お咎めなし
ギルド内では邦彦が眉を寄せながら千花の帰りを待っていた。
「おかしい。既に予定より30分を過ぎているのにまだ依頼が達成できていない」
千花の依頼は邦彦にも確認できるようになっている。
2つの依頼は達成済みだが、後の教会への届け物にサインがされていない。
(教会はよく目立つ所にある。1人で2つの依頼をこなせた田上さんであれば辿り着くのは容易いはずなのに)
千花は真面目だ。
故意に寄り道はしないだろう。とすれば何かに巻き込まれたか。
「様子でも見てくるか?」
隣にいたシモンが立ち上がる。
邦彦も顎に手を当てて考えながら頷く。
「日向君が偵察をしていますが、少し人員を増やした方がいいですね。シモンさん、怪我をしているところ申し訳ないのですが周ってきてもらえますか。アイリーンさんは田上さんが帰ってきたら報告を。僕は機関に連絡を……」
「すみません、戻りました」
邦彦が指示をしている間に聞き慣れた少女の声が響いた。
邦彦が声のする方へ振り返ると、探そうとしていた千花が立っていた。
変わり果てた姿で。
「チカちゃん!? どうしたのその顔!」
邦彦が呆気に取られている間に遠くにいたアイリーンが声を張り上げた。
その声に我に返った邦彦は改めて千花を見回す。
赤く腫れ上がり、薄く切れて血が滲んでいる頬と唇。
一応といったようにティッシュで抑えながらも真っ赤に切り裂かれている手のひら。
そして傷がない方の手では幼い子どもを引き連れている。
「……色々聞きたいことはありますが、まずはその傷をどうにかしましょう。アイリーンさん、救急箱をお願いします」
アイリーンが急いで走っていくのを横目に邦彦は千花をカウンターへ促した。
千花は連れている男の子にも一緒に来るように伝えてから歩き出す。
10分後。
救急箱を持ってきたアイリーンに頬と手のひらを手当てしてもらった千花は呑気にお礼を言う。
その隣に座り、邦彦は静かに口を開く。
「さて、それでは1つずつ聞いていきましょうかね。田上さん」
邦彦の問いかけに事態を忘れていた千花は一転はっとなって目を泳がせた。
しかしどこに視線をやっても逃げられないことはわかっている。
「どれから聞きましょうかね。好きなものを選んでいいですよ」
何故そこまで能天気に千花に話しかけるのか、むしろ嫌な予感しかない千花は問い詰められる前に自分から話しを切り出した。
「多分、いえ絶対全て話は繋がってるので。どこからでも」
「ではその頬と手の傷からどうぞ」
どこからでもと言った自分を千花は酷く後悔した。
1番言いたくなかったことだからだ。
「……に行きました」
「はい?」
「スラム街に行きました。そこでやられました」
千花がなお視線を彷徨わせながら小さな声で言うと、邦彦の周囲が段々冷えていくのがわかる。
千花は無意識にアイリーンの方へ助けを求める視線を送るが、それも彼女の首を横に振る動きで打ち砕かれた。
「それは、目の前にいる子どもと関係があることで?」
邦彦の反対に座っていたクリスを指して問う。
クリスは何が起きているかわからないが空気が悪くなっていることは理解できるのだろう。
静かに座って待っていた。
「わ、わざとでも偶然でもないですよ。路地裏を歩いてたらクリスの泣いてる声が聞こえて、私が行かないと悪い大人に捕まろうとしてたから」
「あなたも捕まりかけたようですが」
千花の必死の弁論も虚しく、周囲は氷点下かと思うほど冷えてくる。
千花が口をまごつかせながら次の言葉を探す。
「だ、だって、放っておいたらクリスが死ぬかもしれなかったし」
「あなたも死ぬという可能性は考えなかったんですか」
「考えましたけど……」
まるできつい尋問のように邦彦が次から次へと言葉を重ねる。
千花の言葉が段々尻すぼみになっていく中、不意に背後から低い男の声が聞こえてきた。
「取り込み中悪いな。クニヒコ、俺の息子を見てねえか」
重い沈黙が流れる中、冒険帰りと思われるクラウスが近づいてきた。
邦彦は会話を遮られたことには特に言及せず、かぶりを振る。
「いいえ、そもそもあなたにお子さんがいたことを知らないので見たとしてもお答えは……」
「おとうさん!」
またもや会話を遮られた邦彦だが、声の主であるクリスは構わず椅子から降りてクラウスの腹に突進した。
「クリス、お前どこにいたんだ。俺が帰ってくるまでギルドにいろっつったのに」
「さびしくなってさがしに行ったらまいごになっちゃったの。でもチカおねえちゃんがたすけてくれたんだよ」
クラウスが父親だったことに目を丸くしている千花を指さしてクリスは説明する。
「それは礼を言わねえとな。ん? その怪我はなんだ」
昨日までなかった千花の傷にクラウスが焦点を当てる。
千花が言葉に詰まっていると眉間に皺を寄せた邦彦が先に口を開いた。
「スラム街に迷い込んだあなたのお子さんを助けようと単身向かったそうです」
完全に嫌味を包み隠さず言う邦彦に千花は更に肩身を狭くする。
一連の流れを理解したクラウスはきまり悪そうに後頭部を掻く。
「だからお前機嫌が悪かったのか。なら申し訳ねえ。俺の監督不行き届きだ」
だが、とクラウスは更に続ける。
「今日は俺に免じてチカを許してくれねえか。チカが助けてくれなきゃクリスは今頃戻ってこなかったかもしれねえし。もし何か言いたかったら俺に言ってくれ」
クラウスの頼みに眉を寄せたまま、何かを諦めたように1つ大きく溜息を吐いた。
「許すも何も別に罰を与えるわけではないので。ただ無謀なことをしたという自覚はしてほしいと」
「あの場で自分の命まで考えられる人間は少なそうだな」
クラウスは豪快に笑って抱えているクリスの頭を撫でると、今度は千花に向かって透明な液体が入っている瓶を渡してきた。
「礼ってほど大したものじゃねえが受け取ってくれ。もし傷跡が残るようならビアンカに言ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
受け取った瓶に千花が困惑している間にクラウスは再びクリスと共に礼を言うとそのまま人混みに入っていった。
「あいつ子連れだったのか」
「冒険に出てる時は教会に預けてるみたい。知らない人も多いわよ」
シモンとアイリーンがのんびり話している間、千花はずっと半透明の瓶を見つめていた。
キャップを開けてみるとミントのような涼しい匂いが鼻に入ってくる。
「塗り薬ですよ。よく効くので渡してきたのでしょう」
千花の疑問をいち早く感じ取ったのか、邦彦が即座に答える。
「へえ」と声を出す千花が邦彦に顔を向けると、彼は穏やかな表情に戻っていた。
「先程は問い詰めてすみませんでした。中々戻ってこなかったあなたが傷だらけだったので動揺してしまいました」
邦彦でも動揺するのかと心の隅で考えながら、千花は首を横に振って微笑み返す。
「私も命の危険があったことは自覚してるので。これからは気をつけます」
「こちらも、一般人が無法地帯に入らないように警戒を強めましょう。さて、教会への依頼がまだです。帰るついでに寄っていきましょう」
「魔法の訓練は?」
「あなたその手で魔法を使えると思ってるんですか」
自分の怪我が重症だということに気づいていないのか、呑気な千花に一喝してから邦彦は荷物を持ってアイリーン達に一礼する。
「それではまた明日」
「はいはーい。バイバイチカちゃん、お大事に」
「さようなら」
邦彦の後を小走りで追いかける千花の背中を見送りながらアイリーンは手を振る。
そして彼女の姿が見えなくなった後、小さく口を開いた。
「誰でも助けられるなんて夢みたいなこと言ってんじゃないわよ」
その底冷えするような低い声に、シモンは突然悪魔が目の前に現れたような驚愕した表情でアイリーンの顔を見る。
しかしアイリーンはいつもの可愛らしい看板娘にぴったりな笑顔を貼りつけたままカウンターの奥へと戻っていった。