プロローグ
なんでこんな目に合わないといけないんだろう。
私はこんな新しい環境に馴染めるわけがなく、布団の中にくるまりながら枕を涙で濡らしていた。
実家から離れたこともない箱入り娘だった私が、不可抗力により新しい環境で家族と離れ、ひとり暮らしをする羽目になってしまった。死んでしまいたいほどの心細さでこの新生活を楽しもうとは微塵も思えないのだ。
両親と兄がいる実家へ帰りたい。
切にそう願うのだけど、実家へ帰るのにはここはいかんせん遠すぎて不可能だ。
掛け布団と敷布団の間で体を丸めながら涙で覆われた眼でこの部屋の一角、壁と畳を見つめて一体何時間経っただろうか。気持ちの整理はいまだにつかず、時間感覚はすっかり麻痺していた。
私が今いる部屋の造りは熱海の旅館でありそうな和室だ。しかし、それは造りだけの話で漆喰の壁は紫、柱は墨のような黒、畳は赤紫、といった尋常ではない配色をしている。そんな異様な和室をずっと見ていると私の居場所が180°変わってしまったことが嫌でも身に染みてしまう。酷いホームシックになった日本人の私を気にかけてくれたここの住民の方達が用意してくれた部屋なのだけど、申し訳ないことに感謝の気持ちなど湧いてこなかった。
トン!
その時、ふすまを軽く叩く音がした。鈍い音だったが静寂に包まれたこの空間では十分響く。
「入るよ」
この声は!突然聞こえたその声に私はびくっと過剰反応してしまった。そう、この声の主こそが私が今置かれてる状況をつくった元凶なのである。
ガラッ。引き戸が勢いよく開き、心臓がドクンと大きく跳ね上がるのが自分でもわかった。今まで全く身体を動かす気になれなかったというのにその忌々しい存在に再会したことで反射的に上半身が起きあがった。
私の視界にその元凶が映る。そして、あの夜のことを瞬時に思い出し無意識に眉間にシワが寄った。
それはまるで朝ドラ俳優のような綺麗な顔立ちをした男性だ。髪型はお坊ちゃん風で眉毛のあたりで前髪が揃えられていて、その柔らかく細い直毛は少し動くだけでさらりと絹の布の様に揺れる。この旅館のような和室に合わせているのか彼は墨のような色の温泉浴衣を着ていた。きっと世の女性の8割方は彼を見て一目惚れするだろうと思わされる風貌だ。そんな男性が温泉浴衣なんて着ていたらやはり世の女性達は悩殺されてしまうことだろう。
が、その頭髪と目の虹彩は血のような赤だ。それは私にとって非常に忌々しい存在である証だ。彼は人間のように見えて人間ではないのでる。…今では私も人のことをいえないのだけど。
「やあ、元気かい」
彼は甘い声で私に声をかける。この声を聴くとかの丑三つ時の出来事がフラッシュバックしてしまいそうになるので耳を塞ぎたくなる衝動にかられてしまう。
「…」
元凶に再会したからには文句の一つでも言ってやればいいのに、言葉が咄嗟に出ずに噤んでしまう。
私が無言を貫く中、彼は話を続ける。
「申し訳ない。まさかこんなことになるとは思わなかったんだ。これは人生初のトラブルだったんだよ」
忌々しいはずの彼にそんな申し訳なさそうにされると私も罪悪感が生まれてしまう。でも、だからと言って許せるほど私は単純な女でもない。
「まさか、まさか君が…」
不穏な空気を感じとり、ハッとなる。このままだと、ずっと目を背けていた事実を言葉にされて突きつけられてしまいそうだ。
待って、その先は聞きたくない、聞きたくなくない!
「サキュバスになってしまうなんてね」
…この死んでも聞きたくなかった言葉を私の耳はしっかりと捕らえた。目を背けてきた現実を突きつけられ私の目の前はまた真っ白になる。