3年前、バスラは
『お父さん! 今日もお仕事に行ってくるの?』
千花は少し高い少年の声を耳にする。
目を開けると緑色の髪を持つ少年が背の高い男に声をかけていた。
『ああイツキ。いつもハヅキの世話を任せて悪いな』
男は恐らく少年の父親だろう。
「イツキ」と呼ばれたということは、これは唯月の少年時代だろうか。
『大丈夫だよお父さん。お父さん達が毎日お仕事してくれるから、ヴァンパイアは平和に暮らせるんだよね』
唯月はとても優しそうな微笑みを浮かべながら父親の手を握りしめる。
唯月の顔を覗き込むと、やはりヴァンパイアの特徴を捉えていた。
(ヴァンパイアだから当たり前か)
純粋な唯月に、父親は気難しそうな顔にぎこちなく笑みを浮かべて頭を撫でる。
『じゃあ行ってくるよイツキ。ハヅキと留守番頼んだよ』
『任せて!』
手を振って見送る唯月に父親も小さく応える。
これは、平和だった頃のバスラの光景だろう。
千花が次に目を開けた瞬間、轟音が辺りに響く。
(!?)
千花が体を震わせる中、隣に少年が現れる。
先程よりも少し歳を重ねた唯月だった。
『何この音!? ハヅキ!』
唯月が揺れる部屋をよろけながら移動する。
目的地は妹のハヅキだ。
『兄さん、この音は?』
唯月と似た顔つきのハヅキは、不安そうにしながら兄に聞く。
唯月が状況確認のために窓を開けると、霧の向こうから炎と建物の崩壊する音が聞こえる。
『火事!? 湿気の多いバスラで起きるわけが……』
『全員窓を閉めろ! 魔王がバスラに侵入してきた!』
外の光景に呆然としている2人の耳に、他のヴァンパイアが真実を伝えに来る。
急いで窓を閉める唯月だが、その一瞬で塔が破壊される所を見た。
『父さん! 父さんの所に悪魔が!』
唯月は慌てて部屋を出ようとする。
しかしその前に近くにいたシュウゲツに行く手を阻まれる。
『放してシュウゲツ! 父さんが危ないんだ』
『今外に出たって殺されるだけだよ。部屋にいろ』
『父さん! 誰か父さんを』
唯月の悲痛な声は、シュウゲツや他のヴァンパイアの悲鳴によって掻き消された。
それから数日後、悪魔の所業に朝も夜も静かなバスラに痺れを切らしたハヅキが立ち上がった。
『兄さん、父さんを助けに行こう。このままじゃずっとこんな不自由な生活しかできないよ』
『どうやって? 父さんが帰ってこないなら、絶対魔王に乗っ取られてるんだよ』
唯月が否定的に断るため、ハヅキは眉間に皺を寄せながら叱咤する。
『そうやって言い訳ばかりするからいつまで経っても何もできないのよ。私が行ってくるから待ってて』
『ハヅキ!? 1人で外に出ないで!』
唯月がハヅキを追いかけようとする。
幼いハヅキは吸血コウモリを知らない。
早く止めなければ餌食になってしまう。
『ハヅキ、止まって!』
同じ速度で走るハヅキと距離が縮まらない。
押し問答が続いているうちにハヅキはビルの外へ出てしまう。
『ハヅキ!!』
唯月が声を荒げて妹を呼ぶのと、吸血コウモリが襲いかかるのは同時だった。
ハヅキはものの数秒でコウモリに小さな体を覆われ、血を吸われていく。
『嫌だ! ハヅキ!』
唯月は自分も襲われることを顧みず、ハヅキの元へ駆け寄る。
吸血コウモリから解放されたハヅキは、ミイラのように瘦けた体になった。
『ハヅキ! ハヅキ……っ』
『うるせえなあ、寝れねえよ』
唯月が豹変した妹に必死で呼びかけていると、頭上から気だるそうな声が聞こえてくる。
それは、見慣れた顔だった。
『とう、さん……?』
『血を飲まなきゃ生きていけねえ体に入っちまってよお。本当にめんどくせえなあ。あ? トウサン?』
今までの優しく、頭がいい父親は見る影もなく、目の前の男は吸血コウモリを従えている。
男は唯月の顔を見て瞬時に察したように笑った。
『いいなあ。おい、そいつは生かしておいてやるよ。その代わり、別世界に行って毎日血をコウモリに渡せ。そうすりゃわざわざ塔から出なくても血が飲めるってもんよ』
『父さん? いや、お前は』
『口の利き方には気をつけろよお。俺は魔王様だからなあ?』
唯月が息を呑んで絶望に打ちひしがれている中、魔王ゴルベルは見逃すという言葉通り吸血コウモリを従え、霧の中へ消えていった。
次に目を開けると、唯月が寝込んだハヅキの前に座りこんでいた。
『ごめんねハヅキ。僕が身代わりになれば良かったのに』
ハヅキは苦しそうに小さく呼吸している。
唯月は土こけたハヅキの顔を優しく撫でる。
『魔王は父さんに取り憑いたんだって。父さんが、勝てなかった魔王だよ』
ハヅキを撫でる手が震える。
ハヅキの顔に、1滴涙が落ちる。
『ハヅキ、父さん、置いていかないで。僕じゃ、あいつに勝てないよ』
唯月はベッドに崩れ落ちながら、虫の息の妹を抱きしめる。
『誰か助けて……父さん、光の巫女様』