長野へ帰りましょう
魔法こそ使えなかったものの、千花の体捌きはほとんど以前と変わらなかった。
「えいっ!」
目の前に立つ興人に素早く足蹴を繰り出す千花は、その足首を掴まれたとしてもすぐに受け身ですり抜ける。
無駄な動きは多いものの、素人としては手慣れたものだった。
「この1時間でよくここまで繋げられたな」
「私もよくわからないけど、興人君の動きを見てると何となく体が動くんです」
この半年にも満たない期間で魔王を2体倒しただけはある。
散々叩き込まれた体術は脳が記憶を失ってもしっかり覚えていた。
「後は魔法さえ使えればだが」
「私、多分教え方に問題があると思うのだけど」
体術と同じように軽く魔法を教わったが、何を行っているのかさっぱり千花には理解できなかった。
そして興人も教えることが下手だと自覚していないため、2人して行き詰まっていたのだ。
「シモンさんに教わってたからできてたんだな」
「シモンさん?」
興人の小さな独り言に千花は首を傾げる。
地雷だと思って今まで口にしておらず興人は焦るが、千花はやはり覚えていないようだった。
(シモンさんの姿を見せれば、何か思い出せるだろうが)
記憶を戻す手立てとして、興人は強硬手段もやむを得ないを考えている。
それが千花にとって苦痛でしかなくとも。
「なあ田上、ちょっと来てもらいたい所があるんだが」
「なんでしょう?」
興人は誘い出す。
たとえトラウマだとしても、手がかりになればと。
興人が手を差し伸べるよりも前に訓練場の扉が開いた。
「安城先生」
「おかえりなさい、……?」
先に気づいた千花に合わせて興人も扉を開けた主に挨拶をするが、その雰囲気に何か嫌な予感を覚える。
「戻りました。2人とも、まだ訓練中だったのですね」
確かに言われてみれば、邦彦が出ていってから帰ってくるまでに3時間以上はあった。
休み休みとは言え、病み上がりの千花にはハードスケジュールだっただろう。
無論興人は余裕そうだ。
「魔法は使えませんでしたけど、興人君と戦うことはできました」
「そうですか。体が覚えていたんですね」
喜ぶ千花を褒めつつも、その言葉とは裏腹に邦彦は若干苦しげな表情を見せる。
まるで千花に接することが苦痛だとでも言うようなその態度に、興人は堪らず口を挟む。
「あの、先生。王宮で何か……」
「田上さん、お話があります」
興人が全て言い切る前に邦彦は何も知らない無垢な表情の少女に口を開く。
「なんですか?」
「……長野のご実家へ、帰りましょう」
ユキは曇り空に覆われた静かな海岸に立ち尽くす。
全てを包み込むような海の中には、まだ悪魔が眠っているのだ。
「さあユキ、これを飲むといい。人間でも水中呼吸ができるように特別に改造された薬だ」
ローランドが懐から白い錠剤が入った瓶を取り出す。
人間がウォシュレイに行くために改造された薬だ。
だがユキは聞こえていないのかローランドの声を無視する。
「おい聞こえているのかユキ。俺の命令にはすぐ返事をしろと教えただろう」
ローランドが無視されたことにすぐ機嫌を悪くすると、ユキは「ああ」と今気づいたように振り向いた。
「申し訳ありません。心地良い波の音を聞いておりました」
「心地良いぃ? 悪魔が蔓延るこの海がぁ?」
ユキの微笑む表情にローランドは難色を示す。
光の巫女の素質が本当にある者は頭がおかしくなるのか。
「ごほん。いや、そんなことは良いのだ。ユキ、この薬を飲んで今すぐウォシュレイに」
「薬はいりません」
やはり聞こえたうえで無視したのではないか、とローランドが青筋を立てながらも自由なユキに詰め寄る。
「命令には従えユキ。何のためにお前を信用していると思っている」
「本当にいらないのですよ。私は、海の中でも息ができますから」
ユキはローランドの命令を振り切り、波が漂う海へ足を踏み入れる。
「お、おい待てユキ! まだ心の準備が」
「ローランド様はこちらでお待ちください。いえ、女王にお会いしたければ薬を飲んでもらっても良いですが」
ユキの誘いにローランドはさっと血の気を引かせる。
今から魔王退治に行くとは言え、流れ弾には当たりたくない。
「こ、殺す気か! お前1人で行け!」
とてもじゃないが身勝手なその命令に怒りを覚えるのは当たり前だろう。
だがユキは眉1つ動かさず、微笑を称えたまま海の中へ入っていく。
「も、もう行くのか」
「もちろんです。どうぞ結果をお楽しみに」
ユキは何も恐れることなく静かに全身を海に委ねた。