聞かなかったことに
嵐が過ぎ去った後かと思うくらいに取り残された廊下は静かだった。
野次馬と化していた面々も何事もなかったかのように仕事に戻っている。
「帰りましょうか田上さん」
そして邦彦もまた今までの睨み合いが嘘のように千花に向き直る。
ただ1人、千花だけが追いつけていない。
「え?」
「女王陛下の呼び出しも手違いがあったようです。急用もないとのことなので」
「だ、だって……」
何も説明されていないのに一方的に非難され、話を切り上げられれば納得いくはずもない。
「さっきの人は誰ですか? せめてそれだけでも」
千花は邦彦の目を見て慌てて言葉を飲み込む。
怒りとも憎しみとも取れる、黒い感情が渦巻いた目をしていた。
「敵です」
「敵?」
「あなたを良しとしない邪魔者、とだけ覚えておいてください」
邦彦の言葉にはそれ以上深入りするなという拒絶が含まれている。
千花は狼狽えながら以前教わったことを突然思い出した。
『人間の中にも新しい光の巫女が現れたことを受け入れない者がいる』
まだここに来てひと月も経たない頃に邦彦から教わったこと。
あのローランドがそうだとすれば敵は王宮にまでいるのだ。
「帰りましょう田上さん。日が暮れる前に」
「……わかりました」
命を張って戦っても認めてくれない人はいる。
千花は現実を突きつけられ、それ以上深掘りすることができなかった。
機関内には客室はない。
客人が来ることがそもそもない飛行船内だからこその特徴だろう。
興人が拾われた時はたまたま1つ空いていたそうだ。
「俺の部屋で寝泊まりしていいんだけど」
「お前自分が年頃の男子だってこと忘れてるだろ」
簡易的に千花がマーサの病室を部屋として使っている様子を見て興人が誘う。
千花の代わりにマーサが一蹴した。
「私ゃ仕事の邪魔にならなければ誰が部屋にいてもいいさ」
「トロイメアに戻るっていう手は?」
千花の提案にマーサはすぐ首を横に振る。
「クニヒコを敵に回したくなきゃここにいるんだね。鬼ごっこがしたきゃ別だけど」
「大人しくしてます」
王城での一件があってから千花の外出が再び規制されるようになった。
ローランドのような人間の中の敵にはもう会いたくないが、やはり規制されると良い気分ではない。
『私が悪いわけじゃないのに』
規制を宣言された際に千花はつい愚痴を零してしまった。
その時の邦彦は、申し訳なさを残しつつも諦めろと言わんばかりの顔をしていた。
「課題も残ってるんだろう? さっさと進めてしまえ」
用意してもらった簡易机には重みのあるリュックが置いてある。
昨日は疲れて寝落ちしてしまったが、このままダラダラしていたら本当に夏休みが終わる。
「オキトも同じ量あるだろ。訓練もほどほどにして取りかかってこい」
マーサが半ば追い出すようにして興人にも催促する。
恐らく邦彦がいなくても目の前にいる監視役がいれば課題はすぐ終わるだろう。
(とりあえず全部出していこう)
各教科のワークに復習用のプリントの山、中学生の頃まであった自由研究がないのが救いだが、集中を切らしたら終わりな課題が沢山ある。
「なんだ研究課題はないのか。お前なら簡単に書けただろうに」
「リースのことなんて書けませんよ!?」
テーマが異世界に行った感想なんて中二病か頭のおかしくなった人と思われるのがオチだ。
千花の慌てふためく様子を見てマーサはつまらなそうに席を戻す。
「作り話にはちょうどいいだろに」
千花は適当に笑いながらリュックの中身を確認する。
奥に挟まって忘れていたなんてことがよくあるため、念入りに課題のチェックは終わらせないといけない。
(あれ?)
リュックに紙の束はこれ以上入っていないことを確認した千花だが、見慣れない水晶玉が入っていた。
片手に収まるサイズの透明な水晶玉だが、もちろん千花が入れた覚えはない。
「マーサさん、1つ見てもらいたい物が……」
慎重に行動するように教わっている千花は敢えて触れず、マーサに協力を仰ごうとする。
しかし話しかけた直後、医務室の扉が勢いよく開き、ライラックが入ってきた。
「ちょっと来てマーサ」
「こちとら仕事してるんだよ。双子の喧嘩なら勝手にやってくれ」
「その仕事ができないから助けを求めてるんでしょうが」
マーサは面倒そうな表情をしながら連れていかれる。
白髪だらけの頭に皺が刻まれているマーサと見た目20代の若々しいライラック。
その正体が900年生きている不老不死だと知らなければ2人のやり取りに今頃戸惑っていたことだろう。
「行っちゃった」
嵐のように去っていった2人の間に入ることもできず、千花はリュックの中の水晶玉を見下ろした。
何もなければいいが、勝手にリュックに入っているなど何もないわけがない。
(見なかったふりしよう)
今日はリュックを持って出かける予定もない。
地雷を踏みぬくよりも待っている方が安心だ。
「面倒なものから片づけよう」
千花は水晶玉のことを考えないようにしながら目の前のプリントに向かった。
マーサがいる方が集中はできる──というか否応なしに集中させられるが、千花はやればできる子だ。
シャーペンを握って文字を書いていった。
30分後。
「あの不老不死共、限度ってもんがあるだろうが。私の体内年齢も考えてほしいね。で、あんたはなんで屍になってんだい」
マーサが首を鳴らしながら疲れ切ったように医務室に帰ってくる。
目の前にいたのは机に突っ伏している千花の姿だった。
「集中力が切れました」
千花の前には3枚分のプリントが置かれている。
千花と紙を交互に見ながらマーサは口を開く。
「先は長いな」
「現実を突きつけないでください」
「8月前半に終わらせれば遊べる時間も残るだろう」
千花もそれを狙って頑張っているが、果たして遊べる日は来るだろうか。
学校の課題はなくとも世界を救うという課題はいつまでも山積みだ。
「それで、今は休憩ってところか。気晴らしに訓練でもしてきたらどうだい?」
「そのつもり……あ、マーサさん。1つ確認してもらいたい物がありまして」
千花が呼び止めることは滅多にないため、マーサは片眉を上げて動きを止める。
話を聞いてくれるその態度に感謝しながら、千花はリュックごと例の水晶玉を見せた。