「ブランコ坊や」と呼ばれる子供が、指で作ったピストルで僕を狙い撃ちしようとするので困っています
我が家の目の前には、近所の子供たちが野球をするにはやや狭い、バトミントンやフットサル程度であれば十分楽しめる、そんな広さの公園がある。この土地に古くからある公園なのであろう、公園の中央には巨大な欅が鬱蒼と鎮座している。
三十歳の時に、僕が勤める造園土木会社の上司にお値打ちの土地を勧められ、俄かに様々な条件が整い、時の勢いにトントン拍子を打たれ、アレヨアレヨと舞い踊っているうちに、気が付いたらマイホームを購入していた。
勿論、上司に無理矢理買わされた訳ではない。人生における最大級の買い物だ、妻と再三にわたる入念な家族会議の末、最後は僕が自ら決断をした。
でも、大きな買い物をしたわりに、どこか他人事のようだった。実際のところ、僕のような小心者が、三十五年に渡るローンを組む、要するに膨大な借金を抱えるなどという現実を真正面から捉えていたら、毎晩高熱にうなされて寝込み続ける程のプレッシャーに苛まれるのは当然の帰結。これでは氷嚢がいくつあっても追いつかない。
そんな事態にならぬように、精神が何かしらの防衛本能を働かせているのかもしれない。マイホームに住み始めてもう二年になるが、未だに、他所様の家を間借りしているような、妙な感覚を否めずにいる。
日曜日の朝。五歳になる一人娘を連れて公園を散歩する。欅、楠、樫木、園内の樹々たちが枝や葉を擦り合わせて互いに朝の挨拶を交わしている。おはよう。おはよう。僕も樹々の葉擦れに割り込むように、胸一杯の挨拶をする。快晴。頬を撫でる心地良い朝の空気。僕はこの公園がとても気に入っている。
「あ、ブランコ坊やだ」
娘が公園の遊具が点在するエリアを指差す。指し示す方へ視線を送ると、見たところ小学校中学年といった感じの男の子が、一人で公園のブランコで遊んでいる。
「ブランコ坊や?」
「うん、近所のお友達がみんなそう呼んでいるよ。あの子ね、一日中あのブランコに乗って遊んでいるの。ねえ、パパ、私もブランコで遊びたい」
娘のリクエストで、僕たちはブランコで遊ぶことにした。幼児用のブランコに娘を乗せて、優しく揺らす。その横でブランコ坊やは、さもすれば一回転する程の勢いでブランコを漕ぎまくっている。
ブランコ坊やの風体は、白い無地のシャツに、黒い半ズボン、坊主刈りで、頬がポコッとこけている。間近で見て分かったのだが、身長は一六〇センチを優に超えていて、恐らく小柄な僕より既に背が高い。異常に長い手足は、骨と皮のみで構成されているかのように細い。
「あの子とお話をしたことはあるかい」
僕はブランコを揺らしながら、娘にこっそりと質問をした。
「ないよ。ブランコ坊やは、何もしゃべらない。あの子の声を聞いた友達はいない」
「あの子に、意地悪とか悪戯をされたことはないかい」
「ないない。ブランコ坊やは、いつもただブランコに乗っているだけ」
ブランコ坊やのブランコが揺れる度に、激しい金属音がする。おや、娘のブランコからも、ギシギシと鉄の擦れる音がする。塗装の上塗りで誤魔化してはいるが、この遊具はかなり老朽化が進んでいるのだ。
昨今は、古い遊具や危険な遊具は、速やかに撤去される。子供を危険晒さない為の国の取り組みなのだ、致し方ない。この公園のブランコが撤去される日もそう遠くはないだろう。造園土木に携わる職業柄、そこら辺のことは手に取るように分かる。
「このブランコは、壊れそうだ。危ないよ。降りようか」
僕は娘に注意喚起をした。
「嫌だ! 私、このブランコで遊びたい!」
娘が激しく駄々をこねる。
「乗らない方がいい。危険なの。そうだ、あっちの滑り台で遊ぼうか」
「嫌だ! 嫌だ! ブランコで遊びたい!」
「我儘を言わないでおくれ」
「嫌だ! 嫌だ!」
「パパを困らせないでおくれ。ママに言いつけちゃうよ。そうしたら、君はママに怒られるね」
その刹那、不吉な気配、いわゆる殺気のような気配を感じる。ふと見ると、先程までブランコを大車輪のように漕ぎまくっていたブランコ坊やが、停止したブランコの板の上に座ったまま、右手の指でピストルの形を作り、左手をそのピストルに添え、僕を狙い撃ちする仕草をしている。
「……き、き、き、君、な、な、な、何なのさ? おじさんに何か用?」
返事はない。ただ指で作ったピストルで、僕という標的を無言で狙い続けている。いやマジで怖い。やめてよもう。
その日から僕は、会社からの帰宅途中や、休日の散歩途中などで、公園のブランコを意識して見るようになった。ブランコ坊やは、頻繁に目撃された。
そして、僕の存在に気が付いたブランコ坊やは、必ずブランコを停め、指で作ったピストルで僕を狙い撃ちしようとするのだ。
おいおい、勘弁してくれ。僕が何をしたというのだ。それ以上何かしら特別な攻撃をこちらに仕掛けてくるような事はないのであるが、それにしたって平常心でいられよう筈がない。
いつしか僕は、公園の植栽の陰に隠れて、こっそりとブランコ坊やを覗き見るという、妙な毎日を送る羽目になってしまった。
但し、娘と公園で遊んでいる時は、娘の手前、小学生にビビって、こそこそと身を隠すような情けない真似は出来ないので、歯を食い縛って平然としているといった具合だ。
※ ※ ※ ※ ※
時が流れた。
「あ、ブランコ少年だ!」
「ブランコ少年?」
「うん、みんなが最近そう呼ぶようになったよ」
小学三年生になった娘と公園で遊んでいたら、久しぶりにブランコで遊ぶ彼を目撃した。彼は小学六年生になっていた。身長は一七〇センチを超え、ビー玉のような喉仏が、ブランコを漕ぐたびに遠心力で上下に揺れている。成る程、もう「坊や」と呼ぶには差し障りがある、だから「ブランコ少年」という訳だ。
「いやはや、また一段と大きくなったなあ。でも彼はいつも半ズボンなのだね」
「うん、ブランコ少年は、いつも半ズボン」
「ははは、真冬でも半ズボン」
「あ、パパ、ブランコ少年を侮辱しては駄目だよ。ほらパパったら、また狙われている」
げげ、遠方から僕を狙撃しようとする、右手のピストル。
※ ※ ※ ※ ※
更に数年の時が流れた。
「あ、ブランコ兄さんだ!」
「ブランコ兄さん?」
「うん、最近お髭が生えているから、みんながブランコ兄さんと呼ぶようになったよ」
小学六年生になった娘と公園で犬の散歩をしていたら、中学三年生の彼を目撃した。
身長一八〇センチ以上あろう痩せこけた大男が、今にも壊れそうなブランコを豪快に漕いで、グワングワンと揺らしている。相変わらず半ズボンであること除けば、「ブランコ兄さん」と言うか、見た目はすっかりオッサンだった。しかし、その行動の端々に垣間見える幼さは、やはり「坊や」なのであった。
この年、僕は町内会長を仰せつかっていて、ご近所に町内会の関係の集金をしたり、お知らせのチラシを投函して回ることがあった。ある日、僕の家の斜め向かいの賃貸マンションに町内会費の集金に出向いた際に、狭いエレベーターに乗っていたら、なんと、ブランコ坊やがふらりと乗り込んで来た。
驚きで心臓が止まるかと思った。消える筈のない己の気配というやつを、全力で消す試行錯誤をした。無言。無音。ああ、静寂で耳がギンギンする。絶対に相手と視線を合わしてはならないのであるが、相手から明らかに嫌な熱視線をこれでもかと感じるので、僕は少しだけブランコ坊やの方へ首を動かす。
案の定、右手のピストルが、超近距離で僕を狙い据えていた。
こうなってくると、恐怖を通り越して、何だかもう笑えてくる。八階でエレベーターを降りたら、ブランコ坊やも同階で降りた。僕の後頭部に右手のピストルを押し付けながら、後ろをいつまでも付いて来る。はいはい、これは何の真似だ? 僕はいったい何の人質だ? その後、ブランコ坊やは、丁度僕が集金に伺うお宅の息子さんだということが判明した。本当にもう、地獄のような時間だった。
※ ※ ※ ※ ※
それから半年後、僕は家の前の公園のフェンスに、大きな工事案内看板を針金で括り付けていた。務めている造園土木会社が、この公園の老朽化した遊具を撤去する工事を、たまたま入札で落札したのだ。僕はこの工事の監督に配置されてしまった。あの鋼製のブランコも僕がこの手で撤去しなければならない。
僕が工事看板を設置していると、公園で遊んでいた幼い子供たちが僕を取り囲む。
「ねえ、おじさん、あのブランコ無くなっちゃうの?」
「うん、もう古くなって危険だからね。仕方ないよ」
「ねえ、おじさん、その後に、新しいブランコを作ってくれるの?」
「いやあ、おじさんは、撤去するだけだから、後の工事のことは知らない」
「僕たちこのブランコが好きだよ! 僕たちのブランコ壊さないでよ!」
「いや、あの、こめんね、仕事だからさあ……」
「おじさんから、町の偉い人にお願いをしてよ! 工事を中止してよ!」
「ははは。うん、分かった、おじさんから、町の偉い人にお願いをしてみるよ」
上辺だけの適当な返事をして、子供たちから逃げるように公園を離れる。
社用車で帰社する道中、僕は情けない気持ちで一杯になった。あんな古びたブランコのことですら、子供たちは、それぞれの思いを真摯に僕に訴えた。子供たちは、いつも、何事においても、当事者なのだ。
それに引き換え、自分の、あのいい加減な態度は何だ。今日に限ったことではない、振り返ってみると僕という人間の人生は、あらゆることが、どこか全て他人事だった。妻と結婚した時も、マイホームを購入した時も、我が子の前で父としてあらなければならない時も、自分の知らない場所で自分とは全く関係のない自分が事を成している、いつもそんな感じで、ぼんやりと霞がかかっていた。
脳裏に彼の顔が浮かぶ。ブランコ坊や、そう言えば、最近見ないな。
数日後、撤去工事着手の朝。僕は公園の脇に社用車を停め、工事黒板とデジタルカメラを持って、着工前の写真を撮影する為に、老朽化したブランコのところへ向かった。
すると先に現場で準備を始めている筈の5~6人の部下たちが、ブランコの周りを取り囲み、途方に暮れている。「どうした、何かあったか?」と聞くまでもなかった。本日撤去予定のブランコで、あのブランコ坊やが、これ見よがしに遊んでいるのだ。
「工事の邪魔なのでどきなさい、そう何度注意をしても、聞き入れてくれないのです」
項垂れた部下の一人が、僕に報告をする。人だかりの中央で、身長一八〇センチ以上あろう痩せこけた大男が、素知らぬ顔で、今にも壊れそうなブランコを豪快にグワングワンと漕いでいる。
「話しかけても返事をしてくれません。ずっと訳の分からない言葉を叫びながらブランコを漕ぎ続けています」
僕はヘルメットの隙間に手を入れて頭皮をボリボリと掻き、彼の声に耳を傾けた。
「おめでとう! 一等賞だ! ありがとう!」
ブランコ坊やは、漕いだブランコが最高地点に達する度に、大空に向かってそう叫んでいる。
「おめでとう! 一等賞だ! ありがとう!」
初めて聞いたブランコ坊やの声は、土台この世の者とは思えない摩訶不思議な声音をしていた。
「おめでとう! 一等賞だ! ありがとう!」
それは本日撤去されるブランコへ向けての、ブランコ坊やからの労いの言葉のようにも聞こえたし、もしくはブランコ本体が、ブランコ坊やの声帯を借りて、今日まで愛着を示してくれた彼を賞賛しているようにも聞こえた。
「どうしましょう監督、これは明らかに工事妨害です、役所の担当者に連絡をしましょうか?」
部下が、僕の判断を急かす。
「う~ん、役所か~、う~ん」
「それとも、警察に電話しますか?」
「う~ん、まあ、仕方ない、そうしてくれるかな」
「かしこまりました」
部下が胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「いや、ちょっと待って。たしかあのマンションの803号室に保護者がいる」
僕は以前、町内会費の集金でお邪魔したブランコ坊やの自宅の方を顎で指し示した。
「では、保護者を呼んで来ますね。そういう指示ですね」
「うん、それが無難な気がする。悪いね、そうしてくれるかな」
この騒動ですら、僕にとっては、どこか他人事だ。
部下が連れてきた保護者は、以前お会いしたご両親とは違う人物だった。ブランコ坊やとは顔立ちも体格も似つかぬ筋肉隆々の青年で、恐らくこの人は、施設から派遣されたブランコ坊やを担当している係りの人だと思われた。
「こら! ○○! 人様に迷惑を掛けては駄目じゃないか!」
保護者は、そう叫ぶや否や、ブランコ坊やを後ろから羽交い絞めにして、無理矢理ブランコから引きずり下ろした。僕にはそれが遊具の肉体を引きちぎっているように見えた。
「〇▽◆●▲□があがが×▲おおおお」
ブランコ坊やが、腹の底から臓物を吐き出すような奇声を上げて抵抗をする。しかし、保護者の物凄い力で、問答無用に地面を引き摺られて行く。泥まみれになり、膝を擦り剥き、鼻水を垂らし、大粒の涙を流しながら、痩せこけた大男が、マンションの方へ、ズルズル、ズルズルと引き摺られて行く。
泣くな、ブランコ坊や。君は胸を張って堂々と声なき声で訴えた。君は立派だ。君は、このジクジクと血の滲む赤剥けになった現実の、まごうことなき当事者だ。
「撃て!」
マンションの入り口まで引き摺られながら、それでも暴れ回る彼に向かい、僕は大声で叫んだ。
僕の意思だ。僕は今、間違いなく自分の意思で叫んだ。
僕の声に反応したブランコ坊やが、咄嗟に右手でピストルを作り、左手をそのピストルに添え、まるで西部劇のガンマンのように、僕を狙い撃ちする仕草をした。
僕は両手を広げ、胸の辺りを無防備にして、標的になる。
そうだ、右手のピストルよ、僕を撃て。
指の銃口よ、銃弾を放て。
肉の拳銃よ、お願いだ、完膚なきまでに、僕を撃ち抜いてくれ。
「●▲□があ〇▽◆がが×らラガヌああ」
ブランコ坊やが、銃声のような怒声を轟かせる。
撃て、撃て、僕を撃て。