助けて、お母さん
隠れ家から出てきた千花は街並みに圧倒されたように目を丸くしていた。
「すごいです! 本当に異世界に来たみたい」
「本当に異世界なんですよ」
好奇心に満ちたその表情は初めてリースに来た時も同じだった。
あの時は楽しそうにしている千花を微笑ましく見ていたが、今はそうもいかない。
「街を見てほしくはありますが、時間がありません。人が多いので手を繋ぎましょう」
「あ、そっか……いえ、そうですよね」
邦彦に促され、我に返った千花はわかりやすく落ち込みながらも指示に従う。
前科と呼ばれる程ではないが、千花は一定の確立で迷子になる。
入念に安全確認が必要だ。
「あちらに一際大きい白い建物があるでしょう。あれがトロイメア城、地球とリースを繋ぐ扉です。万が一迷ったらあれを目指してください」
「は、はい。でもこんな短い距離ではぐれることはないですよ」
あなたはあるんですよ、とは野暮なので言わないでおいた。
もうすぐ日が落ちそうなトロイメアでは早々に店じまいを始める人で賑わっていた。
「ああそうだ。あなたが帰る所は東京の高校になります。全寮制のため門限が決められていますが、今は夏休み期間でもあるのでそこまで厳しくは取り締まられないでしょう」
リースと地球では3時間程の時差がある。
夏場とは言え寮に戻る頃には日が沈んでいるだろう。
「東京? そっか、家族旅行で一度行ったきりです」
修学旅行のことすら忘れている千花は楽しみ半分、不安半分と言ったようだ。
そして、今日は運良くしっかりついてきてくれた千花のおかげですぐに目的地には着いた。
「声も出ないほど新鮮ですか?」
街並みと同じように城の内部を目にし、興味に沸いている千花の顔を見下ろし、邦彦は苦笑する。
「はい。でも、何度か来てるんですよね。だから初めて来る所ではないんだなって心のどこかで思ってます」
「そうですか。では行きましょう」
要らぬ人物と遭遇するかもしれないと危惧していた邦彦だが、考えてみればユキの存在を知ったのはつい数時間前のこと。
そのまま魔王退治に向かったのならいるはずがない。
(あちらとしても好都合でしょうね。旧い光の巫女がいなくなって)
今の王宮に目立つ敵はいない。
メイドや騎士が何と思っていようと、こちらを害さなければいないも同然だ。
「安城先生、1ついいですか?」
「なんでしょう」
「お城ってことは王様や宰相様がいますよね。挨拶はしなくていいんですか」
やはり千花は記憶を失っても千花だ。
王宮に初めて来た時も同じことを言っていた気がする。
「田上さんの状態は既に知られています。精神的負担も考え、省略していいとの許可も出ていますので」
「良かった。私、偉い人に会うことなんてなかったから失礼なことばっかりしそうで」
「心配しなくてももう手遅れですよ」
「えっ?」
邦彦の最後の言葉に千花は思い出さなくてもいいことのみ戻ってきた悪寒を感じた。
「さて、ここが地球とリースを繋ぐ部屋です。中の魔法陣に立てば自動的に先程伝えた泉の前まで着きますので慌てずに」
異世界から地球へ帰ると言えど東京も千花にとっては似たようなものだ。
心臓が高鳴る気持ちを抑えて千花は魔法陣の上に立つ。
(体が、ふわぁって上がる感じがする。重力の軽いエレベーターに乗ってるような)
千花は不思議な感覚に集中し、段々落ち着いた頃合いを見計らって目を開けると、暗い茂みの中に立っていた。
「ここが東京ですか?」
「正確には東京にある墨丘高校寮裏庭の泉です」
足元が見えず不安定だが、一緒に来た邦彦が案内してくれるため千花は気をつけながら進むだけだ。
夏の蒸し暑い夜風に当たりながら3分程歩くと、すぐに大きなマンションが見えた。
「ここが田上さんの暮らしている高校の寮です。女子寮ですので僕は入ることができません。部屋への道と、ここでの暮らし方は説明しますので。後は帰るまでお好きなように過ごしていただければと思います」
「わかりました」
邦彦からは説明と一緒に寮の案内図をもらった。
規模が大きい分迷子になるらしい。
千花は直に実家へ帰るため、簡単に部屋と食堂、浴室、そして邦彦と会える応接室を教えてもらった。
「何かあればすぐに電話してください。いつでもいいです」
「はい。では、また明日?」
「ええ、おやすみなさい」
休むにはまだ早い時刻だが、邦彦はこれ以上会わないと踏んで挨拶したのだろう。
千花は地図を頼りに自分の部屋を目指す。
管理人室は無人だ。
夏休み中だから、と邦彦が言っていた通り中々に緩くなっている。
(部屋はたくさんあるけどすごく静か。皆帰省してるのかな)
異世界に必要だったから自分は帰らなかったと千花はすぐ理解する。
自分の名前が書かれている札を見つけ、千花は自室へ入る。
(ちょっと埃っぽい。1週間以上帰ってこなかったから当たり前か)
この時間から掃除をするのは億劫なため、千花は換気だけして過ごす。
生ぬるい空気で部屋が満たされる中、千花は電気も点けずにベッドに寝転ぶ。
(疲れた。何も知らないことばかりで、ずっと気を張ってたんだなあ)
必ず誰かが見ている状況は案外ストレスフルな生活でもある。
ようやく1人でゆっくり過ごせて肩の力が抜けた。
(興人君も高校に通ってるみたいだからすぐに会えるかな。結局気まずいまま出てきちゃったから、どんな顔して会おう)
喧嘩別れのような訓練場での出来事に千花は再び胸のざわつきを感じる。
「そうだ、帰るなら灯子さんに電話しないと」
邦彦が全てやってくれると言えど、流石に報告は自分でしたい。
千花は電源が落ちているスマホを充電しながら灯子の番号をかける。
(久しぶりの電話。元気かな灯子さん)
コール中は心臓が締めつけられるように緊張する。
なぜ電話をするだけで、と千花が自分自身に疑問を抱いていると、3コール目で灯子が出た。
『もしもし、千花?』
「あ、灯子さ……」
灯子の声が聞こえる。
その瞬間、千花の中で何かが壊れる音が響いた。
──ありがとうお母さん、お父さん
──行ってきます、お母さん
『久しぶりね、4ヵ月ぶりかしら。元気? 学校にはついていけてる?』
灯子の声には驚きと共に母としての愛情が感じ取れる。
だが千花は声が出せない。
声を出した瞬間、耐えているものも全て決壊してしまうから。
『長野も暑いわよ。避暑地だっていうのにこんなんだから、東京は酷でしょうね。熱中症には気をつけて』
「っ、……ぅっ」
『あれ、具合でも悪いの? 誰か近くにいるかしら』
「……けて」
『千花?』
灯子の心配する声、優しい母の声。
千花はスマホを手から落とし、ベッドに突っ伏す。
「助けて、お母さん」
千花の心は限界だった。




