アイリーンと愛川梨沙
「愛川、梨沙……?」
千花は目の前にいるアイリーンを見上げ、ロボットのようにしか口を動かせなかった。
そんな千花を見てアイリーンは笑みを消す。
「本当は二度と口にしたくない名前だったのに、こんな所で素性を明かす羽目になるとはね」
アイリーンの言葉を聞きながら、千花は思考を巡らせる。
所々黒塗りされたファイルにはなんと書いてあっただろうか。
シモンはなんと言っていただろうか。
「たった3年で、属性を使いこなした初めての光の巫女候補者」
「独学で使いこなせたのは初めてだって言われたわ」
「フリージリアに行ったきり、機関で保護されてるって」
「だから今いるでしょ。機関で保護されながら、ギルドの受付嬢として身を隠してたの」
何でも答えてくれるアイリーンに千花は一歩後ずさりする。
「なんで、今更私に名前を明かしてくれたんですか。今、名前すら口にしたくないって言ってたのに」
「だってずっと気になってたじゃない。シモンくんと喧嘩するくらい。だったら、いっそのこと自分で言った方がいいでしょ」
千花は悩む。
確かに愛川梨沙に会いたいとは思っていたが、まさか元から知っていた人物がその正体だとは思わなかったのだ。
どう反応していいのかわからない。
「ねえチカちゃん。なんで私が巫女候補者から降りたのか教えてあげようか」
千花が何を言っていいかわからないことを見通したアイリーンは自ら自身の過去を伝えてこようとする。
千花にとって好奇心はあるが、彼女本人から聞いていいのだろうか。
「……いいえ、聞きません」
「どうして。気になるんでしょ」
「とても気になります。でも」
試すような視線を感じ、千花は目を合わせることができない。
それでもアイリーンの過去を聞く気にはならなかった。
「アイリーンさんの……梨沙さんの過去をほじくるような真似は、したくないので」
周りの空気が凍りついていく気がして千花は身震いする。
アイリーンが怒りをこちらに向けているようで、どうしてもそれ以上は声に出せなかった。
「知りたがってるのに、変な子。じゃあ1つだけ、あなたに伝えておくわ」
アイリーンは大きく1つ息を吐くと、千花を睨むように見つめた。
「私はこの世界が大嫌い。私の存在を消したこの世界が滅びようと……いいえ、滅べばいいと思っている。だから、敵になるかもしれないこと、よく覚えておいてね」
それだけ言うと、アイリーンはいつの間にか姿を消していた。
千花が驚いて顔を上げても、気配すら感じられない。
「ど、どこに行ったの?」
千花の疑問は独り言になった。
張り詰めた空気から一変老若男女が憩いの場として集まる穏やかな公園になった。
「本当に、アイリーンさんが愛川梨沙? そんな話、一度だって聞いたことない」
信じ難い話ではあるが、現にアイリーンは愛川梨沙の名前を知っていた。
信じられないと言っても事実がそうであれば否定しても仕方がない。
「シモンさんが隠したがってた理由も、アイリーンさんが正体だから? でも自分で伝えに来るなら、隠す必要なんてないのに、どうして」
アイリーンは言っていた。千花が気になっていたから、それで険悪になるくらいなら自分で本性を明かすと。
だがその表情は、強気に見えて傷ついているように見えた。
(アイリーンさんは聞けば答えてくれると言った。望み通り、きっと何でも答えてくれるんだと思う。私から光の巫女をやめさせるような口調で)
アイリーンの話は──愛川梨沙の過去は千花にとって聞かなければならないことだろう。
しかし本人から聞いては脚色されて描かれるかもしれない。
アイリーンは最後に、リースを憎んでいる口ぶりで話していた。
(とすると、私が頼れるのはあの人しかいない)
誰も正確な情報を与えてくれない。
それが例え千花のためだったとしても、その情けが全て守ってくれるものだとは限らない。
シモンに謝りたい気持ちを抑えて、千花は機関へと足を運び、彼の元へ向かった。
「それで、ボクのこと呼んだんだぁ」
千花は機関の中にはある訓練場へ来て、その口でテオドールの名を呼んだ。
千花の動向に興味のあるテオドールならば、急な呼び出しにも対応できると考えた。
「テオドールさんなら、愛川梨沙さんの記憶を知っているんじゃないかと思って」
「知ってるよぉ。リサちゃんは巫女様と似ててぇ、強くて面白い子だったからぁ」
ふわふわと宙に舞うテオドールを見上げながら千花は話をする。
内心ではまた心を良いように操られないか怯えつつ、遜色なく答えてくれるのは彼しかいないと千花は意を決していた。
「でもいいのぉ? リサちゃんから聞かないで、勝手に過去を見たら怒られなぁい? シモンだってはぐらかしたんだよぉ」
テオドールは千花を舐めるような目で見回してくる。
その感覚に嫌な雰囲気を抱きながらも千花はすっと前を見据える。
「私は真実が知りたいんです。光の巫女候補者としてやってきた梨沙さんがどうしてあそこまでこの世界を憎むようになったか。それなのにどうしてリースに留まって機関の協力をしているのか。全部謎だから、少しでも手がかりが欲しいんです」
「そっかぁ。いいよぉ、見せてあげるぅ。それで巫女様が満足するならねぇ?」
テオドールは紫色に光る水晶玉を千花に手渡してきた。
その水晶には人がゆらゆらと蠢いていた。
「覗いてごらん。リサちゃんがアイリーンになった真実だよ」
千花は意を決して、水晶玉に見入った。