墨丘高校へ
「まぶしっ」
光の中心となっている千花も目を細めながら行く末を見守る。
『暖かい』
『もうちょっと頑張ってみよう』
『まだ、諦めたくないな』
光に包まれた魂の声は希望へと変わっていく。
千花はその言葉に耳を傾け、安堵の表情を浮かべる。
「良かった。これで戻れるかな」
千花が一段落していると、不意に体が重力に逆らうことなく落ちていった。
反応することができなかった千花は地面に尻を軽く打ち付けてしまう。
「いたっ」
幸い先程呑み込まれた位置とほとんど同じ高さだったため軽傷で済んだものの、何の判断もしていなかった千花は痛みに腰をさする。
「田上さん!」
千花が腰に手を当てながらその場に固まっていると邦彦の慌てた声が遠くから聞こえてきた。
そちらに顔を向けると邦彦が駆け寄ってきていることがわかった。
「安城先生」
「ご無事でしたか!? 怪我は? 気分が悪いところはございませんか」
「大丈夫です。疲れすぎて眠いですけど」
千花が少し虚ろな目になりながら、しかしはっきりと邦彦の問いに答える。
邦彦は心配した表情のまま溜息を1つ吐いた。
「激しい疲労は予想していましたが、まさかあれに呑まれてここまで無傷でいるとは。とにかく今は静養が必要です。車まで行きましょう」
「あー、でも私今立てなくて。ちょっと待ってもらえませんか……ってうひゃあ!?」
千花が困ったように笑いながら邦彦に頼もうとする。
しかしほぼ同時に邦彦が千花の膝と背中に手を回し、抱き上げた。
「失礼しますよ」
「いやいや! あの、重いでしょ? 私太ってはいないけどモデルみたいに痩せてるわけでもないし。しかもこんなお姫様抱っこされると恥ずかしいっていうか」
「喋ってると舌を噛みますよ」
「はい……」
千花の焦りを邦彦は冷たく一蹴する。
幸い千花達を見ている人はどこにもいないため、恥がないだけまだマシだと思うことにした。
車に戻った2人はそのまま閑散としている道路を走っていく。
「逃げていた人達はどこに行ったんですか」
「黒い塊に呑みこまれた人や悪魔にされた人は一度記憶をリセットされます。家なり学校なり、そこから生活を再スタートさせるんです。被害に遭わなかった人達もまた機関が記憶を書き換え、悪魔は『なかったこと』にされるのです」
確かに言われてみれば先程地割れのように崖崩れが起きていた道路は綺麗な舗装されたものに戻っている。
人がいないことを除けばいつもの都会といった感じだ。
「機関ってなんですか」
「僕達が住んでいる世界の中でも地球との交通を管理している者達のことです。僕もその中に入りますが……いえ、その説明は学校に行ってからにしましょう」
邦彦の言葉の意味を理解するのに千花は相当な時間を要した。
しばらく沈黙が続いた後、千花が「ああ」と声を上げる。
「学校に行くんでしたよね。忘れてました」
「つい先程説明したばかりでしょう」
そうはそうだが、元々忘れやすいことに加え、あんな騒動が起こった後にのんびり車で邦彦の所属している高校に行くなんて呑気なことは考えられない。
「そういえばずっと思い出せなかったんですよ高校名。えっと、『あく』、『あけ』……」
「おやおやなんとバ……いえ、初歩的な思い出し方でしょうか。ネットで東京の高校と検索すればいいものを」
「それだと時間がかかるじゃないですか」
「……」
千花の脳内がよくわからない邦彦だが、1つずつ突っかかるのも面倒だと考えたのかそれ以降は何も口出しすることなく終わった。
車を走らせること30分。
千花は振動で目を覚ました。というよりも自分がいつの間にか寝ていたことにその時初めて気づいた。
「着きましたよ田上さん」
「私、寝てました?」
駐車しながら邦彦は目を覚ました千花に対してアナウンスする。
千花はヨダレが出ていないか口周りを拭きながら邦彦にわかっていることを質問する。
「はい。それはもうぐっすり」
「すみません」
「いいえ、あれだけ巫女の力を使っていれば寝落ちするのは仕方ないことです。むしろ想定の範囲内でしたよ」
ただ、と邦彦は少し意地の悪いからかうような笑みを含んだまま更に口を開く。
「そこまで親密でもなく、体格差も力量の差もあり、決して無欲ではない男と2人きりの車で無防備に睡眠をとるということは今後控えた方がいいですよ」
邦彦の冷やかしに千花は咄嗟に全身を隈なく見回す。
しかし乱れているところは見当たらない。
「するわけないでしょう」
「そ、そりゃそうですよね」
正直邦彦なら弱みを握って千花を言いなりにするのではと考えていたが、そこまで姑息な真似はしないらしい。
邦彦は自身のシートベルトを外しながら千花の方へ目をやる。
「さあ出てください田上さん。僕が抜けたことは学校へは秘密にしているのであまりこの場を見られたくないんです」
「は、はい」
邦彦に促され、千花は慌てて外へと出る。
30分も仮眠をとっていたからか、先程までの激しい眠気と倦怠感は和らいでいる。
「裏口から入りましょう。僕はどこか空き室がないか確認してみますからなるべく目立たないように隠れていてください」
邦彦の後に続いて少し狭い道を千花は通る。
そして確認を取るという邦彦を待つために人がほとんど来ないであろう廊下の隅に座り込んで息を潜める。
(あった校舎名。墨、丘……墨丘高校か)
校門から薄ら見える字を頼りに千花は高校名をようやく当てることができた。
本当に永遠に終わらないかもしれなかった名前当てクイズはそこでようやく終結した。
「お待たせしました。今は授業中ですので静かにしていただければ気づかれることはありませんよ」
邦彦が戻ってきたところで千花も立ち上がり校舎内へ入ろうとする。
玄関口で靴を脱ぎ、そのままその場に固まる。
「田上さん?」
「広っ」
約束通り声は落とした千花だが、やはり感想を述べないわけにはいかなかった。
何のことかわかっていない邦彦に千花はどもりながら胸のうちを吐く。
「広すぎませんか。廊下の向こうにある教室が豆粒みたいですよ。高さだって5階くらい? ちょっとしたマンションじゃないですか」
「マンションかどうかはさておき、確かに墨丘高校は広いですね。東京の中でも特に大きな学校と言われてますよ。何せ全校生徒で1000人ですから」
「せんっ!?」
千花の通っている中学の全校生徒は300人。有名な高校でも500人はいる。
それを優に超すほどの生徒数ともなればここまで広く作らなければ芋洗いのようになってしまうだろう。
「東京ってすごい」
「ここはほんの一部ですけどね。さあ着きましたよ。面談室なので多少声を出しても外には届きません」
千花が通されたのは教室ほど大きくはなく、かと言って息苦しいほど狭くもない個別面談を行う場所だった。
千花の学校にも同じようなものはあるため、どのような用途で使われるかはわかっている。
千花は話ができるように邦彦の向かいに座った。
「では説明を始めましょう。念を押すようですが、このことは他言無用でお願いします」
邦彦の念押しに千花は二度頷いた。
自分にも言い聞かせておかないとうっかり口に出しそうだからだ。
「それではまずは僕達の住まう別世界についてお話しましょう」
邦彦の説明が始まった。