美しき歌声の人魚
人魚は千花の存在を気にも留めず歌い続けている。
静かに漂う海に優しく響く高い声に千花は聞き惚れてしまう。
(哀しい声なのに、苦しくない。ずっと聞いていたい)
千花が見とれている間にも人魚の周りには小さな魚達が近づきながら泳いでいる。
表情もなく喋ることもないが、その姿は嬉しそうにも見える。
(このまま、永遠にこの歌を聴いていたい)
千花は見開いていた目をゆっくり閉じようとする。
意識が飛びそうになり、海に身を委ねようとした瞬間、歌が止まった。
(あれ?)
「そこで何をしている」
歌が終わったことに違和感を覚え千花が目を開けると上から先程よりかは少し低い声が降り注いだ。
千花が顔を上げるといつの間にか人魚の目がこちらに向いていた。
(バレてた!?)
まさか存在に気づかれていたとは思わず、千花は一気に焦る。
返答もできず慌てふためいていると人魚が塔から降りて泳いできた。
「人間か?」
正面に降りてきた人魚を見て更に千花は固まる。
なんと表現しても言葉が足りないほどに美しい貌つきをしていた。
切れ長の薄青い瞳に鼻筋も高く、ヒレまで届く長い1房の髪がゆっくり漂っている。
その容貌に千花が何も反応できないでいると、人魚はあからさまに機嫌を損ねたように眉を寄せる。
「聞こえていないのか」
人魚は千花の首を片手で掴み上下に揺さぶってくる。
手は魚の特徴らしく鋭い爪と水かきがついている。
「き、聞こえてます!」
端正な顔が目の前にあることよりも強く揺すられていることに千花は急いで返答する。
質問には答えたはずだが人魚は首から手を離してくれない。
「で?」
「え?」
「お前は人間か、そこで何をしているか聞いているのだ」
全部答えなければ解放してもらえないらしい。
目線だけでも逸らしたいが顔が動かせないため正直に口を開くしかない。
「に、人間です。ウォシュレイに行きたいんですけど道がわからなくて」
魔王退治とは言わないようにする。
この人魚が魔王に洗脳されていないとも限らない。
「なぜウォシュレイに行く。魔王の巣窟に行って何になる」
人魚が訝しみながら更に聞いてくるが、千花は戸惑いながらも言葉尻に見えた魔王への敵意を逃がさなかった。
(多分味方だろうけど、油断は禁物)
「遠くから視察しようと思って。3年も音信不通だったので」
無理のある理由だとは千花もわかっているが、白を切るしかない。
魔王のことは触れていないので敵味方はあちらも定かではないはずだ。
「……3年も見捨てておいて、何が偵察だ。所詮他種族などどうなっても構わないだろうに」
「そんなこと!」
千花が言い返そうと食い気味に口を開くが、人魚は信用ならないというような表情で目の前の人間を見ている。
「お前、名は?」
「名? 千花です」
素直に答える千花に人魚はその美しい瞳でじっと見返してくる。
数秒の後、人魚は千花に背を向けて泳ぎ始めた。
「ついてこい。現状を知ったらお前だって自分の愚かさを知る」
「ウォシュレイに案内してくれるんですか?」
「二度も言わせるな」
高圧的な態度に千花はモヤモヤした気持ちになるが、大海で彷徨うよりは大人しく好意に甘えよう。
「あなたの名前は?」
「なぜ教えなければならない。どうせ忘れるのに」
やはり偉そうな雰囲気は嫌いだ。
千花は気持ちを落ち着けながら人魚を追いかける。
人魚は案内してくれると言ったものの泳ぐ速さが人間には中々堪えるものがある。
(見失わないようにするだけで精いっぱい)
幸い視界を遮る魚はいない。
千花は仄かに光る鱗を頼りに人魚を追いかけていく。
(あの人魚は男の子なのかな? メイデン女王は上半身隠してたし)
歌声も地声も高かったので初めは女王と同じだと思っていたが、よくよく体つきを見ていたら線は細いものの人間の男性のように筋肉がついていた。
(魚の部類だとしたら男女区別はあんまりないのかな。生物の分類くらいで)
本物の人魚を見たのが彼だけであるためほとんど特徴がわからない。
人間と違うのは魚のヒレと水かきがあるくらいだ。
(彼、人間のことがあまり好きじゃないのかな? 見捨てられたこと、恨んでるみたい)
あの人魚がどう思っていようと千花が魔王を倒すのは決まっているが、それでも敵視されていることに関しては良い気分ではない。
(案内はしてくれるんだもの。贅沢は言っちゃいけない)
彼がもしウォシュレイの人魚だとすれば故郷を奪われたこともきっと怨恨が残っているはずだ。
(私はあなたの敵じゃない。もしあなたが魔王を恨んでいるなら、私が味方になるから)
千花は目の前でヒレをゆっくり動かしながら進んでいく人魚を見て、魔法杖を強く握りしめた。
「……」
千花の動きを気づかれないように見ながら、人魚は諦めたように目線を落とした。
(小娘1人来たところで、国は二度と戻らない)
人魚は望みも持たず、ただ義務に従って海流を泳ぐのみだった。