8、混沌
祭儀当日、リニは祭儀が始まるよりもかなり早くに教会を訪れた。肩から下げた小さな鞄の中には、清めの水の採取容器を入れている。
教会の外には警邏隊員がすでに配置されている。計画がうまくいかず騒動になった場合や、市民が水を飲んで事件を起こした時に備えて街に待機しているのだ。
エヴァンはバディなので、教会の一番近くに待機しているはずだ。
この三日間、エヴァンとリニは必要以上に接することはなかった。終業後はそのまま別れ、ともに食事にも行かなかった。
リニにはエヴァンの変化の理由に心当たりがあった。
魅了にかかってからだ、エヴァンに避けられているのは。自宅待機から復帰し、変わらぬ態度にほっとしたのも束の間、いきなりキスしてきたかと思ったら避けられるようになった。
仕事はきちんとするので問題ないが、自分に対しての変化の乱高下は一体なんなのだろうとリニは疑問に思うし、避けられることは悲しい。
というのも、リニの方は徐々にエヴァンへ気持ちが傾いていることに自分で気付き始めていた。
魅了にかかったことは関係ない。彼は価値観を崩すきっかけをくれたし、一緒にいて居心地が良い。キスには動揺したが嫌ではなかったし、それに自分を丸ごと受け入れてくれる人だ。
この仕事が片付いたら、エヴァンが自分を避けている理由を問い詰めなければとならないとリニは考えている。
教会の扉はすでに開放されており、中には早くも十人ほどが席に着いて、壇上を見つめたり、祈りを捧げたりしていた。
清めの水や冊子はまだ配られていない。司祭らもいない。祭儀前の儀式に入っているだろう。教会内は静かだ。
こそこそ移動した方が怪しまれる。金髪のカツラをかぶっているリニは、何食わぬ顔で教会の前の方へ移動し、壇上前から舞台袖を覗き込む。
リニの記憶では、清めの水はここで準備していた。
予想通り、舞台袖ではあの時の痩せた子どもが大きな机にたくさんの杯を並べているところだった。水の入っているであろうポットも置かれている。まだ注ぐ前だ。
「おはようございます」
壇上に上がり、驚かせないように出来るだけ穏やかな声で話しかけたリニだが、その子どもはびくりと肩を大きく震わせた。
この間のような聖歌隊の服はまだ着ておらず、質素なシャツとズボン姿だ。細い腕が際立つ。
「驚かせてごめんなさい。私はここの教会で育ったリニと言います。懐かしくなって覗いてしまいました。あなたの名前は?」
性別不明だった子どもはよく見ると少女のようだった。線が細い。怪しいものを見る目でリニを見つめていたが、同じ教会で育ったという言葉に少しだけ肩の力を緩める。
「…アンナです」
「アンナさん。清めの水を準備しているんですか? 私も昔していました。お手伝いを?」
「い、いえ!」
強く拒否されたのでリニは軽く頷き、少しだけアンナに近付いてその様子を眺めた。横目で水の入ったポットを見る。魔術がかかった状態かどうか、外目には分からない。
リニはアンナが杯を並べるのを見ながら話を続けた。アンナは半年前に教会に来たばかりだという。
「教会にはいま大勢子どもがいるんですか?」
「…いえ、多くはいません。数人です」
「まあ、それは教会の仕事を分担するのが大変ですね」
杯を並べ終えたアンナは、ポットの水を注ぎ始めた。細い腕で大きなポットを抱えるのが重そうだ。
「いつもお一人で準備されているんですか?」
「…そうです」
「それは、あなたじゃないと出来ないお仕事だからですね?」
リニの言葉に、アンナはまたびくりと震えて固まった。恐る恐るリニを見やる。その瞳には怯えの色。
「あなたの仕事を知っています。でも保護されるべき子どもがこんな仕事をする必要はないと思いますが。あなたがやりたくてやっているんですか?」
本当にアンナが魔術をかけているのかどうかは分からない。カマをかけた。
清めの水に魔術をかけていることを、もしもアンナ自身が罪悪感なく行っているのだとしたら、リニは彼女を保護するのは諦めようと思っていた。強引に連れて行くことは難しい。
だが、祭儀で見たあの青白い顔。彼女が無理をしているのは明白だった。
リニに問われたアンナは白い顔をさらに青白くし、その視線は宙をさまよった。
しばらく逡巡し、それから本当に小さな声ではあるが、意を決したように、口を開く。
「……違います…やりたくない…」
「分かりました」
その時。
壇上に誰かが上がってくる音がして、リニはそちらを振り返った。コーディが驚愕の表情で二人を見つめている。リニの予想よりも来るのが早かった。
リニは以前と同じ金髪のカツラを付けていたが、それが誰であるかに気付いていることは明らかだ。
「リニ…、ですね?」
「コーディ司祭、おはようございます」
「なぜこんなところに? 祭儀はまだですよ」
「懐かしくなって少し覗かせてもらいました。昔は私もやっていたなあって」
コーディはリニの言葉を疑うように訝し気な目でリニをじっと見つめた。リニは出来るだけ明るい声で話しかける。
「祭儀が終わったらアンナさんをお借りしてもいいですか? お友達になったんです」
「だめです!!」
リニの言葉にかぶせるようにコーディが大声を出した。それに驚いたアンナが怯えたように身を縮める。
リニはアンナを背に隠すように位置を変えると、コーディに向き合った。
その様子を見たコーディは表情を一変させた。
リニの目的に気付いたのだろう。普段の穏やかな顔からは想像できないほど、ギラギラとした怒りに満ちた視線をリニに向ける。
「リニ。余計なことをするんじゃない。黙っていろ」
「なんのことだか」
教会とコーディ。絶対の正義と植え付けられてきたものに歯向かう。それはリニにとって勇気のいることだ。
だが、怯んでいられない。リニは足に力を入れた。
「しらばっくれるな、変装してこそこそと。出て行け」
「それは無理ですね。私は警邏隊なので」
「育ててやった恩を忘れたのか! お前──」
やりあっている声に気付かれ、教会にいた市民たちが何事かと寄ってきた。十人ほどが壇上の前に集まっている。
リニがちらりと後方へ目をやると、いつのまにか扉は閉まっていた。
「コーディ司祭、どうなさったんですか…」
心配そうに集まってきた市民たちに対して、コーディはリニを指差し、糾弾し始めた。
「皆さん、この女は獏です! 忌まわしい魔力喰い、呪われた魔力の人間! 私たちの神との交流を阻害しようとしている」
コーディは声を張り上げてリニを罵倒した。
早くから教会に集まる熱心な信者たちだ。コーディのことを信じ切っている。リニのスキルを嫌悪する類の人たちだった。
コーディの糾弾を聞いた市民たちも憤慨し始める。
「なんだって、出て行けよ! 邪魔するな!」
「忌み子が! 教会に来るんじゃない!」
市民たちの一部が壇上に上がり始め、リニに詰め寄り、肩をどつき、罵倒する。
リニは自分でも意外に冷静だった。彼らの目が狂信的だったからだ。清めの水のせいか、司祭に洗脳されているのか。
リニ一人でここにいるすべての市民を取り押さえるのは難しい。だが、このままではリニの方が暴力を受け、証拠を得て戻ることは出来ない。
リニはアンナを背に隠し、後ろに下がって距離を取った。右手を構える。
罵倒していた市民たちは一瞬怯んだ。
だが、リニの行動を見たコーディは嘲笑する。
「はは、リニ! 魔力喰いが、攻撃なんぞできないくせに! 情けないハッタリを」
コーディの言葉を聞いた市民たちも馬鹿にしたように渇いた笑いを漏らした。
リニのスキルの詳細をコーディは知っている。彼の言う通りだ。リニは相手が魔術を使ったときにだけ、その魔力を無効化できる。リニ一人では何も攻撃できない。
だが、本当にそうだろうかとリニはずっと思っていた。
魔力喰いの魔術は、自分以外の魔力とプラスとマイナスの関係。弱い引力で引き寄せられており、相手の魔術へリニの魔術を飛ばしてぶつけ、中和する。
しかし、こちらの引力を強めて、相手の魔力を引き寄せることが出来たら?
そうしたら、本当の意味での魔力喰いになれる。
構えた右手に集中し、本と紙の部屋でずっと検討していた術式を詠唱する。
長く、粗い術式。
心拍数と体温が上がる。
不完全だが、リニの魔術はゆっくり発動し始めた。
「は…?」
なんだかおかしいことに気付いた市民たちが自分の体を見下ろす。体の周りはもやがかかったようになって、そのもやは引っ張られるようにリニの方へと伸びている。
「な…、なんだこれ」
多少魔力を失ったところで死なないが、魔力は人の生命活動に必要なものだ。
魔力を吸われた人たちは恐怖の表情で立ち尽くす。それからゆっくりと体の力が抜け、一人、二人とその場に崩れ落ちた。
詰め寄ってきた人たちが膝をついたのを確認し、リニは右手を下ろした。
同時に、リニ自身もよろめく。初めての術式を使ったので疲れた。呼吸が乱れ、肩で息をする。
「…は…」
「リニ! この悪魔が!」
まだ動けていたコーディが懐から何かを取り出し、鬼の形相でリニに襲いかかった。
新しい術式に予想以上に体力を削られて力が入らない。
リニはアンナを背に、すんでのところでその光る何かをかわしたものの、右腕をかすめた。ナイフだった。
数滴の鮮血が散る。
「……っ!」
体勢を崩すと、振り返ったコーディがまた刃を向ける。
今度は避けることができず、強い衝撃がリニの腹部を襲った。
「っく…」
勢いよく突かれ、思わず息を吐き出す。
そのまま息を吸う方法を忘れ、リニの視界は暗転した。