満を日々聞かされて長じた人間など、毒の土に植えられ毒の雨を浴びせられた木のようなもの。心根になにか危うい、弱いものをお持ちになるもお道理で。」
雨になりそうな空に目を向けていた家康は、やがて数正にいうでもなく立ち上がりながら言った。
「瀬名もいつまでも毒の雨でもあるまい。信康もこれからは戦地で過ごすことが長くなる。戦場で学ぶところがあやつを伸ばそう。」
数正は頭を下げたまま家康を見送った。
*******************************
家康に叱られた信康は、いらいらしたまま糧秣倉へと歩を進めていた。たった今父に指摘された、庫内の過不足の確認は急がねばならなかった。
織田も徳川も、ここ数年は連戦に次ぐ連戦の日々だった。大国今川の瓦解により徳川、武田、北条ら近隣の領主がその浸食に争う一方、足利将軍を擁して上洛を果たした信長に反発した各地の勢力が、巨大な寺社勢力まで巻き込んで団結してしまった。信長は昨年ついに比叡山の焼き討ちを断行し、鬼か魔かと世を驚かせたがそれも厚く囲んだ包囲網の一端でしかなかった。
目下の家康の危機は、三河への侵攻を本格化してきた甲斐の強国武田氏に対して、そうした状況で手一杯の織田家からの助勢が期待できずにいる状況だった。この至難の臨戦時に、厳格な糧秣の管理は絶対に必要だった。
来てみると大賀弥四郎がいた。家康に供して浜松からこの勘定方が来ていたと見ると信康の表情が明るくなった。
弥四郎は信康に付いてすべての庫を見て回り、帳面にあったいくつかの誤りや不明瞭を指摘すると流れるようにそれらを解決していった。
「受け渡しの記しに落ちがござりました。あとはいくつかの計数ちがい。これでつじつまが合わなくなったもので、小者がお叱りを恐れて若殿にお届を怠ったものでございましょう。若君の落ち度ではござりませぬ、こうしたことで若殿がお叱りを受けるとは……」
信康は満でやっと十四歳の、重すぎる責任を負いながらも認められようと始終焦っている少年だった。家康が多忙で家中が危機に瀕しているこの時こそ俊秀な嫡男としての存在感を示したいのに、逆につまらぬことで叱られ悔しく思っていることを弥四郎は正確に見抜いていた。
「こうしたことは以前にも度々ございましたが、ご報告なさるご家老衆はどうも若殿に厳しすぎまするようで、これでは大殿が間違ったご印象を抱きかねませぬ。」
信康はこの優秀な勘定方にいつか役職を超えた親しみと信頼を感じるようになっており、常ならば郎党などには決して聞かせない個人的な苦悩も時には聞かせていた。
「いつかそちが申していた通り、やはりこの身に流れる今川の血を忌む者が家中には多いようじゃ、この頃では特にそうした敵意をことごとに感じる。織田との昵懇を大事に思う者らが、わしが父に認められることを恐れているのじゃ。」
弥四郎は、いかにも嘆かわしいというに首を振ってみせた。
「だからでございましょうな、若殿と若御台様との間にお子ができれば、これはまさしく信長公の御孫。早々にその御子を中心とした派閥を作ろうと画策しておる気配もあるようで……。あ、雨が降ってまいりました、濡れるといけませぬ、さ……。」
促されながらも、信康は立ったまま顔を上向けて曇った空を見上げ、そのまま顔に雨を受けて立ち尽くしていた。