いつまでも、どこに行っても
時間にして15分くらい経っただろうか。
水分も摂り、頭痛が治まった千花と灯子は大きな公園をゆっくり散策していた。
「こんな大都会でも自然がたくさんあって、東京って流石ね」
灯子は病み上がりの千花のペースに合わせ、予定していた観光からゆっくり散歩をすることに変えた。
「こういう喧騒の中の自然っていうのもいいものね。うちは自然と言えばもう人里離れちゃうし」
灯子は中央にあった池を眺めながら涼を感じているようだ。
充分楽しそうな灯子の様子を一歩後ろで見て、千花はずっと抱いていた違和感を吐き出しそうになる。
「あっ、ねえあれスワンボートっていうんでしょ。私1回乗ってみたかったのよ。私が漕ぐから一緒に行きましょ……」
「ねえお母さん、私、なんで『お母さん』って呼ぶようになったの?」
無邪気に遊ぶ灯子に千花はつっかえていた疑問を吐露する。
自然と流していたが、心の中ではずっと不思議だった。
「そりゃあ千花のママなんだからそう呼ぶでしょ」
「そんな、そんな当たり前のこと聞いてないの。よくわかってるでしょ。今の私は、灯子さんって呼んでたんだよ」
経緯はよく覚えている。
12歳の春、それまで灯子達と血が繋がっていると思っていた千花を男子生徒が束になって養子であることをからかってきたからだ。
春子と雪奈が代わりに怒ってくれたが、多感な時期だった千花にはそれがどれだけ重く恥ずかしかったことかは誰にもわからなかった。
「わかってるよ気にしすぎなことくらい。たくさん気を遣わせたことも。でも、お母さんお父さんって呼ぶには、もう苦しかったの」
名前で呼んだ時、灯子がどれだけ驚き、傷ついた顔をしていたかは今でも思い出せる。
「ねえ、1年前何があったの? 私、なんでお母さんって呼べるようになったの?」
母と呼べなくなり3年、わだかまりが知らない間に解けていることに今の千花は追いつけなかった。
ようやく吐き出せた強い思いに千花は涙ぐみそうになるのを抑えるしかない。
「……さあ? 私もわからないわ。全部を話してくれたわけではないから」
答えが欲しかった千花に返ってきたのは灯子の少し困った言葉だった。
「それでよく信じようと思ったね」
「それが親ってものだからね」
千花が釈然としない間にも灯子はその場から立ち上がり、先へ進む。
「でもね、私が信じようと思ったのはあなたのおかげよ千花。怯えながら、しっかり聞いてくれたの。『私を拾って後悔はなかったか』って」
「私、そんなこと言ったの?」
養子という自分でタブーにした言葉を千花自身がどうやって許したのか、謎は深まるばかりだ。
「……なんて、答えたの?」
「今の状況から考えなさいな。それと、ね。無理に全てを思い出す必要はないけど、これだけは絶対に覚えておいて。あなたは」
私の命の恩人だから。
「何言ってるの?」
言葉の意味をわかりかねている千花に灯子はいたずらっ子のように明るく笑い、それ以上は何も言わなかった。
その後はただ灯子の行きたい所へ千花が連れ回される2時間だった。
本当に、悩みを聞くよりも自分の観光が目的だったらしい。
「お土産も買ったし、充実したわ。明日の仕事も頑張れそうね」
新幹線に乗るまでの1時間、たっぷりと東京駅を堪能し、両手いっぱいに紙袋を抱えている灯子を千花は黙って見送る。
明日も休みを取ればいいのに、とか、もっとゆっくり来ればいいのに、とか、言いたいことはたくさんある千花だが、今は何を話しても灯子を責めるだけになりそうで口を開けずにいる。
「恭さんも遅くなるって言ってたし駅弁食べて帰るわ。千花も、帰るまでに1人で東京でも満喫しなさい」
「……そうする」
当たり障りのない言葉を返す千花に、灯子は何かを考えるように目線を上げる。
東京始発の新幹線は既に到着し、出発まで後2分というところだ。
「お母さん、もう乗ったら?」
「千花、1個言い忘れてたわ」
もしや何か記憶の糸口になる情報を見つけたかと千花が顔を上げる。
そんな千花に明るく微笑み、灯子は力強くその体を抱きしめる。
「いつまでも、どこに行っても、千花は可愛い私達の娘。愛してるわ」
まるで今生の別れのように告げる灯子。
傍目から見れば恋愛ドラマのようにありきたりな台詞だろう。
だが千花は、目を大きく見開いて固まった。
「じゃあね! また近いうちに会えるのなら、長野に帰ってらっしゃい」
「お母さ……っ!」
体を離した灯子は元気に手を振り、新幹線に乗り込む。
千花が我に返り灯子の名を呼ぶが、その前に新幹線の扉が閉まる。
(バイバイ)
声こそ聞こえなかったものの、灯子は窓から手を振り、そのまま新幹線は去っていく。
見送りに来ていたホームの人々も徐々に降りていった。
「愛してるって、そんな」
恥ずかしくて言えないような言葉を灯子は惜しげもなく出した。
誰かに聞かれていないだろうかと密かに気まずくなる千花だが、脳裏にはずっと灯子の笑顔が張りついていた。
──絶対なんてありえない
誰に言われたのかわからない。
ただ、恥ずかしさと共に自分も、と言えなかった後悔が押し寄せている。
(帰ったら言える。でも、なんでだろう)
千花は呆然としながらホームを降りる。
落ち着いていた頭痛がゆっくりと再発し、額を押さえる。
(私、まだ帰っちゃいけない気がする)
何かが、千花を引き止めていた。