拉致された千花
興人は担任に頼まれた力仕事を終わらせる。
倉庫にあった荷物を職員室に運ぶ単純作業だが、量が多く時間がかかってしまった。
「ありがとう日向君。遅くまで残らせてごめんね」
礼を言う担任に簡単に挨拶すると、興人は寄り道せず寮に帰る。
(本当はこんなことしてる場合じゃないが、断れなかった。早くリースに行かないと)
興人も既にバスラへ行くことは邦彦から命じられている。
興人は千花のことが心配だった。
(田上は魔王討伐の不安で上の空になってる。事故にならないように正気に戻さないと)
トロイメアに向かう最中でも、もしかしたら泉の所でも事故を起こしていないとも限らない。
今の千花はそれだけ気を取られている。
(気持ちはわからなくない。でも、気の迷いで田上が殺されることだけは避けないと)
興人は適当に準備を済ませると、急いで泉の方へ向かう。
いつも通り人気のない道を迷わず進むとすぐに泉が見える。
「……ん?」
泉に飛び込もうとした瞬間、興人は視界の端で何かが光る所を見つける。
その場に座ると、光の正体が小さい水色の石がついた髪ゴムであることがわかる。
髪ゴムは無理に引っ張られたのか輪っかがちぎれている。
「田上の? 泉に落ちる途中で落としたのか」
今の注意力散漫な千花ならありえることだ。
しかし、いつも腕に身に着けている髪ゴムがちぎれればすぐにわかるはずではないだろうか。
(……1回、ギルドに行ってみるか)
ここに髪ゴムがあるということは千花は先にリースへ向かっただろう。
抱いた予想が杞憂であることを願って興人は泉に飛び込んだ。
「ようオキト。今日はチカも来てないし学校で何か用事でもあったのか」
珍しく息を切らしてきた興人は訓練場を見回す。
だがどこを見てもシモンしかここにはいない。
「どうしたオキト。体力馬鹿のお前が息切れするなんてなんかあったのか」
興人の行動にシモンは目を丸くする。
そんなシモンに対し、息も整わないまま興人は口を開く。
「田上来てないんですか」
「おう。アイリーンも見てないっていうし、異変でもあったか」
興人の反応にシモンは嫌な予感を覚える。
「泉の前に田上の髪ゴムがちぎれて落ちてました。俺より先にこっちに来てるはずなんです」
どこか寄り道しているのだろうか。
いや、今の緊張状態にある千花が訓練以外に現を抜かすことはほとんどないだろう。
「俺の心配しすぎでしょうか」
「いや、オキト、お前はもう1回地球に帰ってクニヒコに伝えろ。俺はアイリーンに伝えてトロイメアを見回ってみる」
一気に緊迫した空気が流れる。
それだけ今の千花の周りは危険なことが多い。
「勘違いでもいいから怪しいものはとにかく洗え。チカが見つかればすぐに連絡する」
「わかりました」
興人は今来た道を駆け足で去る。
シモンも訓練場を出る前に魔力で千花の位置を探る。
(……近くにはいない。くそっ、こんな大事な時に)
せめて千花が傷ついていなければいい。
そんな一縷の望みをかけて、シモンは訓練場を出た。
薄ら寒い風が肌を吹き抜ける。
千花は不愉快そうに眉を寄せて自分の腕を体に巻くように暖を取る。
(寒い。今は夏のはずなのに。熱が奪われていくみたいに冷える)
これ以上熱を逃がさないようにと思いながらも、体は寒さに耐えきれなくなってくる。
苦痛とまではいかないが、不快な外界に千花は堪らず目を開ける。
(……ここは?)
千花は横向きで寝ていたらしい。
視界に映るのは薄暗い一室のようだ。
家具の配置や種類は見たことがないが、別に怪しい所は見当たらない。
「よいしょ」
千花は重い体を起こす。
どうやら簡易的なベッドに寝かされていたらしい。
拘束などもされていない。
(私、何してたんだっけ)
まだ覚醒状態にない意識を駆使して気絶する前の記憶を呼び戻そうとする。
その直後、扉から誰かが入ってきた。
「あ、おはよう田上さん。起きたんだね」
千花の前にはいつもと変わらない唯月の姿があった。
唯月を見た途端千花の記憶は戻ってくる。
「っ!」
「ま、待って田上さん! 話を聞いて」
唯月が泉の前まで来たこと。
自分に近づこうとしたことを思い出した千花は、反射的に杖を取り出し臨戦態勢に入る。
唯月は完全警戒の千花に落ち着くよう促す。
「急に連れてこられてびっくりしたよね。僕も、元の場所に帰してあげたい気持ちはあるんだけど」
千花は杖を強く握りしめて唯月を睨む。
しかし唯月は両手を挙げ、申し訳なさそうにしながら戦う意思を見せない。
「質問には答えるから、武器を降ろしてもらえると嬉しいな」
唯月が苦笑しながら優しく千花に言葉をかける。
興人すらいない今、唯月に攻撃されたら為す術がない。
だが──。
(先輩がここまで丸腰なのにずっと殺気を出すのも馬鹿らしくなってきた)
千花は杖を握ったまま下ろすことにした。
警戒が薄まったことがわかったのか、唯月は一安心の表情を浮かべる。
(先輩の正体は知っておこう)
完全に警戒を怠っているわけではないが、敵か味方か判断しておく必要はあるだろう。
「どこから話そうか」
「……風間先輩は何者で、どうしてここに連れてきたのか知りたいです」
千花の質問に、唯月は1つ頷いてから答える。
「じゃあここに連れてきた理由を伝えるよ。結果だけ言うと、他意は全くなかったんだ」
「はい?」
意味もなく連れてこられたことに千花は聞き返す。
「田上さんもあの泉がこちら側を繋げる扉っていうことは知ってるでしょ? 僕も、いつもあの場所からこっちに帰ってくるんだけど。田上さん、足を滑らせたのは覚えてる?」
千花は頷く。
唯月に襲われると思って慌ててそのまま足を滑らせたのだ。
「その時無意識に扉を開いちゃったらしくて、僕の家に一緒に連れてきちゃったんだ。ごめんね」
だからわざとではなかったのかと知るが、扉は機関の人が開かなければ発動しなかったはずだ。
「どうして扉を先輩が開けられるんですか」
「えっと、その前にもう1つの質問に答えようか」
聞けば聞くほど質問が出てくる。
唯月が順番に話してくれるようなので千花は大人しく聞くことにした。