霧の中の街
「唯月は本名だよ。漢字と名字はあっちの世界で使った偽名だけど。生まれも育ちもバスラのヴァンパイアって言えばわかる?」
千花は言葉の意味を理解し、同時に驚く。
「バスラの、ヴァンパイア? 風間先輩、人間じゃないんですか」
唯月の姿はどう見ても人間と変わらない。
興人から見せてもらった尖った牙ももちろんない。
「今は化けてるだけだよ。急に元の姿に戻ったらびっくりするでしょ」
ヴァンパイアはただでさえ悪魔に近い容姿だから。
唯月は容姿について困ったような顔で笑う。
「後は、扉が開けられるのはあいつが……ゴルベルが血を持ってくるよう命じたからだと思う」
唯月は今までの優しそうな表情から一転、顔を歪ませて千花に説明する。
『ゴルベル』という名前は聞いたことがないが、バスラに住んでいるとあれば予想はつく。
「バスラを乗っ取っている魔王の名前ですか」
「うん。ずっと……3年前からね」
唯月は奥歯を噛みしめ、怒りや悔しさを押し込めるように息を吸う。
その表情から、彼が悪魔側でないことはよくわかる。
「血を持ってくるって?」
「ゴルベルが乗っ取ったのはヴァンパイアだから、どうしても血が必要らしい。でも、ヴァンパイアが同種族の血を飲むことはできないから」
千花の予想通りヴァンパイアは血を飲む種族だった。
どうやら唯月の話では、地球に来ていらなくなった輸血パックをもらっていたらしい。
「でもなんで風間先輩が? 他のヴァンパイアはいないんですか」
「いるよ。でも皆ゴルベルに怯えて外に出てこなくなった」
ウェンザーズのような静けさがあったので千花はまだヴァンパイアが残っていることに驚いた。
「ヴァンパイアは基本馴れ合うことがないんだ。日中は自分の家で寝るくらいしかすることがない」
国として成り立っているのかと千花は疑問に思ったが、ヴァンパイアが夜行性であることを思い出す。
(泉に落ちてそこまで経ってないのならバスラもまだ日中なのかな)
千花はベッドの側に備え付けてあった小さな窓に視線をやる。
ほんの少し、覗くことができる程度に開いていたため千花は顔をそちらに持っていく。
「あ、待って!」
千花が体を伸ばそうとしているのがわかった唯月は腕を掴んで引き止める。
逃亡すると思われていたのだろうか。
「逃げようとは思っていませんよ」
「そうだったの? 良かった。そのまま落ちたら田上さん怪我するから」
千花が言葉の意味を知る前に、唯月が隣に来て窓を少し開ける。
「あまり開けすぎると田上さんの体に良くないから見たらしめるよ」
唯月に促され、千花は外の様子を眺める。
しかしどこを見ても真っ白な景色だけだ。
「……これ、街ですか?」
上も下も左も右も真っ白な国。
前方すらよく見えない。
千花が目を凝らそうとすると、唯月は窓を閉めてしまう。
「ごめんね。でもこの霧を人間が大量に吸うと毒なんだ」
霧で思い出す。
バスラは濃霧地帯だ。
訓練でも何度もこの霧を経験した。
「毒? ただの霧が?」
「人間にはただの霧だと思われてるけど、これ全部ヴァンパイアの栄養源なんだ」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
霧がヴァンパイアの食物なのだろうか。
「細かく言うと霧の中に含まれてる魔力なんだけど」
「もっとわかりません」
「人間世界の霧は水蒸気でできてるでしょ。バスラの霧は水蒸気に加えて高濃度の魔力が含まれてるんだ。だから血を飲めない時は空気を部屋に入れて吸うんだ」
「ヴァンパイアは食事をとらないんですか」
「人間の物を食べることはできるけど、栄養にはならないね」
ウェンザーズの時は食事情を聞かなかった。
聞けば当たり前だが、種族の違いは千花が思ったより受け入れづらいことがわかる。
「魔力があるから人間は吸っちゃだめなんですね」
「大量に吸うと魔力酔いを起こすんだって。気をつけてね」
また新しい言葉だ。
なんだ魔力酔いとは。
(言葉通りなんだろうけど、お酒に酔うみたいな感じかな)
千花は呑気に思いながら次の質問を考える。
「あの、風間先輩が敵でないことはわかったので警戒はしません。だからそろそろ帰りたいんですけど」
千花の脳裏にトロイメアの光景が映し出される。
時間の経過はわからないが、何も言わずにバスラに来たのだ。
場合によっては拉致されていると思われていても仕方ない。
(風間先輩の無実を晴らすためにも早く帰らないと)
千花の願いに唯月は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「本当にごめん。今は帰せないんだ」
「元の場所に帰る扉に行けばいいんじゃ?」
「そう。でももう夕刻になる。あいつが起きるんだ」
「ゴルベル?」
唯月の話では今回の魔王ゴルベルはバスラ全土を持っているらしい。
夜に出歩いたら確実に捕まる。
それでも日を跨ぐのは色々な意味で危険だ。
千花は何とかゴルベルの目をかいくぐれないか聞くことにする。
「何とかして帰りたいんです。道を教えてもらえればいいので、お願いします」
霧の中を1人で歩くのは危険極まりないが、ゴルベルに怯えている唯月を外には出せない。
何とか千花が出口を聞こうとするが、唯月は頑なに首を振るばかりだ。
「田上さんの言いたいこともわかるし、僕だって不注意で連れてきて本当に申し訳ないと思ってる。でも、田上さんをハヅキのようにはしたくない」
「ハヅキ?」
千花の聞き返しに唯月ははっと我に返る。
その後、仕方ないというような表情で立ち上がる。
ついてきてほしそうなので、千花は大人しく従う。
「ハヅキはこの子。ゴルベルに逆らって夜中に外に出て、血を吸われた僕の妹だよ」
そこにいたのは、ミイラのようにしわがれた体で眠る、幼い少女の姿だった。