愛川梨沙
千花は本の片付けもそこそこに、誰もいないことを確認しながら恐る恐る巫女候補者の情報が載っているというファイルに手を伸ばした。
(後学のため……これは勉強)
誰が聞いているかもわからないのに千花は罪悪感を埋めるため、必死に心の中で言い訳を作る。
(まずは、目の前から)
千花はファイルに綴じられている書類の表紙を捲る。
1ページ目は履歴書のように、名前や生年月日、顔写真が添付されていた。
(『淀川結衣』、18歳、両親共に死別しており、施設暮らし。来年度施設出所予定)
2ページ目からはその人物の性格や特記事項が、5ページ目からは彼女に会ってからリースに来て、去っていくまでの経緯が記載されている。
(これ、ファイルによって厚さが違う。長くリースにいた人もいれば、すぐいなくなった人もいる。そして最後には)
『淀川結衣』のファイルを最後まで流し見し、千花は最後の文章に愕然とする。
【20XX年8月18日、リースに関わる記憶を抹消済み】
考えてみれば、千花より前に去っていった者達が記憶を持っていたら今頃リースの存在は地球に知らしめられていただろう。
だから最後の文章は当たり前の権限であり、何もおかしい点はない。
(でも……でも……っ)
千花は『淀川結衣』のファイルを慌ててしまうとせっつかれたように次のファイルへと手を伸ばした。
『橋本菜美』基礎体力なし。リースに関わる記憶を抹消済み
『鈴木有紗』魔法の素質なし。リースに関わる記憶を抹消済み
『南栄子』精神力・忍耐力共に低下傾向あり。リースに関わる記憶を抹消済み────
どの少女も皆、何らかの理由で異世界に関わる記憶を消されている。
当然のことと思いながらも、千花の心は暗く濁っていく。
(私も、もし適性がないと診断されたら今頃全部忘れさせられてたんだ。いや、1回だけあった。自分で記憶を失った時に安城先生は私をリースから消そうとしたんだ)
邦彦のあの時の発言を思い出し、千花は再び怒り、というよりも悔しさと虚しさを込めた黒い感情を抱く。
期待されて来て、何もわからなくさせられて世界を追い出されることは怖く、辛かった。
(安城先生は何が目的で巫女候補者をこんなに集めてたんだろう。世界を救うためとは言え、人1人の記憶と時間をこんな簡単に操っていいのかな)
信頼している邦彦に対しての疑惑がどんどん渦巻いてくる。
本当はこんなこと思いたくないのに、否定すればするほどあたらしく疑問が浮かんでくる。
(聞きたいけど、答えが返ってくるのが怖い。安城先生を信用していいのか、不安になる)
あれだけ信頼を置いていたはずの邦彦を疑っている自分自身にも嫌気が差す。
そもそも、自分が単独行動で記憶を失わなければ全てなかったことになるはずだったもの達だ。
「……これで最後にしよう」
千花は自分に言い聞かせ、5冊目を手に取る。
そして1ページ目を開いた直後だった。
「!?」
千花は鳥肌を立たせ、一度ファイルを閉じてしまう。
ファイルの中身は、今までと異なっていた。
今度はゆっくりと、少しずつ視界に入るように開ける。
「何、これ……なんで、塗られてるの?」
千花の目に入った書類は、所々が墨のように黒く塗り潰されていた。
まるで穴埋め問題かのように要所が抜けていて、説明文がしっかりと読めない。
(名前は、かろうじて見える。えっと、愛川、梨沙?)
今までと変わらない、日本語で書かれた名前だ。
千花は『愛川梨沙』のファイルをそのままに、他のファイルへ手を伸ばす。
10冊目、20冊目と見ても、黒く塗られているのは彼女の書類だけだ。
(なんでこれだけ? いや、読んでみたらわかるかも)
千花はかろうじて見える部分を抜き取り、読み始める。
『年齢●●歳。彼女の家族構成は●●●●。●●の人間である。リースに来て3ヶ月で●属性を独学で修得する。●●年の中で初めて●●を倒した候補者である』
重要な部分ばかり抜けているが、この『愛川梨沙』が巫女候補者の中でも特異な人物であることは千花も察しがついていた。
(でも結局この人だって記憶抹消済みって……あれ?)
千花は説明文を数行読み、いつものように最後の文に目を通す。
だがそこには定型文はなく、代わりにこう書かれていた。
『七大国が1つ、フリージリアに行った後、巫女としての役目を終え、リースに在籍中』
千花はたったその一文を何度も何度も読み直す。
つまり、千花と同じ境遇の、それも七大国を支配する魔王に少なからず遭遇した者が、このリースのどこかにいるはずだ。
(じゃあ、私も会えるチャンスがあるんじゃない? きっと、頼めば梨沙さんに……)
「巫女様、何この惨状は?」
「っ!!」
千花がその文章につかの間、期待を抱いて立ち止まっているところで、背後から呆れた声が聞こえてきた。
ファイルを背中で隠しながら千花が振り返ると、ライラックが散乱としている書庫を訝しげに見下ろしていた。
「テオの気配がしたから来てみれば、本をめちゃくちゃにして遊んでるとは。薬はいらないのかしら」
「ああああります! 見つけました! 薬は欲しいです!」
ライラックが意地悪く笑いながら薬の小瓶をちらつかせてくるため、千花は慌ててファイルを雑にしまい、頼まれていた本を差し出す。
「あれ、見つけたんだ。一生無理だと思ったのに、巫女の奇跡?」
「えっと、多分」
「ふーん。ま、約束は約束ね。ほら、本当に希少なんだから無くさないでよ。効果は12時間ね。後あんた、これ直しときなさいよ。迷惑だから」
「ありがとうございます」
千花は約束通り薬をもらう。
ライラックも目的が達成されたらしく、そのまま部屋に戻っていった。
(気になるけど、片づけないと駄目だよね)
千花は後ろ髪を引かれる思いでファイルに手を伸ばしかけるが、諦めて書庫の整理を行った。
ライラックは自分の部屋に戻る廊下を歩き、空に向かって口を開いた。
「あんた、いい加減自分で巫女に話しかけなさいよ。なんで私がこんなおつかいしなきゃならないの」
ライラックの目線の先には何もいない。
だが気配でわかる。
リンゲツがそこには浮いていた。
「……私、あまりはっきり物を言えないので」
「そのコミュ障、いい加減どうにかしなさいよ。あんたのやってること、ただの巫女へのストーカーだからね」
うっ、と言葉に詰まった声が聞こえてきた。
仕方ないとばかりに溜息を吐いたライラックは、千花が最後に見ていた巫女候補者のファイルを思い出す。
「まあ、あんたが気づいたから深く追及される前に先手を打てたけどね」
「彼女のことは、秘密ですから」
「秘密、ね」
愛川梨沙の名前を心の中で反芻し、ライラックは過去を回想する。
「あの娘の功績を奪って隠して、いつ報復が来るかわかったもんじゃないわね」
ライラックはいつか来るであろう復讐の種を見出し、自嘲するように笑った。