第二章 二幕 『出会い』
「な、…なんだってッ?」
爽やかな朝焼けの映える港町に、素っ頓狂な声が響き渡った。声の主はジョージ、そしてその眼前に位置するのは宿屋のオヤジこと、ゴードン・アレクセイその人である。
朝食であろう目玉焼きとトーストを目の前にしながら、ジョージはそれに全く手をつけずゴードンの顔を覗き込む。不機嫌そうな表情を見せると、ゴードンはもう一度繰り返した。
「聞こえなかったか? 簡単な依頼だろう? 今日の昼頃、アーコンとの合同漁の為に来航するタマリスク号に、イリューンという男が乗っている筈なんだ。その男に、漁が終わったら帰り際、この宿に寄るように言って欲しいんだよ。」
「だからって、何で俺がそんな雑用を…ッ!」
「…予定でもあるのか? それならば仕方がないが…」
昨夜と同じ、刺すような視線が再びジョージを射抜いた。
気に食わない依頼だったことは否めない。元貴族の自分に、人を呼んでくるような雑用を依頼するとは何事か、と憤りもした。…しかし、よくよく考えてみれば、貴族のジョージはもう存在しない筈なのである。それどころか、事実がばれでもしたらどうなることか。下手な説明をし、ボロが出るような結果だけは避けねばならなかった。
だが、やはり最大の理由は…殺気だった。その視線の裏に隠された恐るべき気配に、抗える要素を到底彼は持ち得なかった。
「いや、その…まぁ、昨日は助けられている事もあるし…そのぐらいは…」
仕方なし、といった風に怖ず怖ずと口を開くジョージに対し、ゴードンは待ってましたとばかりにポン、と手を叩くと、物凄い早口で次から次へと捲し立てる。
「いや、助かった! 何しろ宿の切り盛りもあってな。なかなか席を外すのもままならんのでな。…そうか、引き受けてくれるか! まぁ、船の着く時間まではまだ一刻程ある筈だが、念の為、早めに向かっておいてくれ。ワシは昼の仕込みに掛かるからな。頼んだぞ!」
「は、はぁ…」
何がなんだか解らぬ間に商談は成立。そうこうしている間にゴードンは先程とはうって変わって上機嫌になると、さっさと部屋を出ていってしまった。後には、食欲を誘う香ばしい匂いだけが残された。
兎にも角にも食事を終え、ジョージは重い足取りで宿を出発した。依頼を断りきれなかった以上、今後の予定は決まったようなものだった。
(行くしか…ないよなぁ。くそッ…なんで俺がこんな…)
そう思いつつも、どうせ行き先はないのだから、かえって良かったのかもしれないと自分自身を慰め、ジョージは言われた通り港へと足を向けた。
歩きながら、辺りの様子に目を這わす。
昨日はよく解らなかったが、このガルガライズという港町は相当に栄えた場所らしい。停泊している船は殆どが立派な帆船ばかりだし、町並みも普通の港町などとは比べ物にならぬほど立派で、補正された石畳の道は首都コーラスに並ぶのではないかとさえ感じられる。
活気も溢れている。投網や銛の手入れをしている漁師達や、船の整備に掛かる船員の姿。市に出る女達の笑い声。早朝にも関わらず人波が溢れているのは、恐らくこれから行われるというアーコン島との合同漁の為に違いないだろう。
ゴードンの話では、ガルガライズでは一年に一度、沖に数キロほどの場所にあるアーコン島と共に合同漁を行う習わしがあるのだという。それは、海に感謝を示し、その年の大漁を祈願する祭りとして行われたのが最初らしい。
町の起源との関係もあるらしいが、残念ながらジョージにはそこまで言及する程の興味は湧かなかった。
港に辿り着いた頃には、もう数隻の船がガルガライズ港に到着している所だった。土手っ腹に、大きくシンボルマークが描かれている船舶の数々。その中の一つに、ジョージは目指す『タマリスク号』を発見した。砂漠に生えるオアシスの緑。その木をシンボルにしたマークが赤いペンキで大きく描かれている。
(…あれか。…さて、イリューンとやらは…)
ゴードンから聞くにはその男、豪快にして粗暴、粗野にして無双との事。余程の豪傑、破天荒な人物に違いあるまい、とジョージは思わず身震いをした。
港と船とを繋ぐブリッジに足をかけ、船の甲板へと上がると辺りを見回してみる。ちょうどそこに、掃除をしている船員が目に付き、ジョージは背中から声を掛けた。
「ああ、そこの…すまないが…この船にイリューンとかいう男は乗っているのか?」
不躾に話しかけられ、船員は不快そうな顔で振り返った。しかし、ジョージの身につけている鎧と胸の紋章に目を留めるや否や、
「…は! ははーッ! き、騎士様が何のようでッ!?」
まるで自分が罪人であるが如く、ジョージに恐れと敬いの目線を向けてくる。心のどこかで、そんな反応に空しさを感じながらも、ジョージは言葉を続けた。
「いや、その…この船にイリューンという男が乗っていると聞いているんだが…」
「…い、イリューン? あいつ…遂に何か、とんでもねぇ事でもやらかしたんですかい?」
「…そ、そういう訳じゃないんだが…少しばかり野暮用があってな…」
「イリューンだったら、船底にある二つめの船室にいる筈だよ。ただ…今は…」
「そうか、ありがとう。…助かった。」
「…あ! き、騎士様!? い、今は行かない方が…ッ!」
未だ後ろで船員の声がしていたが、残念ながらそれはジョージの耳には届かなかった。既に頭の中は、このどうでもいい用事を早めに終わらせ、宿に戻って次の目的を考える事でいっぱいだったのである。
船底に向かうほぼ直角の階段を下りると、そこには確かに六つほど小さな船室のドアが左右に並んでいる。どれも、木で作られた質素な扉ではあったが、見るからに頑丈そうな作りであり、海に生きる者達の生活を垣間見れる。
一つめ、…そして二つめ。部屋の中から話し声が聞こえてくる。扉に近づき、ジョージはそれに耳を澄ませた。
「う、うわぁッ! お、落ち着けッ! …や、やめろぉぉッ!」
「…あんたが女遊びをやめるって、そう約束するんだったらやめてあげるよッ! なんだい…いっつもいつもあたし以外の女ばかり…! あたしは何だって言うのさぁ…ッ!」
野太く、野性的な男の声と、ヒステリックな甲高い女の声。外から様子を窺う限りでは、痴話喧嘩のようである。
そっとドアノブに手を掛け、ジョージはゆっくりと扉を開けてみた。隙間からそっと顔を覗かせる。そこには、聞いていた通りの逆立った銀髪に銀色の眼。筋骨隆々な上半身に特徴的な黒い鎧を付けた、野性味溢れる雰囲気を持った男がいた。すぐ目の前には、もう一つの声の主であろう、夜叉の如き顔をした女も立っている。
状況から察するに、どうやら二人の喧嘩の真っ最中に踏み込んでしまったようだ。
どうしたものか、とジョージが考える間もなく、ふと、うまい具合に中の男と目が合ってしまった。次の瞬間、男は予想だにしない行動に出た。
「お、おいッ! あんた! た、助けてくれぇッ! あ、あの女は魔女だッッ!」
「え、え、ええぇッ???」
男はそう言うや否や、いきなりジョージに向かって走り出し、素早く背中へと回り込む。どさくさに紛れて扉は完全に開かれ、男の盾代わりにジョージは女の前へと突き出された。
と、そこに! 真っ黒い物体が凄まじいスピードで飛んでくる。辛うじてそれをかわすと、
スッカ―――――ンッッッ!
フライパンが見事に男の顔面に大命中。しかし男はまるで事も無げに、
「い、いってぇぇぇ…ッ! くそッ、なんてことしやがる…ッ!」
そう言って顔をさすった。呆然と事の成り行きを見守るジョージに向かって、女はヒステリックに叫んだ。
「ちょっとッ! あんた、何なんだいッ!? 邪魔するんなら容赦しないよッ!」
「いや、お、お、オレは、そのっ! そういうワケじゃぁ…っ!? ……ッ!」
あらためて見れば、美しい女だった。抜群に磨き抜かれたスタイルは見事な脚線美を描き出しており、その流れるような黒髪は、思わずみとれてしまう程の魅力を孕んでいる。平時ならば、誰もが目を奪われずにはいられないだろう。
だが、現在は逆上していて手が付けられそうにない。額に浮かぶ青筋と、痙攣する目尻からは、対峙する者を凍り付かせてしまうような波動さえ感じられる。
「…お、おいッ! あ、あんたの関係者なんだろう? 自分で何とかしろよッ!」
すぐ後ろに隠れてビクビク震える男に向かって、ジョージは怒鳴った。しかし、男は首を何度も左右に振るばかりである。
「…さっさとそこをお退きッッッ!」
長々とした遣り取りに、ついに女が痺れを切らした。床板を踏みならし、身から滾る殺意も猛々しく、女はジョージに向かって駆け出した。そのあまりの恐ろしさに、二人は思わず後退りをすると、同時に情けない声を上げた。
『……ひ、ひぃぃぃぃぃぃッッ!』
背を向け、後ろから追いかけてくる恐怖を断ち切るかのように、思い切り強く扉を閉めて逃げ出そうとしたその刹那!
…ッバ―――――ンッ! …ズルズルズル…ドサッ…
物凄い激突音と共に、扉が…いや、船全体が震えた。
途端に、辺りは静けさに包まれた。何が起きたのかと、二人はゆっくりと顔を見合わす。
ソロソロと部屋の前まで戻ると、ジョージは再び中の様子に耳を澄ませてみた。しかし、もはや人の気配すらしていない。意を決し、ゆっくりとドアノブを捻ってみる。
…そこにジョージは見た。…大きなたんこぶを作った、夜叉の姿を。
どうやら、駆け出した瞬間に思い切り強く扉を閉めたものだから、ブレーキを掛ける間もなくそのまま扉に激突したらしい。なんにせよ、助かったという事か。
今の今までジョージの後ろで様子を窺っていた男が、二の腕で額の冷や汗を拭うと、ようやく安心したのか、満面の笑みを浮かべつつ話を切り出してきた。
「……ふー……いやー、助かった! ありがたい。…実はこいつは魔女でな、オレを誑かそうとしていたんだ。…まったく危ない所だった。礼を言うぜ。」
「…あ、あんたが、…イリューンなのか?」
「…あ? ああ、そうだが。…何故、あんたがオレの名を?」
「いや、ゴードンのオヤジに言われてなぁ…」
今までに起きた出来事を(もちろん逃亡兵である事には一切触れなかったが)、ジョージは掻い摘んで話した。すると、イリューンは納得したように大きく頷き、
「おお、なぁる程な。ゴードンのオヤジの知り合いってワケか。」
「…知り合いって程のモンじゃないんだけどな…」
脳裏に、朝方の一方的なやり取りが思い浮かぶ。苦笑しながら、ジョージは話を続けた。
「ま、そういうワケだから、帰り際にでも宿に寄ってやってくれないか?」
「ああ、解った。しっかし懐かしいぜ、久しぶりだからな。今日は……あぁッ!」
突然、イリューンは「やべぇ」と言わんばかりの顔で素っ頓狂な声を上げた。驚きに目を見開くジョージに対し、言い難そうに口をモゴモゴとさせながら、まるで同意を求めるかのようにイリューンは真剣な面持ちで訊いた。
「…ちと…少しばかり聞きたいことが…あるんだけどよ。…あんた、これからどうするつもりなんだ?」
今更言うまでもなく、それはジョージにとって答えがたい質問である。「何故そんな事を訊くのか」と思いつつも、黙り込むのはあまりにも不自然だった。苦々しい顔を見せ、一瞬考えた素振りを見せた後、ジョージは言葉を選びつつ、途切れ途切れに口を開いた。
「…いや、まぁ…これで俺の用件は終わりだから…、そろそろ宿に戻るつもりだよ。…でも、ま、しばらくはこの町に留まるつもりだから、また何処かで会えるかも、な。」
「…そうか! なら、今のところ用事は無いっつーことだよな。」
「?」
何故か、ホッとした顔を見せるイリューン。訳も分からず首を傾げるジョージ。
「いや、それがな…そろそろ…」
その瞬間、ガタン、と床板が揺れたような気がした。
いや、気のせいではない。確かに揺れている。波の音がどんどん大きくなっていく。縦揺れに波打ち際のような横揺れが加わった、船特有の振動が強まっていく。
ガンガンガン、と何処か遠くから、鐘を鳴らす音が聞こえてきた。それに相俟って、歓声と勇ましい掛け声も轟いている。イヤな予感がジョージの身体中を駆け巡った。
「ま、まさか…ッ!?」
居ても立ってもいられず、ジョージは駆け出した。甲板へ向かう階段を駆け上り、青空の下へとその身を晒した瞬間、絶望感がその身を激しく包み込んだ。
予想に違わず、見事なぐらいに、船は港を離れていた。