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冬の向日葵

作者: たまゆら


白と青のマンションに越して来て、早一年が過ぎた。


ベランダから下を見ると田んぼがある。6階なのでなかなか見晴らしは良い。

その田んぼの隣に家庭菜園がある。三人の初老の男が毎日まめに世話をしている。

土をいじっているせいかとても元気だ。


その様子を見るのがとても好きだ。人の働く姿はとても美しい。

菜園の一角にとても不思議なものがある。夏に咲く向日葵だ。色々調べたけれど真冬に咲く向日葵はないようだ。花屋にある小さな品種のものは別として、畑に勢い良く、しかも丈が2メートルは超えている向日葵などない。生まれて初めて見る。花は丈の割に大きくはないが、この季節にしては幼児の帽子位はあるのだから大したものである。

この向日葵を密かに「奇跡」と呼んでいる。


この花を見る事が出来ると言う事、今の自分にとってとても深い意味がある。

自分は希少がんの一つ、後腹膜腫瘍を患っている。まる八年の付き合いだ。

手術は2回した。抗がん剤もした。しかし再発した。今は何も治療はしていない。

耐えられない腹痛で今年は2回緊急入院をした。もういよいよお迎えかと思った。

しかし何の計らいか、有り難いことに家に帰って来れた。体重はわずかの間に6キロ減った。鏡をみるのが辛い。げっそりとやつれた顔がある。左目は窪んでいる。


だんだんと食事の量が減って来たので、なるべく栄養価の高い消化の良いものを摂るようにしている。食べる事は生きるチカラとなり喜びである。しかしそれが辛い時が増えている。食べる事で今唯一の楽しみは主人が買って来てくれる焼き芋だ。細長い種類でオレンジぽい色をしている。柔らかくしっとりとした食感で優しい甘みがある。とても美味しいこの焼き芋を半分こして三時のおやつとして食べる。至福の時間である。


私の病気が末期に近づくにつれ、主人はとても優しくなった。もともと優しい人ではあるが肝心な本当は聞いて欲しい事がはきはき言えなかった自分の性格が災いして、自分ひとりうちに籠もっていたので主人を鈍感な人にしていたように思う。

白と青のマンションに越してから夫婦の距離が狭まったと思う。自分の心の奥底を全てではないが出せるようになった。楽である。


生まれも育った環境も違う、よって物事の捉え方、同じものを見ても感じ方も違う。

そんな二人が強い力によって引き合い、結婚をする。ここからが泣き笑い劇場である。

お互い片目を閉じて相手の理解出来ないところはあっさりと割り切って行く。これはなかなか難しい。しかしこれが無理となれば別々の道を行くしかない。

我が夫婦は25年間危うい時は何度もあった。綱渡りのような時もあった。だがその反面夫婦でしみじみと手を取り合い、ありがとうと心から言える時も沢山あったのだ。

今もその気持が溢れている。多少の小競り合いはあるが概ね穏やかな状態が続いている。

夫婦の相手を容認する度量が、家の明るさ、絆の深さを決めていくと思う。


私は希少がんになり、治療も虚しく今まさしく崖っぷちに立っている。強い風が吹けば谷底に落ちていくだろう。しかしなんの力か愛か、私の体には命綱が巻かれている。谷底に落ちても底には行かない。綱を掴んで又崖に登り足を踏ん張り立つのだ。

この文章を打ちながら笑って泣いている。


私が全ての治療を止めて一年半が過ぎる。抗がん剤を続けてがんの進行を遅らせるという道もあったろうが、そうすると、副作用の一つである味覚障害が酷くなってしまう。これは堪える。ほぼ食べられなくなる。家族の食事は勘で味付けしていた。それでもこの辛さを超えれば完治の可能性があるなら抗がん剤を続けただろう。それはない。進行を遅らせることは出来ても完治はない。さらに味覚障害によって、おいしく食べられる幸せが失われてしまう。

これは堪える。しかもかなりの医療費もかかる。限度額の申請はしているが気軽な金額ではない。完治の見込みもないのに大切なお金を使わせるのは忍びない。


某病院の女医さんに、再発したので抗がん剤を勧められているがどう思うかと訪ねた。その先生は実に明快に、「100%効くのならしますが、そうでないならしません」と答えた。

気持ちの良い声だった。このこともあり治療は止めた。この選択で後悔はしていない。


ある先生が温泉を勧めてくれた。秋田県の「玉川温泉」が良いらしく、患者さんの一人がそこへ通い腫瘍がなくなったそうだ。秋田はあまりにも遠いのでまだ行っていないが、いつか行こうと思う。今はコロナでどこにも行けないが、終息したら近場の温泉に通おうと思う。

気分も変わるだろう。お湯の流れる音、山の景色、鳥のさえずり、爽やかな空気。ひとときでも病気を忘れる事が出来たら有り難いのだ。


私は不幸ではない。悲しくはない。切ない時はある。寂しい時もある。しかし可愛そうではない。優しい夫がいて可愛い娘がいて頼りになる息子がいる。家族に守られている。

病院にも掛かれている。すばらしい先生達にも巡り会えている。この病気を通じて何人かの友も出来た。そして何より、「生きている事はなんと有り難い事か」と思える自分に出会えた。


どんなに苦しくても、先は見えなくても、生きている今、命が続いている事実、これは最高の喜びだ。この先とんでもない苦しみがあるかもしれないが、どんな姿になろうと生きていたい。空を仰ぎたいし、土を踏みしめたいし、風を感じたい。世の中がどう変化して行くのか見たいと思う。この世に未練は大いにあるのだ。


この私の呟き、あるいは心の叫びを打ち始めたきっかけは、あの季節外れすぎる向日葵である。

毎日見ている。もう師走だというのに弱る風ではない。力強く太陽に向かって咲いている。

その隣にもう一本、花は咲いていないがこれも2メートルはあろうと思われる向日葵がある。


その向日葵を見て、「私に奇跡はあるのだよ。信じるのだ。崖っぷちから這いずり、平地に来ることは出来るのだよ。その奇跡を起こすのは自分だけど、毎日手入れをしてくれる人は必要。余分な草を取り、肥料を適度に与え、水を注ぎ、害虫を調べ、そして何より愛してくれている事だ。このような条件が揃い、その事に感謝し、なおかつ自分の強い意志が必要なのだよ」と、自分にあてはめる。


足らないものがあった。感謝である。この向日葵と同じ条件が揃っているのに、自分は時々感謝を忘れている。生きたいという執着心が勝ってはいけない。生かせてもらっている事への感謝、喜び、この心を育て、いっぱいにして行こう。


家庭菜園に生き生きと咲く向日葵に、私は救われている。

この白と青のマンションは幸福の建物かもしれない。

私は明日も向日葵を見るだろう。


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