虫を操る老人
「チカ、起きろチカ」
名前を呼ばれながら揺れ起こされた千花は重い瞼をゆっくり開ける。
「……ここは?」
先程まで廃墟にいたはずだ。
目の前は確かに瓦礫だらけではあるが、廃墟よりも暗く、嫌な空気がまとわりついている。
「起きたかチカ。外傷もなさそうだな」
「シモンさん?」
覚醒までに時間がかかる千花は隣で安心した表情を浮かべているシモンを見上げる。
「私、また寝てました?」
「というより気絶させられただな。思い出せるか?」
シモンに呼びかけられ、千花は気絶する前の記憶を引っ張り出す。
邦彦達が唯月を送りに行き、シモンと会話をした後、奥の方から物音がしたのだ。
「そうだ、悪魔!」
千花が完全に覚醒したことを見届けて、シモンは相槌を打つ。
誰もいないはずの廃墟から物音がする現象に悪魔であることはすぐにわかった。
しかし正体も掴めないまま千花は何かに引きずり込まれたのだ。
「完全に油断してたな。別世界に連れてこられて攻撃受けてこのザマだ」
千花はシモンの腕を見る。
服の下から血が滲んでいる所が見える。
「ごめんなさい。私がもっと注意してれば」
「今更悔いたって仕方ない。とりあえず、ここがどこか探るか」
シモンは立ち上がって辺りを見渡す。
千花も怪我がないようにゆっくり立ち上がりながら、暗闇に目を凝らす。
「牢獄ではなさそうですね」
目を慣らしていくと、檻のようなものはどこにもないことがわかる。
シモンが進むのについていくが、広い空間としか認識できない。
「魔法は使えますか?」
「多分な。敵がどこに潜んでるかわからないから迂闊には出せない」
千花も魔法杖を出そうとするが、シモンの言葉に動きを止める。
確かに、ここが敵の陣地であることに変わりはないのだ。
「出口もわからなければ、対処法もない感じですかね」
千花の言葉にシモンは頷く。
きっと今頃残された邦彦達が心配している頃だろう。
「仕方ない。危険だが、周りを明るくするか」
シモンは手中に小さな光を出す。
微弱だが、何も見えなかった先程よりは心強い。
「洞窟か」
「ウェンザーズで地下に落ちた時と同じ雰囲気です」
リョウガと迷い込んだ牢獄に似ている匂いがする。
地面もでこぼこしていて歩きづらい点が同じだ。
「あの時は歩き続けて大きな壁がありましたけど」
「同じようにはいかねえだろうな」
土地勘のある味方は今はいない。
敵がどこから来るか、自分で見極めなければならない。
(でも、あの時のリョウガとはほとんど敵同士だったけど)
味方というよりは同じゴールを目指すためだけに結成されたペアだった。
千花が敵の拠点だというのに呑気に考えていると、シモンが不意に止まった。
「わっ」
「しっ。誰かいる」
シモンが一気に警戒態勢に入るため、千花も慌てて現実に戻ってくる。
またシモンに怪我を負わせるわけにはいかない。
(あれは)
シモンが睨んでいる方向を千花も覗く。
音もなく近づいてくる物体は、怖気ることなく距離を詰めてくる。
初めに足が見え、段々その姿が現れる。
「くひひっ。一気に2人もカモが釣れた」
そのヴァンパイアは痩せ細った老人だった。
着ているローブから見える腕は骨が浮き出ており、奇妙に笑う顔には皺が刻まれている。
「チカ」
「はい」
皆まで言われなくとも千花は杖を手に取る。
先手を打たれる前に倒す魂胆だ。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
千花は聞く耳を持たず老人に攻撃を仕掛けようとする。
だがその直前、首に鋭い痛みを感じる。
「いたっ」
「チカ?」
攻撃するはずだった千花が痛みを訴えるため、シモンは横目で確認する。
「後ろががら空きだよ」
老人の言葉にシモンが振り返ると、灯りに紛れて何かが逃げていくのがわかる。
「ちっ」
敵を逃がしたことにシモンが舌打ちをするが、千花はすぐに杖を持ち直し、老人に泥団子を発射する。
「うわっ!」
老人は腹に泥団子を投げつけられ、情けない声を出しながら後ろに倒れる。
「私は大丈夫です。シモンさん、まずは敵を倒しましょう」
首の痛みもすぐになくなった。
熱はまだ持っているが、動けないほどではない。
「無理はするなよ」
見えない攻撃に戸惑っていたシモンも改めて敵へ向き直る。
老人は体が重いのかゆっくり起きる。
「この弱々しい体に向かって突然攻撃するとはそれが光の巫女か!」
憤る老人に千花は驚きを隠せない。
「私のことを知ってる?」
吸血コウモリや唯月の件で目立ちすぎたか。
悪魔が光の巫女の正体を知っているのであれば確実に狙われるのは千花だろう。
「そうとなれば話は別だ。チカは下がって防御してろ」
千花が狙われることは確実だ。
シモンは後ろ手で千花を下がらせると老人に向き直る。
(怪我してるのに)
「無理はしないでくださいね」
「わかってる」
そう言いながらシモンが無茶をすることは千花もよくわかっている。
ただ守られるだけはなしにしたい。
千花はシモンの後ろで魔法杖を構える。
「ゴルベル様の魔力をもらったこのワシに勝てるとでも?」
体勢を立て直した老人がローブを翻すと中から何かがたくさん蠢いているのが見える。
灯りを頼りにするとそれが虫であることがわかる。
「ひっ」
虫が苦手な千花は反射的に小さく悲鳴を上げる。
だがシモンは怯むことなく地面を這いつくばってくるムカデや毒虫を風で蹴散らしていく。
「え? あ、いやいや虫を飛ばしたくらいで何を偉そうに」
老人の言葉にも耳を貸さず、シモンは怪我をしているとは思えない速度で走り抜けるとそのまま老人目がけて拳を振り上げる。
「ぐふっ!」
頬を殴られた老人はシモンの目の前で倒れ込む。
「なぜ殴る!?」
「老人に魔法で重傷を負わせるか。さっさとその体から出ていけ」
魔法を使わなかったシモンに呆気に取られていた千花も理解した。
ミイラ化していないということは老人の魂もまだ眠っているだろう。
「ふざけたことを。ワシがこの体から離れるか、お前が倒れるかどちらが先だろうな」
そう言い老人はシモンに向かって虫を繰り出そうとする。
(危ない!)
「泥の海!」
シモンを守らなければという意思で千花は思わず魔法を発動させる。
泥は加減なく老人と虫を覆い、閉じ込めた。
「……話聞いてたかチカ」
「すみませんつい」
シモンなら目の前に来た虫ごとき瞬殺できるだろう。
千花は咄嗟の判断を謝罪する。
「さて、完全に身動きが取れなくなったようだが、まだ戦うか?」
意識はあれど、大量の泥をかけられ動きを封じられた老人は咳き込みながら薄気味悪く笑う。
「これで勝ったとでも? ゴルベル様は更に強い。お前達が完全敗北するまで時間はかからないさ」
捨て台詞を吐くと、老人は気を失ったように倒れる。
その口からは黒いモヤが流れ、どこかへ消えていく。
その瞬間、辺りが晴れた。
「元に戻った?」
突然変わった世界に千花は目を細める。
目の前は白いタイルが貼ってある道であり、後ろを向けば全てガラスで覆われている。
螺旋状に連なっている階段が真ん中に設置されており、見上げれば天井が高い位置にあった。
「廃墟ではないですね」
「中央塔だ。バスラの、いや、今は魔王の根城だな」
「ていうことは、ここにゴルベルがいるんですよね」
敵に連れてこられたとはいえ、これは好機と呼んでいいだろう。
吸血コウモリが監視している外を経由せず来れたのだから。
「戦力が少ないのが欠点だが、つべこべ言ってられないか」
「安城先生達もきっとこっちに向かってくるはずです。今は急ぎましょう」
ゴルベルがいるとすれば上だろう。
シモンの予想を信じ、千花達は階段を上がることにした。
「っ?」
歩き出そうとする千花は首筋に小さな痛みを感じる。
先程虫に刺された部分だ。
(……収まった? トゲでも入ってたかな?)
すぐに収束した痛みに千花は深く考えることをやめ、再びシモンを追いかけた。