初訓練
ギルドに入るとやはり酒臭さや人の話し声がよく感覚を刺激してくる。
邦彦の後に続いていった千花はアイリーンのいるカウンターへと導かれた。
「こんにちはアイリーンさん」
「あら、クニヒコにチカちゃん。今日も可愛いわ。お菓子あるわよ」
「あなたはなぜそうも田上さんに貢ごうとするんですか。先程食事をしたばかりなので食欲はないと」
「美味しそう」
邦彦が先だってアイリーンの誘いを断ろうとしたが、千花は目を輝かせながらトレイに置かれている出来立てのクッキーを見つめていた。
「ほら」
「……今から運動をしますので2枚ならどうぞ」
邦彦が呆れながら千花に許可を出す。
千花は16枚あるうち大きそうな2枚を取って味わった。
「美味しい」
「でしょう。チカちゃんが来ると思って頑張ったのよ私。クニヒコも食べていいわよ」
「僕は甘いものは得意ではないので」
「何よケチ」
邦彦が躊躇なく断るのでアイリーンはトレイを持ちながら頬を風船のように膨らませる。
そんな中、千花は2枚とも綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでしたアイリーンさん」
「今度はマフィンでも作ってくるわ」
千花のように若くて正直な娘はギルドの中でもほとんど見かけないため、アイリーンは上機嫌だ。
邦彦は幸せそうな千花を見て1つ咳払いをする。
「田上さん、今日は少し訓練をします。ギルドで貸しているジャージがあるので着替えてください」
「訓練?」
なぜ体力が減っているこの時間にやるのか聞きたいところではあるが、千花は大人しくアイリーンに案内されて更衣室で紺色のジャージに着替える。
少し丈が長いので何度か捲らなければならなかった。
その後、案内された所はギルド内にある魔法の特訓や運動ができるグラウンドだった。
「広い」
千花の通っている高校の体育館も全校生徒を収容するだけあって広いが、ギルド内のグラウンドはその2倍は規模があるだろう。
天井を見上げるのも首が痛くなる。
「田上さん、運動経験は?」
邦彦がジャケットとネクタイを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲りながら聞いてくる。
普段着崩したところを見たことがなかった千花はこの姿を見れば女子生徒は鼻血を出して卒倒するだろうと呑気に考えていた。
「部活には入ってません。運動は体育で習ったことと通学の自転車くらいです」
「あれだけの距離を漕いでいたら自然と体力がつくでしょう」
「多分。1年の頃はヒイヒイ言ってましたけどいつの間にか息切れもしなくなったので」
千花の説明を聞きながら邦彦は何かを考えるように顎に手を当てる。
続いて何か思いついたように1つ頷いて千花に近づく。
「田上さん、習い事もやっていませんか。柔道や空手など」
「ないです」
「ではまず受け身を取れるようにしましょう」
「え?」
千花が首を傾げる前に邦彦が両脇に手を挟み、体を持ち上げる。
そのまま肩を通って千花を背中側へ投げ飛ばした。
「いった……くないけどなんですか!?」
打ちつけられる直前に邦彦が下ろしたので傷一つついていないが、何も言われずに飛ばされた千花は本気で怒りの頂点に達しそうになった。
邦彦はそんな千花を宥めるように両手のひらを向けた。
「すみません。少しあなたの反射神経を試したくて。ここで瞬時に対応できるかできないかで変わってきますから」
「はあ?」
「今のように悪魔は何の前触れもなく突然体を投げ飛ばし、意識を失わせてきます」
「私は?」
「落とされた直後に警戒心剥き出しだったので対応できるでしょう」
突然投げられたらいくら千花だって怒る。
しかし邦彦の言動からして、今までの候補者の中には目を丸くして固まった人間もいただろう。
その気持ちもわかる。
「もちろん魔法で防御することも必要です。ただ魔力はあくまで有限であり、無闇に乱発すれば肝心な時に本領を発揮できなくなる。だから生身でも耐えられるように受け身を学びます」
「先に言ってほしいです」
「不意打ちの意味がないでしょう」
ド素人の人間に攻撃をしかける大人もどうかと思う千花だった。
ただその後に邦彦だから仕方ないとも考えたが。
「帰宅時間も考えて、ここで訓練できるのは1時間半。準備体操をして受け身を教え、練習まで行きます」
「はい。よろしくお願いします」
ここでは邦彦に従うことが賢明だと考えた千花は、大人しくお辞儀をして授業に入った。
30分後。
「す、ストップ。先生、ちょっと、待ってください」
グラウンドの土に全身を押さえつけながら千花は震える右手を上げて目の前で立っている邦彦に助けを求める。
「どうしました田上さん。まだ準備運動ですよ」
「わかってます。わかってますけど既に足が限界です」
千花はまるで産まれたての小鹿のように両手足を震わせながら座る。
邦彦は待ってはいるが微笑は浮かべず真剣に千花を見据える。
「最低準備運動までは体力を残してもらわないと困ります」
「わかってますってば! でも無理ですよ、こんなハードな運動やったことないんですもん!」
千花はまるで駄々をこねる子どものように叫び声を上げた。
30分間で千花が行った運動はアスリートのように体力づくりを目的としたものだった。
初めに屈伸から始まる一般的な体操、次に体を伸ばすストレッチ。
ここまでは良かった。
それから腹筋100回、腕立て伏せ100回、グラウンド500メートルを4周。
確かに体力はあると言ったが、急な運動に筋肉が悲鳴を上げた。
「立ってください田上さん。今日は受け身の取り方ですが、これから先魔法の特訓や攻撃の仕方も学ばなくてはならないんですよ」
「もう無理です。動けません」
片膝をついて邦彦が目線を合わせてくるが、無理なものは無理なのだ。
もう足がびた一文動かない。
「全く。そんな子どもみたいな」
「子どもでも何でもいいです。少し休ませてください」
邦彦の嫌味にも今の千花には対処しきれない。
しかしこのまま放置していると時間が刻一刻と過ぎ去ってしまう。
どうしたものかと邦彦が考えていると不意にグラウンドの外からアイリーンが顔を覗かせた。
「あらチカちゃん泥だらけ」
「体が悲鳴を上げています」
弱音を吐く千花にアイリーンは「あっ」とワンピースのポケットから何かを取り出した。
「チカちゃんこれなーんだ」
疲労で頭一つ動かすのも億劫になりながら千花はアイリーンの手にあるものを見る。
それは先程アイリーンが千花にと作ったクッキーが透明な袋の中に入っていた。
クッキーを見つけた千花の目が瞬時に開く。
「お腹空いてない?」
「空いてます!」
元気よく答えた千花にアイリーンは1枚だけクッキーを取り出しその口の中に入れた。
「今はこれだけ。もしクニヒコの特訓を最後まで頑張ることができたらこれ全部あげる。どう? 頑張れる?」
「頑張れます!」
千花は当初以上にやる気を出しながら立ち上がる。
そのままクニヒコに言われた残りの運動も1人でこなしていった。
「単純すぎる」
邦彦があまり好ましくないものを見る目で千花を見続ける。
隣でアイリーンが可笑しそうに笑った。
「ああいう子にはアメとムチが必要なのよ」
子どもの扱いに関してはアイリーンに任せるべきだと邦彦は千花を追いかけながら考えた。