私、もう戦えない
激戦から少し遠ざかり、唯月は千花を座らせる。
先程は自分もゴルベルに狙われていたため気づかなかったが、千花の顔色はかなり悪い。息も荒くなっている。
(田上さんにこれを飲ませないと。でも、ここまで苦しそうなのに飲ませられないな)
首に手を当てるとかなり熱が溜まっている。
この状態で戦っていたのであれば命が今あるだけでもかなりの幸運だ。
(でもどうして。つい今朝までは元気だったのに)
ゴルベルに魔法をかけられたか、唯月が体を確認すると、首の側面が赤黒く腫れていることがわかった。
「これ、もしかしてあの人の毒じゃ」
父がゴルベルに囚われているなら他の3人も悪魔に乗っ取られている可能性が高い。
そして敵として千花を襲っていることも。
「この症状は神経毒か。どうしよう。薬は持ってないし」
毒に侵された体では回復薬の効果も薄くなる。
まずは毒を取り除かなければいけないが。
「そういえば」
唯月は3年前、父に教えてもらったことを思い出す。
『いいかイツキ。もし人間が毒を受けた所を見たらすぐに解毒してやりなさい。ヴァンパイアと違って人間は毒に耐性がない』
『薬がなければどうするの?』
『毒の部位から血を抜くんだ。ただし人の血を吸う時は注意しなさい。人は、血を命の糧としている。吸い過ぎれば人助けは人殺しになる』
唯月は迷う。
この場で千花を救う手立てはこれ以外にないが、唯月は人から血を吸ったことがない。
加減もわからない。
(僕の力量で田上さんの生死が決まる)
最悪の場合を考えただけで背筋が凍る。
だが、それしか方法がないのであれば。
「田上さんは死なせないから」
唯月は寝ている千花と、自分に言い聞かせるように力強く頷いてから、千花の首に牙を当てた。
千花は目の前の絵本に描かれている人物を見て顔を強張らせる。
黒いマントに青白い肌、一際目立つ鋭い牙。
後ろにいる母を千花は見上げる。
『お母さん。この人って悪い人だよね』
『ヴァンパイアのこと? そうね、この絵本では悪者ね』
『違う絵本は悪者じゃないの?』
母の言い回しに千花は首を傾げて聞き返す。
『わからないわ。ヴァンパイアだから悪者、人間だから良い人とは限らないのよ千花。出会ったその人をしっかり見て、認めてあげるの』
『……難しくてよくわかんない』
口をとがらせる千花を灯子は微笑ましそうに笑う。
『きっといつかわかるわ。あなたは優しい子だから、千花』
微笑んでいる灯子はそのまま霧の中へと消えていく。
その姿に驚くと同時に千花は正気に返った。
(あれ? ここどこだっけ)
千花が夢と現実のギャップに呆然としていると、頭上から声がかかった。
「田上さん! 目が覚めた?」
視線を上に向けるとヴァンパイアの青年が千花を見下ろしていた。
しばらく考えた後、その正体が唯月であることを理解する。
「風間先輩、それが本当の姿なんですね」
人間体しか見ていなかった千花はぼんやりとした頭で言葉を続ける。
人間の姿ほどではないが、優しそうな表情は変わらない。
(お父さんと顔がよく似てる。ん? なんで私風間先輩のお父さんを知ってるんだっけ)
そこで千花は現実に帰る。
勢いをつけて上半身を起こすが、激しい目眩に襲われ体勢を保っていられない。
後ろから唯月が支える。
「ごめんね。毒を抜くために血を吸ったからしばらく動かない方がいいよ」
「毒? そういえば」
確かに吐き気や全身の痛みはほとんどなくなっている。
首に手を当てても熱は残っていない。
「風間先輩が、助けてくれたんですね。ありがとうございます」
「助けたなんて大それたことはしてないよ。それに、お礼を言うなら僕の方だ」
唯月は千花に向き直り、優しく微笑む。
「君が僕に戦う意思をくれた。本当に大切なことを教えてくれたんだ。ありがとう、田上さん」
逆に礼を言われ、千花は顔を赤くする。
恥ずかしさに視線を彷徨わせていると、千花は自分の手に持つ杖を見つけ、絶句する。
「っ」
「田上さん?」
一転、表情を強張らせる千花に唯月は首を傾げる。
その視線の先を追うと、無残に折られた魔法杖があった。
「……風間先輩、ごめんなさい」
「え?」
「私、もう戦えない」
あれだけ唯月を鼓舞してくれていた千花が、戦意を喪失している。
何事かと唯月が聞く前に、震える口で千花は言葉を絞り出す。
「私じゃゴルベルに勝てない。魔法も、攻撃も、何もできない。杖も折られて、もう、私は……」
千花の心が恐怖で覆われていることは唯月もよくわかった。
唯月が来るまで千花はたった1人でこの場にいたのだ。
ゴルベルに何を唆されたかは予想がつく。
(僕が、もっと早く来ていれば)
千花をここまで恐怖に陥れなかったかもしれない。
だが、もう時間を戻すことはできない。
「田上さんはここで休んでて」
「先輩?」
「君のおかげで僕はここまで来れた。もうこれ以上逃げない。だから、田上さんは無理しないで、ここにいて」
唯月はそう言って笑みを返すと、すぐに踵を返した。
千花はその表情に引き止めることができない。
(わ、私も戦わないと。風間先輩が殺されちゃう)
これ以上目の前で誰かが傷つくことだけはさせられない。
心ではそう思っているのに、体は石のように動かない。
(杖がないからなんだ。シモンさんが素手で魔法が使えるんだから私だってできるはず。ゴルベルにだって効く魔法があるはず……)
自分で自分を鼓舞しようと色々な言葉を出すが、体は動いてくれない。
自分が傷つくことへのトラウマが根強く残っている。
(魔法を全部無効化されたら。また首を掴まれたら、今度こそ殺されるんじゃ)
毒はなくなったはずなのに呼吸はしづらくなる。絞めつけられる心臓部分に手を置いて強く握りしめる。
(怖い……)
「あらあら巫女様。もうおしまいですの?」
「!?」
背後からどう聞いても男性のものではない声が降りかかってくる。
慌てて振り返ると、そこにいたのは銀髪の女性だった。
「あなた、どこかで?」
実家で一目見ただけの、赤い瞳を持つ女性。
その人が、目の前に立っていたのだった。