第一章 一幕 『臆病騎士団長』ジョージ・フラット
多くの兵士達が荒野に倒れていた。
ある者は背中に矢を突き立て、ある者は体を切り裂かれ、所々で血溜まりにその身を沈めている。風に埃が舞う。流れ出す血はすぐさま砂に混じり、荒涼とした大地をまさしく真っ赤に染めていく。
そんな中を、一人の男が駆け抜ける。何度も後ろを振り返る。追っ手が来ることを警戒しているのか、その額には脂汗が浮いていた。
ようやく駐屯地まで辿り着くと、男はその中央に位置するテント内に駆け込んだ。
「伝令ーッ! た、隊長ッ! 前線突破されました! ここももう長くはありません!」
その言葉を聞き、颯爽とマントを翻しながら、隊長と思わしきテント内の男は振り返る。
軽装の鎧に身を包み、胸元には百人長の証である剣と獅子の紋章。年の頃は十代後半といった所か。戦場であるが故か、散切り頭のその髪は泥にまみれ、今しがたまで彼もまた戦場に出ていたのであろうと容易に想像できた。
「な、何だって…? そ、それじゃぁもうすぐここは…っ!」
しどろもどろになりながら、隊長らしき男はそう言った。今にも泣き出しそうな顔をしていた。間近に危険が迫っている事を知ったからであろうか、怯えた瞳で辺りをキョロキョロと見回すその様は、まるでこれから叱られることを知った子供のようだった。
側に立つ、部下の一人が、そっと近寄り耳打ちをする。
「た、隊長…どうします? 早く逃げないと…!」
「ば…馬鹿ッ! ここで逃げたら俺が責任を…っじゃなくて、ど、どうやって逃げようっていうんだ? 辺りは完全に囲まれているんだぞ!? …ああ…くっそぉ…」
男の本音は唯一つ。ここで逃げたら敵前逃亡で、処罰は確実だという事だった。
どうやら男は、我が身が一番大事なようだった。
遙かなるラキシア大陸。世界に五つある巨大な大陸のうち、もっとも広大な面積を誇るこの地において、今まさに風前の灯火となろうとする一団があった。
港町で栄えたヴェルダインから北に二十キロ。その山肌に、かねてより町を襲ってくる盗賊団のアジトがある。
そんな情報を受けたラキシア大陸一の王国、コーラスの正騎士団は討伐隊を結成。晴れて正規兵となった数百名を送り込んだのだが、問題はその構成だった。
何しろ、親の七光りで騎士になったような者達ばかりだったのである。
国境間際にて不穏な動きを見せる隣国クラメシアへの対抗に兵を取られ、盗賊団程度の討伐に正騎士団を派遣する余裕もなく、よって初陣をこの地で迎えようとするヒヨッコ達が、揃いも揃って二の足を踏んだのは至極当然の出来事だった。
そしてその中に、同じく何の苦労もなく百人長となったこの男もいた。
男の名は、ジョージ。国では正騎士万人長であるアレス・フラットの実子であり、苦労知らずの放蕩貴族である。
隊長の不安が周りの兵士に伝播するのに、然したる時間はかからなかった。兵士達は口々に不満を漏らすと、ジョージに食ってかかるかのごとく、強い口調で切り出した。
「じ、じゃあどうするんです!? このままでは奴ら、すぐに乗り込んできますよ!」
「…だから言ったんだ、俺はこんな部隊じゃ死ににいくようなもんだって!」
「隊長っ、あんた隊長なんだろう? こういう時こそどうにかしろよ!」
「お、おおおお、落ち着け、落ち着くんだっ! とにかく落ち着け…そ、それでだな、個人的には撤退は悪だと思う訳だが、こういう状況ではそうも言ってられる訳でもなく、つまり状況によって悪と正義とは入れ替わってだな…」
全く訳が分からない。恐らく何を言っているのか、自分でもよく分かっていないのだろう。
こんな状況に送り込まれたこの男も不運だが、こんな男を隊長に持ってしまった隊は、より不運だったに違いない。
あまりのふがいのなさに痺れを切らしたのか、一人の兵士がすっくと立ち上がると、
「隊長! 勝手ながら、自分はこれにて隊から離脱させていただきます!」
そう高らかに宣言し、テントから外へ出ようとした。
が、否や。
――突如として、兵士は仰向けに倒れ込んだ。
音もなく、まるで枯れ木が崩れ落ちるかの如く、それは人の倒れ方ではなかった。
「…お、おいっ!?」
兵士は白目を剥いていた。そして、そのまま二度と立ち上がることはなかった。
喉元には深く矢が突き刺さり、完全に息絶えていた。
「ひ、ひぃぃぃ……っ!」
恐怖に腰を抜かすジョージ。その足下に、同じようにへたり込んだ他の兵士達がしがみついた。遠くからは盗賊団の襲いかかる雄叫びが、まるで怒濤のように押し寄せてきた。
「た、隊長…助けて、助けてください! し、死にたくない、死にたくないですよぉっ!」
「馬鹿ッ! 放せ、放せよっ! こ、このままじゃ俺がッ! …じゃなくてお前達も狙い撃ちにされちまうぞッ!」
足にしがみつく兵士達を振り解きながら、ジョージは必死に立ち上がるとテント奥に向かって走り、真っ先に荷物の整理をし始めた。そして、
「こ、これより我が討伐部隊は戦線を離脱する! すぐに総員、荷物をまとめて退避っ!」
「そ、そんな隊長! 自分だけッ!?」
「…お、俺も、俺も逃げるぞッ!」
「てめぇ、勝手に人の食料を盗むんじゃねぇよッ!」
「うるせぇ、てめぇこそ、水は俺ンだろうがッ!」
恐怖に飲み込まれた隊ほど脆いものは他にない。兵士達は次々とテント内の荷物を引ったくり、我先にと避難すべく動き出す。と、その時だった。
「落ち着け! まだ敵が来るまでに時間はある! 先程のは流れ矢に過ぎぬ! 今ここで混乱を来せば、隊はまさしく全滅してもおかしくはないぞッ!」
勇ましげな声が響き渡った。全員が声のした方向に目を移す。そこには、一人の屈強の戦士が立ちはだかっていた。
不精髭を生やし、片目には眼帯、剣は刃こぼれを起こしている。鎧の擦り傷、二の腕、首筋に残る傷跡、そして泥だらけのその足は、激戦区を駆け抜けてきた証拠でもあった。
「ゲ、ゲオルグだ…!」
「…隻眼のゲオルグ!」
「コーラス白獅子騎士団一の剣士と言われたあの…?」
その姿を見た兵士達は、一様に驚きと尊敬の眼差しを送った。混乱が一時収まる。殊更に明るい顔を見せると、ジョージはゲオルグと呼ばれたその男の側へと駆け寄った。
「ゲ、ゲオルグ…そうだ、そういえばお前がいたんだよな!」
「…ジョージ殿、お父上がこの地にいたならば何と申したことか。お目付役として派遣されたこのゲオルグ、嘆かわしく存じます。よいですか、そもそも兵を統率する立場という者はですな…」
溜息混じりに話すゲオルグの言葉を遮り、ジョージは慌てた口調で捲し立てた。
「わぁってる、わぁってるよ! とにかく説教は後でいいから! 生き残んなきゃ話にもなんねぇよッ!」
「…分かりました。…では、全軍に通達ッ! とりあえず、動ける者は怪我人を連れて退避! そのまま麓にある小さな村まで一時後退し、体制を立て直す事とする!」
ゲオルグの言葉に、それまで不安げな顔だった兵士達もその目に輝きを取り戻し、てきぱきとした手順でテントを後にし始めた。辺りが一時騒然とする。ジョージも、それに続きたい気持ちは山々であったが、ゲオルグの鋭い目がそれを許そうとしなかった。
一通り退避が終わったのか、やがて辺りには静けさが戻ってきた。遠くからは、相変わらず盗賊団の雄叫びが轟いている。ジョージは不安げな顔をしたままゲオルグに訊いた。
「…げ、ゲオルグ、とりあえず全員退避したみたいだぞ。お、俺達も早く逃げなきゃ…」
「殿を任されるは兵の長として基本中の基本。よいですか、我々はギリギリまで敵の侵攻を食い止め、兵が無事に逃げ切るのを確認した後、動くのです。」
「ば、馬鹿かッ!? そ、そんな事してたら俺らはッ!?」
「ジョージ殿…、お父上がどうして貴方様をこの地に派遣したかお判りですか?」
「知るかよっ! 勝手にこんな場所に放り込まれて、親父は俺を憎んでやがるに違いねぇんだ! ああ、こんなことなら…もっと早く城から逃げ出しておくんだった…くそッ!」
突然、ジョージの頬を乾いた音が襲った。ゲオルグが平手で叩いたのだ。
「…な、なんなんだよッ!」
「………」
ゲオルグは喋らない。ただ黙って、ジョージの顔を見つめるばかりだ。
時を経ずして、盗賊団の激しい咆哮と共に、テントに火矢が打ち込まれた。次々と打たれる火矢は、一瞬にしてテント内を炎に包み込んでいった。
殊更に慌てた顔をし、ジョージは辺りを見回した。あと数分もすれば、恐らくこの駐屯地内にも敵が襲いかかってくるだろう。そうなれば、もはや逃げ場は無いに等しい。
「じょ、冗談じゃないッ! す、すぐにここから逃げなくちゃ…!」
「お待ちくださいッ!」
しかし、そんなゲオルグの言葉にも耳を貸さず、ジョージは真っ先にテントを飛び出した。風を切る音が一瞬耳に届いたかと思うと、ゲオルグは突然大声で叫んだ。
「ジョージ殿ッ! あぶないッ!」
言葉と共に――衝撃。
いきなり背中から突き飛ばされ、ジョージは激しく地面に激突する。何が起こったのか理解できず、顔面を襲う痛みに耐え、ゆっくりと立ち上がった。
そして次の瞬間、ジョージは驚きに目を見開いた。
立ち尽くすゲオルグの腹に、何かが突き刺さっていた。それは、数本の矢であった。流れ出る赤い液体が、その場にポタポタと水溜まりを作っていった。口からは、やはり血を流し、がっくりと膝をつくと、ゲオルグはその場にうずくまった。
「――ゲ、ゲオルグッ!? な、何で…ッ!?」
「…ジョージ殿…お逃げください…そして、そしていつの日にか…立派な騎士に…」
そう一言だけ呟くと、ゲオルグはその場に力無く倒れ込んだ。その体を揺すり、半狂乱になりながらジョージは叫んだ。
「…お、おい? …ゲオルグ! ゲオルグッ! し、しっかりしろぉッッ!」
そうしている間にも、馬の蹄の音が近づいてくる。駐屯地は完全に炎に包まれ、後に残されたのは、もはやジョージ唯一人だけだった。
孤独が迫ってくる。死の恐怖がまるで自分を飲み込むかのように、背筋からも、胃の奥からもゆっくりと這い上がってきた。急激な嘔吐感がジョージを襲った。
「……う、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
叫び声をあげ、ジョージは走った。その場から、この過酷な状況から背を向け、兎にも角にも逃げ出した。辺りを包み込む炎が後ろ姿を照らす。遙か彼方から、盗賊団の雄叫びが追いかけてくる。
悔しくて、情けなくて、何故だか涙が溢れ出た。泣き出しながら、ただひたすらにジョージは走り続けた。
そうするしか、他に方法がなかった。