死闘の後の安堵
べモスの瘴気に満ちていた紫色の空から太陽の光が差し込んでくる。
それは段々崩れたウェンザーズを照らしていき、雲だらけだった頭上が青い空へと広がっていた。
「これは」
瘴気が消え去った空を見上げてミランは獣化を解く。
その直後、重いものが落ちるような音があちらこちらから聞こえてきた。
それは、べモスに猛獣と化された同胞の姿だった。
「瘴気が」
猛獣の体からべモスに操られていた瘴気が抜けていく。
彼らの体は静かに人間の形へと戻っていく。
「っ! お前達、姿を戻せ! まだ生きてる獣人の手当てを急げ!」
理性がある方の獣人はすぐに獣化を解き、まだ息のある同胞へと走る。
その中には重症とは言え意識を取り戻す者もいれば、獣人の手を借りて動ける者もいる。
「魔王の支配が解けた。まさか、チカが?」
ミランは王の間があるであろう方向を見上げ、少女の姿を思い浮かべた。
外壁も柱も何もかもが崩れた王の間は異様な静けさに包まれていた。
瓦礫から落ちていく小さな石ころだけが音を立てている。
「……魔王、は?」
そんな静寂を打ち破るように千花は弱々しく声を出し、重い頭を横に動かす。
すぐ右には、手をついて座っているリョウガの姿があった。
「リョウガ……?」
千花が小さく名前を呼ぶと、彼の肩が小さく動く。
顔を上げるところを見ると、生きてはいるらしい。
死にかけではあるが。
「べモスは?」
リョウガが独り言のように呟くので、千花も再び顔を動かそうとする。
だがその前に興人がゆっくり近づいてくる。
「浄化できたみたいだ。田上、大丈夫か」
自分も噛み痕や火傷で傷だらけだと言うのに、興人は千花に手を伸ばして心配する言葉をかける。
千花は体は怠いものの、親切心を無下にすることもなく、興人の手を掴んで立ち上がらせてもらう。
立ったことで一瞬目眩を覚えたが、見える景色は広くなった。
「倒れてるのって」
千花がふと見つけた視線の先には倒れている大きな獣がいた。
その正体を千花が理解する前に覚束ない足取りで立っていたリョウガははっと急いでそちらに駆け寄った。
「親父!」
リョウガが足をもたつかせながらもべモスに取り憑かれていたレオの横に座る。
千花はその様子を眺めながらべモスの瘴気が消えたことを知る。
「終わった?」
千花が確認するように興人に聞くと、無言の頷きが返ってくる。
「そっ、か」
返答を聞いた瞬間千花の体が一気に脱力感に襲われる。
「よか……った」
「田上!?」
千花は小さく呟くと、膝から力なく崩れる。
興人が驚いて咄嗟に背中に手を回し抱えるが、気を失ってしまった千花はそのまま体重を預ける形になっている。
「田上! しっかりしろ!」
千花の体を支えながら興人は肩を叩いて意識を戻すよう呼びかける。
しかし千花は泥と血の付いた顔に安らかな表情を浮かべ目を開けない。
「田上?」
「無理もないでしょう。浄化を使えば体力魔力共に削られます」
全く起きない千花に興人が少し不安そうな声で呼ぶと同時に入口の方から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「先生、それにシモンさんも」
興人が声のする方へ顔を向けると、はぐれていた邦彦とシモンがこちらに歩いてきていた。
「無事でしたか」
「それはこっちのセリフだろうが」
脇腹に深い傷を負い、全身にも軽傷とは言えないものをつけている興人に安否を確認されてシモンは安堵と共に呆れたような声を出す。
「そうですね。僕は無事ですが、他の皆さんはすぐに治療をすべきです」
邦彦はそう言うと興人達の向こう側に倒れている獣──べモスに操られていたレオと、その側で心配そうに呼吸を確かめているリョウガを一目見てシモンに向き直る。
「恐らくべモスは倒せたのでしょう。健闘を称えたいところですが、今はそれより生存確保です。シモンさん、日向君達を連れて討伐隊がいる所へ」
「お前は?」
「国王の安否と、他に生存者がいないか確認します。恐らくミランさん達数名が直に来るはずなので、見計らって合流しますよ」
邦彦の指示に反論することなく、シモンは千花を譲り受けると背中に背負って、興人と一緒に来た道を戻った。
「さて、リョウガ君でしたか。君も相当深手を負っています。シモンさん達と一緒に治療を受けてください」
邦彦はリョウガの横に膝をついて話しかける。
だがリョウガは不安そうにレオに視線を落とす。
「親父が」
「小さくではありますが息をしています。この状態でも応急処置はできますし、もうじき援軍も来るでしょう。それよりあなたがこの場で死ぬ方が、ウェンザーズの未来に問題なのでは?」
邦彦の最後の言葉に逡巡したリョウガだが、すぐに小さく頷くとよろけながら立ち上がる。
「親父のこと、任せたからな」
「ええ」
リョウガは足を引きずりながら崩壊した王の間をゆっくり出ていく。
邦彦は誰もいなくなった所を確認して、レオの体に手を触れる。
(背中に牙で嚙みつかれた痕、脇腹に剣で斬りつけられた痕。まだ若い彼らが見事に死闘を繰り広げたのですね)
流石と褒めればそこで終わりだが、一歩間違えば全員惨殺されていたかもしれない大きな賭けがあったことが窺える。
予想していたとは言え、邦彦は犠牲者が出たかもしれないこの戦いに険しい表情を浮かべる。
「これは?」
邦彦が体を調べながら傷口に手当てをしていると、不意にレオの口から何かが見えるのがわかった。
手袋を嵌め、ゆっくりと牙だらけの口を開けて喉奥を覗くと、鋭い岩が突き刺さっていた。
「……メテオ?」
邦彦は慣れた手つきで、素手で喉から岩を抜く。
岩には唾液と血、そして泥が付着しているが、それを取り除いた瞬間レオの呼吸が安定し始める。
(泥と岩……とすると、田上さんがこの攻撃を仕掛けたと)
べモスは暴食の魔王として、獣人も魔法も全て食って蓄える。
千花はそれを逆手に取り、わざと魔法を食わせたのだろう。
そして、ここまで正確に突き刺せたということは、べモスが千花を食おうと顔を近づけたことも予想できる。
「……全く。田上さんには驚かされてばかりです」
自分に危害が及んでいる中、敵が想像しえない作戦を思いつき、実行する千花に、邦彦は自然と笑みを浮かべていた。
広い草原、辺りには1本も木がなく、人工で出来たものもない。
千花はこの場所に見覚えがあった。
『千花』
千花が周囲を見渡していると、不意に後ろから声をかけられた。
振り返って見ると、そこには白く長い髭を生やし、白いローブを着た老人が立っていた。
(おじいさん)
千花が東京へ旅立つ前にも老人は夢の中に出てきた。
千花が口を開くと、老人はその優しい顔に微笑みを称える。
『ありがとう、千花。お前のおかげでリースの平和がまた1つ守られた』
老人は千花に礼を言う。
恐らくウェンザーズのことを言っているのだろう。
(でも国は壊されたし、死んだ人も沢山いる)
べモスに切羽詰まり途中から周りが見えなかったが、千花達の目の前には血の池ができる程大量の死体が横たわっていた。
(私がもっと早く浄化をしていれば)
『気に病むことはない。お前は自分の役目をしっかり果たした。おかげで、この魂も救われただろう』
老人は杖を持っている手とは反対の手で黄色に光る球体を見せた。
(?)
千花が不思議そうに差し出された球体に手を伸ばす。
その瞬間、指先から暖かい魔力が流れてくるのが感じられた。
『これは暴食の魔王。いや、暴食を浄化されたべモスの魂だ』
(私が消したんじゃないの?)
『お前が消したのは瘴気であって、悪魔の神に毒される前のべモスの魂はこのようなものだった。お前は、べモスを元の姿に戻してあげたのだよ』
老人に優しく諭されるが、千花には半分以上何を言われているかは理解できなかった。
ただ1つ、もうウェンザーズが悪魔の脅威に晒されなくて済むことだけはわかる。
(良かった)
心の底から安堵し笑う千花に、老人は静かに瞼を閉じ、口角を上げる。
『純粋に命を尊み、平穏を喜ぶお前だからこそ、巫女と姫女神は選んだのだろう。さあ、元の世界に帰りなさい。お前の復活を待っている者の所へ』
老人が目の前に片手をかざすと、草原が白く包まれていく。
(あ、待っておじいさん。私、まだあなたのこと色々知りたい)
千花が老人を引き留めようと手を伸ばす。
しかし老人はゆっくり首を横に振って拒否する。
『時が来れば必ず会えよう。今は帰りなさい。長居すると戻れなくなるよ』
老人の手が千花の額に触れる。
たちまち千花は抗えない眠気に襲われ、そのまま目を閉じてゆっくり倒れる。
『千花、新たな巫女。君の光はすぐ側に』
草原が白い世界に変わる。
同時に、老人も白い世界に包まれていった。