神と罪のカルマ オープニングfifth【05】
随分と走り続けている二人。足が速い狂い人に未だ捕まらないとなると女の方も相当足が速いと窺える。
だが、所詮は男と女。体力の差が生まれる。
しかも、大雨の中で繰り広げられているため体力の消費はお互いに激しいはずだ。それなのに、狂い人の方は体力の消費を感じさせない。それどころか段々距離を縮めている。
それでも捕まるまい、と。女は必死に足を動かして狂い人との距離を作ろうと走り続ける。
そして…――運命とは残酷なもの。
軽く言ってしまえば、気まぐれなもの。
「……!?」
だんだんと距離が縮まっていく中でいくつ目か分からない水溜まりを踏んだ瞬間、女は足を滑らせた。
なんという不幸か。必死になって転ばないように身体を動かし踏ん張ろうとするが叶わず。バランスを保つために頑張っていた身体は走っていた時の勢いと濡れた道によって前のめりに倒れこんでしまった。
その瞬間を男は逃さない。
「やっぱ、選ばれたんだぁぁああ!!」
運命が自分の味方をしたのだ、と。口の端を限界まで引き上げ、目が飛び出すかの如く見開く。そのまま疲れを見せない片足で濡れている道を力強く蹴った。
そして。その勢いのまま、立ち上がって体制を整えようとする女へと突進したのだ。
「っ……!?」
大の男による突進に、女性が耐えきれる訳がない。
ふらつきながら身体に鞭を打って立ち上がった女の身体は再びアスパルトの道に倒れ込んだ。
好期だ、と。再び逃げ出さないよう素早く女の上に狂い人は跨る。
乱暴に女をうつ伏せから仰向けに。自分の顔を見ろとでもいうかのように胸倉を掴み自分の顔に引き寄せた。
「ちょろちょろちょろちょろちょろちょろ逃げんじゃねぇよ!! 虫が!! あ゛ぁ!! 刺させろってんだから刺させろよ!! 弱っちくて脆い癖に生きようとしてよ!! さっきまで、疲れ切った死にてぇって顔しやがってたのによ!! 自分勝手だなぁぁぁああああああ!! 死にたいなら殺してやるってんだよ!! 俺はなぁ、人間なんぞ大っ嫌いだぁぁあああ!!」
意味がわからない。理解不能。
狂い人の勝手なイラつきが、楽しみが、興奮が湧き上がり混ざり合う。
自分でも形容しがたいその感情が、狙う理由を気まぐれから彼女の自業自得だ、と自分勝手に変えていた。
何とも愚かで、救いようのない、可笑しくも哀れな男であろうか。
しかし。その男を馬鹿にするような言葉の数々など、いまの女の頭には浮かばない。
恐怖だけで縛られている頭には浮かぶことが出来ない。浮かぶ余裕すらない。
「さぁ! さぁ! さぁ! 何処を刺してやるかぁぁあああ!!」
包丁の先を女に向け、理性の無くした目で女の身体を隅々まで舐めるように見る狂い人。
勿論、その間も女は必死に抵抗していた。細くて小さいその両手で正気ではない男を持てる力で押し返す。足もバタつかせ、逃れる隙を頑張って作ろうとしている。
だが、適うわけがない。ひ弱で非力な男なら何とか出来ただろうが、相手は日々殺人のために身体を鍛えている大の男だ。
押してもびくともしない。身体を動かし続けるも、体制が少しでも変わることは無い。
力では敵わない。敵うはずがない。
自分が何をやったんだ。止めてくれ、夢であってくれ、と女が願った。
その時。男の目が一点に集中した。
「心臓!! 心臓がいい!! 切って切って切って切って血を!! 血がぶひゃぁぁ!! ってな!!」
もう逃げられないのか。助からないのか。女の顔が絶望に変わる。
いまだに叫んで抵抗する女を片手で道に押し付け、狂い人は包丁を持つ腕を持ち上げた。
左胸──心臓に狙いを定める。
「やぁぁああああああ!!」
血を。真っ赤な血を。心臓を。
刺して、鼓動を止めて、刃を赤く染めろ、と。
最高な感情が力を増幅させる。腕に力を集中させる。
そして―――、いまだと思った瞬間。
雨と共に女の心臓目掛けてその鋭い、煌めく刃を。
真っ直ぐに落とした───―。
「死ねぇぇええええええええ!!!!」
「―――――せェ」
包丁が――消えた。
「……はれ?」
突然。振り落すまでの、秒にも満たないコンマの世界で。
女の心臓を目掛けて振り落としたその手から。血に染まるはずであったその手から。
銀に輝く刃が消えた。
何が起きたのか。
何度も握ったり、開いたりを繰り返すも、そこには物を持っている感覚が一切無い。
あるのは肌が合わさる感覚。
そして、何故かいきなり襲い掛かってきた強烈な痛みと痺れ。
訳が分からない。
一体何なのだ、と頭が混乱する中。幽かにだが、雨の中で何か落ちる音を耳が拾った。
音の方へ視線を向ける。銀に光るもの。
そこには、先ほどまで握っていた筈の包丁が転がっていた。
(どうして―ー?)
握っていた包丁は間違えなくいま道に落ちたもの。
だが、何故そこにあるのか。
まさか誰かが邪魔したのか、と。四方八方、雨を落とす天までもをその見開いた目で見渡すが、誰も見当たらない。
……否。確かに人は見当たらなかった。
「……?」
その時。狂い人は視野に何かを捕えた。
目線を下に落とす。
改めて目に映ったのは、雨に打たれる道に転がっている――傘。
綺麗に畳まれている藍色の傘。新品なのか、値段が高かったのか。
傘は水はけが良く、見るからに丈夫そうで安物の傘ように濡れて深い色へ変化してしまう様子もない。何よりも目が引くのは、傘のサイズが通常よりも大きいと見える。
……同時に、男は気付く。
その傘は明らかに女のものではない、と───
「……!?」
狂い人は視線を再び上げた。
そして、その目はまた、別のものを捕える。
女の近くに転がっている、もう一つの――――、
もう一本ある―――――『傘』を……。
女の近くに転がる〝女ものも傘〟を――――。
そんな馬鹿な、と身体が焦る。
信じられない。認められない。
だが、この転がっている二本の傘がいまの状況の理由を、突然の出来事の原因を物語る。
藍色の傘は自分のものでも、女のものでもない。
『第三者』のものだと──
第三者がそれで阻止したのだと──
「!? だれッ――!?」
次の瞬間、男の身体は飛んだ───!
「――っ!?」
突然、襲い掛かってきた鋭い痛みと衝撃。
誰だ、と。最後まで言わせることも無く、狂い人の身体は強制的に女の上から吹っ飛ばされた。
一瞬の出来事。何がなんなのか、全く理解することのできない状況に頭の中で驚きと謎が混ざり合っていく。
同時に刹那の、宙を飛ぶような感覚が狂い人を襲う。そのまま身体は重力に従ってアスファルトの道を無様に転がっていく。
何度も濡れた道に転がり打つ身体。やがて勢いを失い止まったも、身体中とあちらこちらに強く打ったの痛みが残る。
(何が起きた――!?)
しかし。男は痛みなど気にしていなかった。気にしていられなかった。
身体に受けた鋭い痛みも。叩きつけられた痛みよりも。
どうして自分はこうなっているのか、という気持ちにこの瞬間の身体は全て支配されていたからだ。
「オイ」
その時、声が聞えた。
誰かが来たのか。いまの瞬間を目撃されたのか。
それならば殺そう。こんな無様な姿を人間如きに見られて生かして返すわけにはいかない。
混乱している状態でも狂い人はすぐに「消す」「殺す」の選択肢を選び、身体を起き上がらせようと力を入れる。
……が。力を入れた時、一つの疑問が頭を過ぎった。
(いまの声、可笑しいぞ――?)
向けられた声。それは普通に……、ただ呼びかけたような声で。
男と女が二人して派手に転んでいる状況なのにそれに対する驚きを全く感じさせない。また、女を心配する様子も無い。
真っ直ぐに、一切のブレも無く。その声は狂い人へと向けられていた。
腕に力を入れる。何回か滑って失敗しながらも狂い人は痛みを無視して身体をゆっくりと起こした。
誰がそこにいるのか。誰がそんな可笑しな声を向けたのか。
多少、まだ目の回った状態で人物を突き止める為にその歪んだ顔を上げた。
そこには、先ほどまでこの場にいなかった人物が一人。
ずぶ濡れ状態の男。傘は差していない。
その長身によって、高い位置から男を静かに見下ろす。
「てめェか。さっきから気持ち悪ィ殺気ばっか出してんのは――」
金色の『光』と、黒色の『闇』を髪に持つ──
仁樹が立っていた──




