前世の記憶
ふと、時計を見る。もうこんな時間だ、流石に家に帰らないとまずいよなぁ。都内のオフィス街の一角にそびえ立つこの国で最大手の企業丸八商事の建物内。時刻は0時を少し過ぎたところ。入社4年目の倉敷由紀恵はいつもと同じように、深夜まで残業していた。同僚はおろか上司ですらとっくの昔に帰ってしまっている。なんなら最近は最後までオフィスにいるという理由で戸締まり用の鍵を手渡されてる始末である。ふ〜っと由紀恵は溜息をついた。
よくよく考えてみればこんなことをするために学生時代勉強したのかなぁ。
他人から見てみれば、由紀恵は人生に於いてはどう考えても勝ち組だ。上流の家庭に産まれ、幼い頃から所謂英才教育なるものを親から施されてきた。小学校の頃には、神童と噂され中学、高校、大学と一度も挫折らしい挫折を味わったことがなかった。由紀恵にとって人生設計ほど簡単なものはなく、他の同級生達が必死になって進路を探しているのが理解できなかった。しかし、そんな由紀恵にも社会の壁が現れたのである。最初に訪れたのは、上司からの度重なるセクハラパワハラ紛いの行為だ。そこそこ顔が整ってはいるものの、恋愛経験が全くなかった彼女は格好の的になった。やたらと空いている日にちを確認したがる係長に、営業先で失敗して帰ってきたときには、人前を憚らず暴言を浴びせてくる部長。由紀恵の悩みは尽きない。次に訪れたのは、同僚のやっかみだ。この国で一番優秀な大学出身、しかも顔も悪くない。何なら仕事も新人にしてはかなりできる。そのような人間はやはり妬み嫉みの対象になってしまうようで、上司と少し親しげにしていればやれ恋人関係だ、玉の輿を狙ってるだなんて悪口を堂々と聞かされるのである。最後に立ちはだかったのが自身の親であった。一人っ子の由紀恵に注がれた愛情はもはや狂気とよんでも問題はないだろう。だからこそ由紀恵は外から見れば、品行方正、成績優秀な立派な人間に見えている。由紀恵がひとたび、仕事を変えようと思っているなどと言おうものなら、ここまで育てたのは誰のおかげだ、お前が丸八商事に努めていることは我が家の誇りなんだなどとまくし立て由紀恵の逃げ道を塞いでしまっている。そんなことを考えている暇はない。まずは帰ろう。そう独り言を呟いて由紀恵はオフィスを後にした。
帰り道、ふといつもと違う場所から帰りたいと思った。普段は通ることのない陸橋の欄干に頬肘を付き由紀恵はまた溜息をついた。なんだか人生楽しくないなぁ、今度辞表でも出そうかな。ぼんやりと物思いに耽っていた由紀恵が後ろから近づいてくる怪しい影に気がつくことはなかった。急に息苦しさを感じ、我に帰った。口を抑えられているため、思うように声が出ず悲鳴を出そうにも悲鳴にならない。このままだと殺される。本能的にそう思った由紀恵は、男の鳩尾を肘でついた。男が鈍い声を上げ、手が口から離れた瞬間に由紀恵は大慌てで駆け出した。こんな目に会うなら最初から高いヒール履かなきゃ良かった。普段の自分にイライラした。案の定、ヒールを踏み外し由紀恵は転んでしまう。追いついてきた男の顔は酷く赤くなっており、相当に苛立っているのが分かる。男は由紀恵の顔を何発も殴り、何度も由紀恵の体を踏みつけた。
数十分が経ち、殆どグロッキー状態になった由紀恵を見てもまだ男の怒りは収まらなかった。この陸橋の下は高速道路である。
「助けて。なんにもしないから……」
そんな由紀恵を尻目に男は何か邪悪な考えが脳裏をよぎったのかあろうことか痛みで動けない由紀恵を担ぎ上げ陸橋から落とそうとした。由紀恵はこの瞬間に何故か死んでもいいのではないかと思ってしまった。それほどまでに彼女の精神は摩耗してしまっていたのである。
………最後に由紀恵が覚えていた風景は、満面の笑みを浮かべた下衆い男の憎たらしい顔であった。