急死の救い
テオドールに衝撃の事実を告げられた邦彦は急いでウォシュレイの扉を開いた。
戦闘員はいないが、そんなことを考えている暇はなかった。
(田上さんはウォシュレイへの行き方を知らない。薬は飲んでいても地上に戻ってこれなくなる前に連れ戻さなければ)
邦彦の中では千花が1人でウォシュレイに行っているとは思えなかった。
ウォシュレイは七大国の中でも複雑な経路を辿る。
急げば敵に遭うこともなく千花を救い出せるだろう。
(王国の騎士がどうなろうと田上さんには関係ない。たとえ監禁したとしても策を練ってから田上さんは向かわせる)
邦彦は海岸を歩き、ウォシュレイの最短まで着く。
予備として渡された薬を2錠口に含もうとした邦彦は目の端に横たわっている影を見つける。
「あれは……」
そちらに視線を向けるとその物体が人の形をしていることがわかる。
顔は見えないが、その後ろ姿だけで邦彦はすぐに理解した。
黒い髪に見慣れた訓練着、そして魔法杖を持っている。
「田上さんっ!!」
邦彦は喉がはち切れんばかりに叫び、彼女の元へ駆け寄る。
抱き寄せた千花の体は全身濡れており、意識はない。
(脈はある。呼吸も正常だ)
生きていることだけが不幸中の幸いだ。
邦彦はその体を持ち上げようとして後頭部に殴られた跡を見つける。
命を狙われたのだろう、容赦なく打撃された瘤が出来ている。
(手遅れかっ)
既に魔王の手に穢されたか、はたまた配下の人魚か、どちらにせよ千花の体は無事とは言えない。
邦彦は道を引き返そうとし、謎の違和感を抱く。
(なぜ、生きている? 意識がない状態で地上に戻ってくるなど不可能では)
あるとすれば意識がなくなった千花を引き上げた何者かの存在。
そして、放置しても助けが来ることをわかっている者。
「アイリ……っ! いや、今は呼んでいる場合ではないか」
邦彦はすぐ近くにいるであろう正体を呼ぼうとし、優先事項を考えて留まる。
今は、抱えている少女の安否が1番だ。
(そうよ。さっさとチカちゃんを連れてここから消えなさい。どれだけ頑張ったって、結局1人じゃ勝てないその子はいらない)
アイリーンは邦彦に気づかれないように気配を消していた。
千花をウォシュレイから救った正体はアイリーンだが、公言する気はない。
「頑張ったって、誰も助けちゃくれないのよ。思い知っておきなさいチカちゃん」
アイリーンは独り言のように吐き捨てると、海の中に姿を消していった。
マーサに診察された千花は重い脳震盪を起こし、脳の内部にもダメージを負っていることがわかった。
「目を覚ますのは?」
「そこまでは私にもわからん。息はしているし、脳が機能していないわけでもないが、何かしら障害を持って戻ってくることは間違いない」
マーサの宣告に邦彦は眉間に深く皺を寄せる。
不運は重なるものだ。
「目が覚めてもしばらくは混濁が続くだろうね。病人を怒鳴るのだけはやめなよ」
「そんなことをするとでも?」
もちろん勝手な行動をした千花に何の感情も抱かなかったわけではない。
だが千花の焦りを予想できなかった自分にも非はあると邦彦は考える。
せめて咎めるのは千花が正常に戻ってからだ。
「マーサさん、引き続き田上さんをよろしくお願いします」
「お前はどうするんだい?」
「トロイメアへ」
千花がウォシュレイへ行った。
メイデンは──魔王はきっと、トロイメアを殲滅しに来るだろう。
シルヴィーに報告せねばならない。
「チカのためにも帰ってこいよ」
「無論です」
邦彦は医務室を静かに出ていく。
浄化ができなくとも魂だけ抜き取ることができれば。
だがシモンも千花も意識不明の重体に陥った今、魔王を対処できる者がいなくなった。
「先生!」
イアンの部屋に行こうとした邦彦の背後から声がかかる。
振り返ると心配そうな表情を浮かべた興人が近づいてきていた。
「田上はどうなりましたか?」
やはり気になるところはそこだろう。
あまり話を広げるのも後に響くが、興人は魔王退治にも関与している。
「いつ目覚めるかわかりません。ウォシュレイへは未定です」
邦彦の言葉に興人は何と返答したらいいかわからない戸惑った顔を向ける。
(日向君まで失うのは避けたい)
「君は指示があるまで機関から出ないでください」
「えっ。でも先生はトロイメアに行くんですよね? 何があるかわからないのに」
「何があるかわからないからこそ待機をしていてください。あなたまでいなくなれば、魔王に立ち向かう者はいなくなります」
「……俺は、何もしない方がいいってことですか?」
「今だけはそれでいてください」
興人のもどかしさも理解しながら邦彦は事前に念を押しておく。
これ以上戦力を失わないように。
「僕は女王陛下の元へ向かいます。もし田上さんに変化があれば、すぐに連絡をください」
「はい……ご無事で」
邦彦は今の現状を伝えるべく、急いでトロイメアへ向かった。
その陰で、海の脅威は刻一刻と近づいていた。