6、教会
祭儀に行く休日、心配だったエヴァンは朝早くからリニの自宅を訪れていた。
以前、休みを潰して片付けた部屋はもう見る影もない。また、本と紙で埋もれており、その光景を見たエヴァンは「げっ」と呟いた。
「少しは綺麗さを保持できないのか」
「これが定常状態なんですよ」
本をどかして隙間を作り、エヴァンはその狭いスペースに三角座りした。リニは別室で着替えており、なぜかガタガタと物がぶつかる音がする。
「よし、出来ました」
別室から出てきたリニを見て、エヴァンは驚いた。
漆黒の髪ではなく、緩やかに巻いてある金髪。それに爽やかなグリーンのワンピースを着ている。
いつも黒髪をひっつめ、騎士服を凛々しく着こなすリニからは想像もできない姿だった。淑女に見える。
「…驚いた。そんな服持っていたのか」
「同僚から借りました」
「あ、だろうな。髪は?」
「カツラですよ。これならばれそうにないですよね?」
エヴァンは大きく頷いた。おそらくエヴァンも遠目では分からない。色の印象が違うだけで全く違うように見えるものだ。
「一人で大丈夫か、やっぱり俺も」
「大丈夫ですよ。終わったら報告しに行きますから」
元気に出かけていくリニを宿舎前で見送り、エヴァンは不安になりながらも家へ戻った。
♢
リニが教会へ足を踏み入れるのは、独り立ちして以来初めてだ。巡回では立ち寄るが、中には入らない。
エヴァンが言っていたように、休日の祭儀のため教会には多くの市民が集まってきている。全員入るのだろうかと心配になるくらいだ。
教会の前では司祭らが出迎えのため立っており、にこやかに市民と挨拶を交わす。コーディはいないようだが顔見知りの司祭はいるため、リニは出来るだけ不自然にならぬよう、俯き気味に進んだ。
中に入ると、席の目の前の簡易テーブルには冊子と杯が置いてある。杯の中にはすでに清めの水が入っていた。
教会は前方が舞台のようになっており、司祭は壇上で説教をする。舞台の裏は準備と控えの場になっているのだ。
リニが着席した頃には教会内は九割方埋まっていた。
それからすぐにギギギと音がして入口の扉が閉まり、聖歌隊の歌が始まった。記憶にある手順と同じだ。讃美歌の後、司祭の話が始まり、参加者も歌うはずだ。
周りを見ると、小さい子どもから老人まで、幅広い年齢層の市民が集まっていた。皆、私語もなく静かに前を向いている。
自分のときはどうだっただろうかとリニは思い出す。一連の儀式が好きではなかったことは確かだ。弱者を哀れむ詩を読み、悪魔を呪う歌を口ずさむと、まるで自分が責められているような気になった。
歌が終わり、コーディの説教が始まる。
すると、壇上のすぐ脇に小さな子どもが控えているのが見えた。一人だけだ。
聖歌隊と同じ、体の線が隠れる服を着ているが、遠目にもその体は痩せぎすであることが分かる。袖から覗く手が非常に細いのだ。
性別不明のその子どもは下を向いており、表情は読めない。この後、なにか出番があるのだろうかとリニは不思議に思った。
謎の子どもに気を取られて、コーディの話を全然聞いていなかったリニは、周りの人たちが冊子を手にするのに気付き、慌てて自分も同様にした。
歌が始まるが、リニは口パクだけで歌わない。大勢の人の歌声が教会の中に響いた。
それから司祭に促されて、目の前に置かれた杯に入った清めの水を飲む。
普段と同じ流れだ。周りの人たちと同様に、清めの水を飲み込んだ瞬間。
リニは違和感を覚えた。
記憶にある清めの水よりも、ほんの少し、甘い。
それよりも。
水の通った口の中、喉、胃が、猛烈に熱くなってきた。心拍数が上がる。体の中が異常を発する。
──なにか、おかしい。
「皆さん、こちらをご覧なさい。見えますか? 神があなたたちを祝福しています」
コーディの声で、周りの皆は壇上を見る。いよいよ目的の儀式のようだが、リニは動けない。
リニはその時になってようやく、清めの水に魔術が込められていたことに気付いた。ただし、本当にわずか、外からでは気付かないくらい、少しだけだ。
体内に入れて、初めて気付く。リニの中の魔力喰いの力が水にかけられた魔術を無効化しようとし、体が悲鳴を上げている。
しかし、魔術だけではないようにリニは感じた。かけられた魔術はわずかなのだ。
甘い水、あれ自体にもなにかある。
リニが暴れ出しそうな体を縮め、口を強く押さえたまま顔だけ上げると、周囲の人たちは前方を向いて感嘆の声を上げている。
それぞれ、感動したように胸を押さえ、中には涙を浮かべている人もいた。
リニも首を伸ばして壇上を見るが、壇上は光で照らされているだけで他になにも見えない。強いて言えば、先ほどの痩せぎすの子どもが青白い顔でまだ脇に控えているだけだ。
リニは隣に座って前方を拝む女性に恐る恐る話しかけた。
「あの、どんな風に見えていますか? 私にはよく見えないのですが」
「それはまだ気持ちが足りないのよ。強く信じれば見えるようになるの」
リニを一瞥もせずそう言った女性はわずかに微笑んでいた。
それからコーディに促されて祈り、祭儀は終了した。市民は順番に席を立ち、そのまま帰る人もいれば、司祭の元へ行き話をしたり、寄付をしたりしている。
リニはよろよろと立ち上がると、俯いたまま出口を目指した。
まだ体がおかしい。一刻も早く、ここから離れたい。
そして、エヴァンに知らせなければ。
♢
リニが心配だから着いて行こうかと思っていたエヴァンだが、よく考えたらリニは腕っぷしは強いし、魔術は効かないので、そんなに不安になる必要はないなと思い直していた。
彼女は血の気は多いが、判断力はあるし、警邏隊員になって長いから無理はしないだろう。
エヴァンは少し気楽になり、リニが帰ってきたときのために昼食を準備していた。
外からぱたぱたと足音がして、呼び鈴が鳴らされた。
リニだろう。聞いていた予定時刻よりも少し早い。急いで帰ってきたのだろうかと、エヴァンは扉を開いた。
「おう、お疲れさま。早かったな──」
扉の前に立つリニを見た瞬間、彼女の様子がおかしいことに気付いた。体が強張り、険しい顔で眉を寄せている。
そして目が合ったその直後、リニは赤褐色の瞳を大きく開き、エヴァンをじいっと見つめた。
濡れたような、熱い瞳。
エヴァンがこれまでたくさん向けられてきた視線。
はっとして、エヴァンは自分の失敗に気付いた。腕輪をしていない。家で一人だったし、会う予定がある相手はリニだけだった。
そして、目の前の相手の視線は、見慣れたそれだ。
「リニ! なぜ…!」
「…エヴァンさん、わたし…」
とろんとした瞳のリニは白い両手を伸ばしてエヴァンの白いシャツに縋り付いた。そのまま顔をエヴァンの胸元に埋める。
「リニ! 魅了にかかっている!」
「…かかっていません」
「かかっている! 一体なにがあった!?」
質問には答えず、リニは額をぐりぐりとエヴァンの胸元に擦り付けた。さらにすんすんと匂いをかいでいる。
縋りついてくる体が思っていたよりも柔らかく、エヴァンの心拍数が上がる。
「…くそっ!」
エヴァンは縋りつくリニを強引に引きはがすと、玄関に置いていた腕輪を付け、ずるずると引きずって詰所を目指した。ラフな部屋着姿の男が小綺麗な女性を抱えて進む様子に、道行く人は何事かとぎょっとして振り返る。
しかし、エヴァンにそれを気にしている余裕はない。リニは以前、よほどのことがなければ魔術は効かないと言っていた。すなわち、よほどのなにかがあったということだ。
なんとか詰所に辿り着き、リニを剥がして取調室に放り込んで外から鍵をかける。中からはリニの悲壮な声が聞こえた。
休日だが、出勤している警邏隊員はいる。ただ、普段よりも人は少ないようだった。
隊長のロブも出勤していて、おかしな様子の二人を見て目を丸くする。
「どうした、エヴァン。喧嘩か」
「違います、非常事態です。ちょっとご相談が」
「なんだなんだ、今日は一体」
ふうと大きく息を吐いて、ロブは椅子にもたれかかった。
「なにかあったんですか?」
「また窃盗。皆、それで出払っている。ま、とりあえずお前らの話を聞こう」
♢
それから三日間、エヴァンはリニに会わなかった。魅了のスキルの効果が切れるまでだ。ロブによると一日後にはもう正気に戻ったようだが、念のため時間を置いた。
落ち着いた後にエヴァンを襲ったのは、ほの暗い悲しさと切なさだった。
リニは、絶対に魅了にはかからないと思っていた。油断していた。こんな結果になってしまったことを非常に残念に感じた。
リニにはスキルの影響なしで自分を見ていて欲しかったことに、エヴァンは気付いた。何のフィルターもなく見てくれる唯一の人だったのだ。
そして、自分に好意を持ってもらうのであれば、魅了は関係なく、エヴァンのそのままの状態で好きになって欲しかったと思った。
エヴァンは、自分がリニに惹かれていることに初めて気付いた。
「ああ…、なんてこった」
一度、魅了スキルの影響を受けてしまうと、その効果が切れたとしても、好意を持っていたという記憶は残ってしまう。そうなるとエヴァンはもう相手を信じられない。
リニからはもう、まっさらな気持ちで接してもらうことは不可能になってしまったのだ。
そのことはエヴァンを大きく落ち込ませた。