静かなウォシュレイ
人魚と出会ってからウォシュレイの外まで着くにはそこまで時間がかからなかった。
慣れない土地で慣れない体の使い方をしたため千花は息が弾んでいる。
「ここがウォシュレイ?」
人魚の隣にまで追いついた千花は下に広がる異様な光景に目を見張る。
「本当に海の中に国がある」
今まで泳いできた海は底が見えない暗闇に近づいているだけだった。
それが今や、コンクリートのように硬い石やレンガで出来た建物が眼前に広がっている。
人々が暮らす洞穴のような家が点々と並び、もっと奥を見ると一際目立つ神殿のような建物が目に入った。
「目的地には着いた。せいぜい餌にならないように足掻けばいい」
「え、ここまで?」
素っ気ない態度を取りながらも協力してくれるのかとばかり思っていた千花は身を翻して帰ろうとする人魚に驚きの声を上げる。
「案内してやったのは義務だからだ。なぜ我が共にいると思った」
冷たく言い放つ人魚は美しさも相まって威圧感がある。
千花が二の句を告げない間に人魚は挨拶もなく海の向こうへと消えていった。
(確かに好意的ではなかったけどこんな無関心なことある!? この人魚本当に魔王を倒す気ないの?)
仕方なく諦めているというよりも魔王に対して考えることをやめているような素振りに千花は理解できなくなる。
(とりあえず、国の中に入ってみた方がいいかな)
千花はウォシュレイの地面部分にまで下がっていく。
端まで行くと海底に続く所と地面がある所で分かれているため、ここが国境なのだろう。
(結界はない。このまま入ればウォシュレイには簡単に入れそう)
どれだけ気配を隠しても魔王には居所がバレるだろう。
全方位から攻撃されることを見越しながら千花は一度深呼吸をし、ゆっくり国内へ入っていく。
(穏やかというより、何もない?)
平和な国であることはまずないだろうが、無人ではあると予想できる程閑散としている。
以前赴いたウェンザーズの様相と似ていた。
(隠れてる人もいない?)
千花は慎重に中へと進んでいき、家の造りになっている建物を隙間から覗いてみる。
人魚には扉の概念がないのか四角くくり抜かれた穴が複数家にあった。
千花は少々罪悪感を覚えながらも中に入る。
(家具は机とドレッサーくらい。生活してた形跡もなし)
最近荒らされたという状態でもないが、長い間使われていなかったこともわかるくらい家具は古びている。
(そうだ隠れ家。どこかに隠れる場所があれば見張ってる人魚がいるかも)
経験から千花は一度外に出て他の家屋や隙間を探してみる。
試しに家具をノックするが、反応はない。
(見張られてる感じもない。ということは本当に誰もいない?)
千花が感じ取れないだけかもしれないが、どちらにせよ突然来た侵入者を人魚が味方だと思う可能性はほとんど低い。
一縷の望みは持たない方が落胆は少ない。
(女王がいるとしたらあの神殿だよね)
無意識に魔王から目線を外していた千花だが、いよいよ対峙しなければならない瞬間が来た。
何度も覚悟と挫折を繰り返してきながらもここまで来たのだ。
(心が挫ける前に、行こう)
千花は帰りたい気持ちをぐっと飲みこみ、神殿に向かって地を蹴った。
千花を案内した人魚は静かになった海の底から一気に海面まで泳ぎ切り、地上に顔を上げる。
人の形もしているため地上に出たとしても30分程は息ができる。だから苦痛ではない。
「静かだ」
人魚は近くにあった岩に腰かけながら人1人いない海岸を眺める。
この海岸が色々な種族で賑わっていたのも、もう遠い過去のことだ。
「静かで、何もなくて……穏やかでいいだろう」
人魚は誰に問うでもなく──否、自分に諭すように小さく呟くと、大きく口を開く。
「あぁ~──」
歌詞のない歌を人魚は水平線の向こう側まで響くように歌い続ける。
誰に聞かせるでもなく、自分だけが記憶に遺すように。
(1人で歌うことにも慣れた。1人でしか、歌えない)
人魚は声を上げながら、歌を響かせながら、静かに目を閉じる。
しかしその直前、海岸の方から新しい音が聞こえてきた。
(また人間か)
遠くからでもよく見える人魚にはないブロンドの髪と、ズボンと呼ばれる長い衣装に身を包んだ2本の足。
人魚はすぐに海に消えようとしたが、その人間は必要ないと言うように手で制する。
「あなたは必要ない。ウォシュレイに行くだけだから」
この女も目的が同じであるようだ。
だが人魚はそれより聞き捨てならない言葉があった。
「我が必要ないだと? 人魚の国に行くのに人魚が必要ないと?」
「ウォシュレイの行き方はわかるもの。案内はいらない」
「人魚がいなくて海を渡れるとでも?」
「海が人魚のものだと思っているなら大間違いよ」
その女は人魚を逆撫でするように海の中に入っていく。
当たり前のように人魚は殺意を抱いた。
「あの小娘と言いなぜウォシュレイに行く。あの女王を倒せるとでも……」
「悪魔も国もどうでもいい」
人魚の問いに女は素っ気なく言い放つ。
信じられない返答に人魚は耳を疑う。
「ではなぜ」
「1人突っ走る愚かな小娘を連れ戻しに」
女はそれ以上話す必要がないと感じたのか、すぐに海の中に潜っていく。
再び静けさを取り戻した海岸に人魚は疲れたように天を見上げる。
(ようやく諦めがついたのだから、放っておいてくれ)