7、作戦
リニは祭儀から三日ぶりにエヴァンに会った。一日後にはもう大丈夫だと言ったのに、念のため三日間、自宅待機を命じられたのだ。
魅了のスキルは強烈だった。
あの時、清めの水とそれにかけられた魔術で体の中が不均衡状態になっていたが、エヴァンに会ったらそんなことどうでもよくなった。
体がおかしくてリニの『魔力喰い』は働かなかったのだろう。魅了スキルが清めの水の効果を上回り、エヴァンのことが好きで好きで仕方なくなっていた。
胸が熱くなり、心臓が高鳴る。頭の一部が痺れて涙が出てきそうになり、エヴァンの胸元に顔を押し付けた。さらに一時も離れたくなく、彼の匂いを肺いっぱいに吸い込もうとした。
コーディに恋をしていたと思っていたリニだが、エヴァンへの気持ちと比べると、あんなものは恋や愛といったものではなかったと考えを改める。
隔離され、一日経った頃、急にあれ?と思った。その時、明確に自分が魅了スキルにかかっていたこと、その効果がいま切れたことをリニは理解したのだ。
というのも、体の中の清めの水の影響が消え、本来の魔力喰いの力が戻ってきたことで魅了を中和したようだった。
三日ぶりに出勤すると、いつもの席にエヴァンはいた。なにか書類に書き込んでいる。
あんな醜態を晒してしまい、ほんの少しだけ気まずい。リニは恐る恐る挨拶しながら隣の自席に着いた。
「おはようございます…」
「おう、おはよう」
エヴァンはいつもと変わりないように見える。声色もいつもと同じだ。
慣れているのだろうか。それとも、気を遣わせないように普段と変わらぬ態度でいてくれるのかもしれないと、リニは少しほっとした。
「体調はどうだ」
「おかげさまで、大丈夫です」
それからエヴァンは机から顔を上げて、リニをじっと見つめた。
確かめるような、探るような視線。
「な、なんですか?」
リニが体を固くした瞬間、一気に距離が縮まった。エヴァンの長い睫毛がリニの目の前を通り過ぎ、ちゅ、と音がして唇の端に温かいものが触れる。
驚愕したリニはエヴァンの肩をどん、と両手で跳ねのけ、思わず右手を振りかぶって思いきりエヴァンの左頬に落とした。
パアン、と破裂音のような音が高らかに響き渡り、エヴァンは左頬を押さえて蹲る。
「痛ってー…」
「…な…、なにするんですか!!」
エヴァンは手の跡で真っ赤になった左頬をさすった。
キスされた衝撃と動揺で、リニも自分がエヴァンと同じくらい赤面していることが分かる。
魅了の効果は切れたはず。それなのに、あの時と同じくらい心臓がバクバクと音を立てている。
「リニ、正気に戻っているか?」
「戻っていますよ!!」
それからエヴァンは左頬を押さえたまま、にやりと笑った。
「じゃあ作戦会議だ」
♢
二人の接触が一瞬だったのでなにがあったのか分からない警邏隊員たちだったが、顔を赤くして挙動不審のリニと頬を真っ赤に腫らしたエヴァンに、なにかあったのであろうことは見て取れた。
ロブも目を丸くして二人を交互に見る。
「おいおい、復帰したばかりで喧嘩はやめてくれよ」
「エヴァンさんのせいで、私のせいではありません」
「まあいいけど。さ、全員集まったか」
集まった警邏隊員を前に、ロブが紙を広げた。誰かに指示された、とおかしな供述をする最近の窃盗事件に関しての情報だ。
「窃盗犯を洗ってみた。年齢性別、職業はバラバラ。ただ、事件はほとんどが休日か、休日明けに起きている。それで休日前後での行動に共通点がないか調べた」
「…教会の祭儀ですね」
「そうだ」
窃盗犯たちは皆、休日の祭儀に参加していたという共通点があった。信仰心が深く、毎週欠かさず教会へ行っていた。
「それから先日のリニの件。休日に祭儀に行った時のことを話せ」
リニはロブに促されて、祭儀でのことを説明した。
始めはエヴァンが街で聞いた「神様が見える魔術」という噂のこと。実際に参加すると、清めの水を飲んだ後から様子がおかしくなったこと。
「清めの水には魔術がかけられていました。しかし、その水自体もなにかおかしかったように思います。薬物かも」
「どういった魔術だか分かるか?」
「そこまでは分かりませんでした。ただ、魔術も、おかしな水の方も、それ単独では非常に弱いものだと思います。清めの水の効果を魔術で強化や補完しているように感じました」
おそらく、あの清めの水にかけられた魔術単体なら、それほど苦しむことなくリニは体内で無効化できたのではないかと思うのだ。清めの水の方には、魔術ではないなにかがあったはずだ。
「祭儀後の窃盗犯。それから祭儀で出されるおかしな清めの水。これらに関係性がある可能性があると考えている。神様が見えると言って薬と魔術で幻覚を見せ、それに侵された人たちが犯罪を犯す。仮定だがな」
隊員たちはロブの言葉に頷いた。
街の事件と清めの水に関係があるかどうかはいまははっきりしないが、いずれにしても清めの水がおかしいものでないのかを確認する必要はある。
「その清めの水を入手して分析し、おかしなものであれば証拠になるな。あとはその魔術をかけた人間の証言があればいいんだが」
「祭儀中にずっと壇上の脇に控えていた人物がいました。子どもですが。その子じゃないかと思います」
「子どもかあ。保護して証言を取るのは難しいかもな」
教会で保護されている子どもを司祭の許可なく勝手に連れ出すことは出来ない。
しかしリニが見た限り、ずいぶんと痩せて具合も悪そうだったので保護したい。
「事件が続いているから、次の祭儀後にまた窃盗が起きる前には片を付けたい。できるか?」
教会にいる人々が清めの水を飲む前にそれを入手し、可能であれば子どもを保護する。
リニが教会にいた頃、祭儀の清めの水や冊子、教会内の設営を準備するのは教会で育つ子どもたちの仕事だった。
その間、司祭たち大人は祭儀の前の儀式があるので不在のはず。
水を配る前に魔術をかけているだろうから、あの子どもが術師であれば、水の分配も担当している可能性はあるとリニは思った。
「…教会へ入った時には清めの水はすでに準備されていました。なので早めに教会に行き、配られる前におかしな水を入手して、ただの水にすり替えられればいいのですが…」
「では優先順位を決めよう。一番は怪しい水を入手する。それは祭儀の始まる前にただの水とすり替えられればベストだな。難しそうであれば、祭儀の最中に水を入手しろ。リニ、出来るか?」
リニは頷いた。
「水をすり替えられなければまた事件が起きる可能性があるから、隊員は教会外と街で待機。二番目は子どもの保護。証言を取りたいが、司祭に見つかる可能性が高いから無理なら諦めよう。証拠が先だ」
「分かりました」
集まった警邏隊員たちは頷いて、当日の段取りを打ち合わせし始めた。
次の祭儀は三日後だ。
打ち合わせを終えて席へ戻ると、エヴァンが心配そうな顔でリニに声をかけた。
「おい、リニ。大丈夫なのか」
「なにがです?」
「教会のこと。もし本当に教会がおかしなことをしているのであればコーディ司祭は…」
エヴァンは眉を寄せて口ごもり、下を向く。リニは少し考えて、エヴァンが自分の恋心のことを気遣ってくれたのだということに気付いた。
「ああ、別に全然」
「でも…」
実際のところ、コーディに好意を抱いていたことをリニはすっかり忘れていた。
それはエヴァンの魅了にかけられていたことが理由ではない。エヴァンの言葉で価値観が崩されかけていたところに、先日の祭儀での出来事があったためだ。
いまはコーディだけでなく教会全体へ不信感を抱いている。今だって、保護している子どもをあんな痩せぎすになるような扱いをしているのだ。
「ま、教会に育ててもらった恩はありますけどね、いまは警邏隊員ですから」
「そうか」
それでもまだエヴァンは気まずそうにしている。
リニはあえて明るい声色でエヴァンに話しかけた。
「そんなことより、今日は夕飯どうします?」
「あ、いや、今日はやめとこう」
普段なら連れて行かれるくらいなのに、と疑問に思ったリニは、そういえばつい先ほどキスされたことを思い出した。
感触が蘇って、途端にどきどきしてくる。
ちょうどいい、少し頭を冷やさなければ。赤面した顔を背けたリニは、それ以上エヴァンに問うことはしなかった。
しかしそれからの三日間も、エヴァンは業務外でリニと関わろうとはしなかった。