光の巫女の異変
そこから進展はなく、千花が意識不明になってから丸1日が経った。
予想はできていたが、トロイメア国の危機が近づいている今、もどかしい気持ちのみが燻っている。
(これが魔法陣か)
邦彦は国外れの森からトロイメア内部を見上げる。
何もないように見えるが、目を凝らすと透明の壁が国境に沿って張られている。
「容易には入れないようになっているのですね」
『ああ、混乱を招かないように国民には知らせていないが、勘のいい者は気づいているだろうな』
邦彦が握っている水晶玉からシルヴィーの声が響く。
トロイメアでの通信手段の1つだ。
『魔導士の中には反発派もいたが、国が滅ぶと考えれば協力せざるを得ないという者が多数だ。こちらの防衛は何とかする』
「ありがとうございます」
邦彦は手短に礼を述べ、連絡を切る。
流石はトロイメアの王宮魔導士と言うべきか魔法陣も寸分違わず防御できている。
シルヴィーの言う通り任せていいだろう。
(後は田上さんさえ目を覚ませば)
邦彦が未だ平穏を保っているトロイメアを黙って見上げていると、水晶玉が再び光り出した。
「まだ何かありましたか?」
『先生、俺です』
シルヴィーだと思って出た邦彦は声の主が興人であることにすぐ気づく。
興人が水晶玉を通して連絡してくることは珍しい。
『田上が目を覚ましました』
少し焦りを含んだその言葉に邦彦は目を見開く。
この1日がどれだけ長かったか計り知れない。
「すぐに行きます」
急いで水晶玉を切ると、邦彦はその場で帰りたい気持ちをぐっと抑えながら人目のつかない森の中へ移動した。
1分1秒でさえ今は惜しい。
「日向君、お待たせしました」
イアンの扉を開き、邦彦はすぐに医務室へ足を運ぶ。
扉の前には興人が心配と戸惑いの表情を浮かべて待っていた。
「田上さんの様子はどうですか?」
邦彦の質問に興人はわからないと言うように首を横に振る。
「検査をするから出ていけと。目を覚ましたことしかわからなくて」
だからここで立っていたのかと納得が行く。
邦彦もすぐに扉を開けて入りたいが、マーサに叱責されるのがオチだろう。
「目を覚ました様子はどうでしたか」
「ぼーっとしていましたが、寝起きだったので当たり前の反応かと思って特に気には留めていませんでした」
「そうでしょうね。結果を待つ他ないですか」
ここまで急いで、再び待たされなければならないことに邦彦が静かにやきもきしていると、医務室の扉が開いた。
「話が聞こえると思えばクニヒコもいたのか。タイミングが良いというか悪いというか」
興人を呼びに来たらしいマーサは邦彦の存在に気づいて珍しく気まずそうな表情を見せる。
「田上さんの状態はどうですか?」
その顔に少なからず疑問を抱きつつも、邦彦は本題を切り出す。
「……見ればわかるさ」
無事かどうかも答えず、マーサは中へと誘導する。
医者にあるまじきその態度に邦彦は嫌な予感を覚えながら中へ入る。
興人も後に続いた。
「頭を打ってるから刺激するなよ」
邦彦の目の前には簡素なベッドが2つ。
その1つに千花はこちらを向くように座っていた。
後頭部にかけて包帯は巻いてあるが、他に外傷は見当たらない。
「田上さん、おはようございます」
邦彦は複雑な感情を表出しないように努めて優しくゆっくりと千花に声をかける。
すぐに反応を見せた千花を見て、脳に大きな影響は出ていないことを確認し、一安心する。
「体調は大丈夫ですか?」
邦彦が更に質問を返すと、目を丸くして彼を見つめていた千花ははっとしたように我に返り、微笑んで口を開いた。
「はじめまして、お兄さん」
千花は普通の少女が挨拶するように朗らかに言葉を紡ぐ。
対称的に邦彦は驚愕という言葉が合う程に目を見開き、静かに硬直する。
「何言ってるんだ田上」
後ろで聞いていた興人も声を上ずらせながら早口で千花に聞き返す。
だが千花の反応は変わらなかった。
「あなたもはじめまして、ですか?」
千花は首を小さく傾げながら興人に聞き返す。
(これはまるで……)
この反応、今まで遭遇した経験はないが、予想はできる症状だ。
「マーサさん、これはどういうことですか」
わかってはいるが信じたくはない。
無意識に口から出た邦彦の言葉に後ろで待機していたマーサは仕方ないと言うように溜息を吐いた。
「身体麻痺は避けられたが、衝撃で傷を負ったみたいでね」
それは意識がない時からわかっている。
そんな感情が滲み出ていたのか、マーサはすぐに言い直した。
「巫女は、記憶喪失になった」