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築山殿  作者: 瀬緒 遊
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二・桶狭間の遺児

 岡崎では松を通る風までが駿河とは違って耳に響く。


胸元にいっぱいの汗を吹いて、築山御前は松風に起こされて目を覚ました。両手を叩くと、女中が盥を持って来て朝の化粧、身支度を手伝ってくれる。


 今朝の介添えは築山殿の気に入りの、お万という少女だった。知鯉鮒明神という由緒の古い社を代々祀る永見一族の娘で、沈みがちなこの女主人の気を引き立てようとなにかと心を配る、明るく健気な気性の娘だった。この朝も、じっとりと汗ばんだ築山殿のうなじや生え際をさっぱりと拭き上げ、張りのない肌などには気づかぬ素振りで、丁寧に築山殿の髪に櫛を入れている。


 そのお万の心使いには気づいていたが、築山殿は挨拶を返すこともしなかった。朝方に見た夢が、起きた後もまだ現実のように感じる生々しさで眼裏に残っていて、声を出す気力がなかったからだ。何度も繰り返し見る夢、あの日の夢だ。


 六月のその日は梅雨というのに蒸すような暑さで、叔父義元が三万とも四万ともいわれた大軍を率いて尾張を目指して駿河を立ってから数日経っていた。


 大規模な軍旅であったが、総力を挙げての遠征というような緊迫感はまるでなく、むしろ今川の威風で天下を心服させんがための豪華に飾られた目にまばゆいばかりの行軍で、主将義元からして鉄漿で歯を染め眉を置いた公家風の装いで、金鋲で飾った絢爛な輿に担がれての出陣だった。


 そのころは瀬名姫と呼ばれていたが、この祭りのような侵略の先鋒を申しつけられていた松平元康の、二人目の子を産んだばかりの若妻だった。尾張の織田など、降参するまでどの程度痛めつけてやればよいかというだけの問題と認識し、凱旋はいつになるか、戦勝の祝いの宴は、と胸算用していたのは瀬名姫だけでなく、今川館で待つほとんどすべての女もそうであった。


 そこへ雷のような凶報だった。義元が桶狭間とやらいう土地で奇襲を受けて討ち死にだと?まさか!


 追いかけて名のある大将武将たちの戦死が次々と伝えられた。あの逸材ぞろいの大将たちがこんなにも大勢一度に討たれるなど、あの四万の大軍が四散するなど、まさか!


「瀬名はどこにおる!瀬名姫をここへ!」

 沸いた窯をひっくり返したような喧噪の中、瀬名姫の祖母であり、今川家四代に渡って政務を補佐してきた尼御台の声が高く響いた。まわりの女どもが一斉に瀬名姫を振り向いた。


 この渦中にあって祖母が真っ先に心配してくれたという誇らしさに、自分がそれほど重要と思われており愛されているという驕りに、悲報の中にも胸を張って人を分けて瀬名姫は歩を進めた。ああなんて愚かな娘。夢の中で、築山殿は若かった自分の得意顔をひっぱたいてやりたくなる。


 その日の朝、瀬名姫の夫、元康率いる松平党が無事に先陣を務め大高城に入ったという知らせが届いていた。つまり松平党は織田の奇襲を受けず別の地で無事にあったのだった。尼御台の胸に鋭くひらめいた危機は、背後の北条でも武田でもなくその状況だった。


 振り返ってみると、今川はまったく松平をいじめすぎていた。


 幼い嫡男を人質に出させ、ただでさえ豊かでない領地には過酷な税を課し、城主広忠の急死の際はこれ幸いとばかりに城代をさしむけて岡崎城を乗っ取り、何度請願されても帰国を許さずに、駆り出してきたのは危険で犠牲の多い戦地ばかりだった。


 先年の初陣に続き今回の先陣でも恐ろしいほどの手腕を見せるようになってきたその新当主、元康であれば、今川家がこれほどの大打撃を受けた今この時、一党ほぼ総員が武装の上で今川領から放たれているこの機会を逃すはずがない。


 松平党はおそらくこの機に念願の帰国を叶えようと三河の岡崎城に入り、駿河に戻っては来るまい。そして義元亡き後の今川に対して、これまでのように従順には従わぬようになるだろう。これがもしや敵にまわったら?もしや織田と結んだら?


 尼御台が真っ先に手を打ったのはそれに対する人質の確保だった。松平の家臣どもに瀬名と瀬名の産んだ子らを渡してはならぬ。そう、瀬名姫は祖母に人質として拘束されたのだった。


 それに気づいたのはいつだっただろう。夫はやはり妻も子もかえりみずに岡崎に入った。そしてこともあろうに、尼御台が怖れたように、義元を討ち果たした織田信長と同盟した。


 義元の跡を継いだ氏真は愚昧で臆病な人物で、この同盟に激怒して松平の重臣から預かっていた人質の多くを処刑し、瀬名の両親にまで自害を命じた。

 瀬名の父は代々今川家を支えてきた名族関口家の長であり、母は義元の妹で尼御台の生みの娘、氏真にとっては実の叔母にあたる人であったのに。この二人は元康の離反には何の責任もなかったのに。


 瀬名姫には信じられる人が誰一人なかった。無意味に父母を殺した氏真には憎悪と軽蔑しかなく、こんな無能のくせに残忍な人物を頭にいただかねばならぬ今川の将来には絶望し、また父母を救えなかった尼御台に幻滅した。


 瀬名姫のこれまでの人生は今川の拡張のもとにあった。その勢力の域外に人生があろうとは想像したこともなく、娘時代には相応の家に嫁入ることを夢に見、その夢に破れ占領国のひとつ三河の松平などに嫁がされた後では今川圏内での婚家の出世以外に志を持たなかった。


 そうした瀬名姫には、ことここに至っては自分で自分の心を支えるものがまるでなかった。生まれたばかりの竹千代と、ようやく二歳になるばかりの亀姫のふたりの子を抱いて泣き、口を出るのは嘆きと誰彼への恨みばかりだった。


 そうして過ごすこと二年。その間、実は元康は瀬名と子らを取り戻すために骨を折っていたらしく、ついに人質交換という形で岡崎城に迎えられた。


 久しぶりに会った妻は青白く痩せ、今川を裏切った夫をなじった。再会の喜びも、これまで離れていた間隙を埋めようとするなにごとも口にせず、元康が瀬名姫を離縁して駿河に置き捨て、嫡男だけを引き取ることもできたことに気が付きもせず、夫の背信のために偲ばねばならなかった二年間の苦難を訴えた。


 元康は辛抱強く松平の独立の重要さ、今川での将来性の低さ、そして戦国の終結という大望のもとに結んだ織田家との同盟の意味を説いて聞かせたが、瀬名姫は聞く耳を持たなかった。


 瀬名姫にとって戦はいつも国外か、せいぜい国境あたりで行われ、美々しい装いの武将が手柄を立てて凱旋するものであり、家を焼かれ奪われ殺されるというようなものではなかったし、占領国からの人質という素性を知りながらその夫の帰国の悲願も理解の外だったくらいなのだから、乱世と聞かされても何も心に響かなかった。


 元康はそうした彼女を城内には置かず、城壁内にある離れの寺院に住まわせた。その庭には盛り土で作った築山があり、出自をはばかって駿河御前とも関口御前とも呼ばれなくなった瀬名姫はその庭にちなんで築山殿と呼ばれるようになった。


 一方で元康は義元から与えられた元の字を捨て家康と名を改め、家も松平を改姓し徳川とし、今川との決別と徳川の独立を内外に強く印象付けた。


 お万に声をかけられて長い回想から目が覚めた。髪上げが終わったのだった。洗面、整髪の道具などを取り片づけながらお万は言った。


「とてもおきれいでございます。今日は減敬殿がいらっしゃいますので、鍼など打たせればまたお元気になりますでしょう。」


 寂し気に寄っていた御前の眉間がほんの少し開いた。そうだ、今日は減敬が来るのだ。



(続きます~)


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