第六章 一幕 『潜入〜ド・ゴール』
『船がつくぞ―――――ッッ!』
勇ましい船員達の雄叫びでジョージは目を覚ました。と同時に、頭をガツンッ、と木箱の角にぶつけ、襲い来る激痛にうずくまる。
「あ、あたたた…っ! こ、ここはっ…? 俺は…っ?」
辺りをぐるりと見回す。積み荷だらけの船倉の、木箱で出来た洞穴の中にジョージはすっぽりと収まっていた。これでは頭をぶつけてもおかしくはない。
昨日の事を思い出す。
客室が用意されていない武装商船では、部屋は船員達の人数分しか存在しない。必然的に、三人は船倉に積み込まれ、一日を窮屈な中で過ごす羽目になったのだった。
「そ、そうだ…! 密航中だった…イリューン、ディアーダは!?」
辺りを見回すが、既に二人の姿はなかった。四つ足で小さな洞穴から這い出ると、ジョージは低い天井に頭を摺り合わせるようにしつつ、船倉の出口へと向かった。
古ぼけたドアが見える。向こう側は機関室になっている筈。力を込め、ぐっ、と鉄の取っ手を押すと、ドアは軋みながら奥へ開いた。ぽっかりと開いた木枠の門をくぐり抜けると、ようやく普通に立てるほどの広々とした空間に出た。
小さな野球場程はあろうか。木製のゆったりとした空間に様々な機材が置かれていた。船首方向の船底には、一辺二、三メートル程の小さな四角い窓がついており、そこから水中の様子が覗いている。その様子はさながら水族館のようであった。
ジョージは思わず感嘆の表情を浮かべた。鼻の奥にツンとした古紙の臭いが蘇ってきた。
まだ記憶に新しい――コーラス城の図書室で読んだ知識。武装船の船底には、戦時に使う特別な窓が設置されているという――そのままの風景に、感動を覚えずにはいられなかった。
見れば、その窓をぐるりと取り囲むようにして、イリューン、ディアーダ、そしてサムソンの姿があった。
イリューンは珍しくあの黒い鎧を脱ぎ、麻で出来た軽装に身を包んでいる。ディアーダもまた、いつものローブ姿ではなく、半袖シャツにパンツ姿。サムソンは昨日と変わらず半裸に黄色いターバン姿だった。
イリューン、ディアーダの二人はジョージの姿に気付くや、
「おっせぇぞ、ジョージ!」
「一足お先に脱出するところでしたよ。」
ふふん、と笑いながらそう声を掛けてきた。まだ痛む頭を右手でさすりながら、ジョージは状況を把握出来ずに尋ねた。
「あ、あぁ…わりぃ…で、二人とも…何でまた、着替えを?」
「忘れたんですか。もう数分も経てばド・ゴールの水上門を抜けてしまいます。港に着いてしまっては、すぐに積み荷のチェックが始まってしまいますからね。」
「そういうこった。サムソンにゃ話はつけてあるぜ。」
「え…は、…話ってまさか…?」
「おう、おめぇも早く着替えた、着替えた! すぐにこのゲートを開けて貰うからよ!」
イリューンはそう言い、窓を顎で指した。それが意味することはつまり、そういうことだ。
「え…? ま、ままま!? え!? マジ!? ま、まさか、ほ、本気でっ!?」
「あったぼうよ。あぁ、心配するこたぁねぇぜ。荷物と鎧はサムソンが後でド・ゴール一の宿に届けてくれるってからよ。」
「い、いや、そっちの心配じゃなくてっ! ちょ、ちょちょちょちょっと待てぇぇっ!」
抵抗する間もなく、ジョージの鎧が一気に剥ぎ取られた。盗賊団としてもやっていけるんじゃなかろうか? あっという間にジョージは下衣一枚の情けない姿に変身。そのままイリューンはジョージの首根っこを、そのぶっ太い腕でがっしと捕まえると、
「おぉし、サムソンっ! 準備出来たぞっ!」
「よしきた、イリューンッ! ゲートを解放するから頑張って岸まで辿り着くんだぞ! ド・ゴールは水上門のチェックは厳しいが、そこを越えちまえば後は簡単なモンよ。そんじゃ、まッ、成功を祈ってるゼッ!」
言いながらサムソンは三人からそそくさと離れると、壁に付いている何やら怪しげなレバーを強く真下に引き下ろした。ガコン、と嫌な音が鳴った。瞬間、ズバンッ! と、イリューン、ディアーダ、ジョージの周りに透明な壁が立ち上がった。
「な、なななななななな」
「な」を連発するジョージ。十回目の「な」を口にした瞬間、船底の窓がシュバッ、とスライドして開き、透明な壁の内側に物凄い勢いで海水がなだれ込んできた。
「…ご、ごばぁぁぁぁぁぁっっ!」
波に呑まれるジョージ。三人は船底から海底へと放り出される。ぐるんぐるん、と何度も水中で回転を繰り返し、ジョージの意識は遙か彼方へと消え去っていった。
「………」
(声が聞こえる。呟く声だ。光が見える。あぁ、俺は死んだのか…)
「……ジ……起き……着きま……」
(静かだ。何も聞こえない…あぁ、もう一度だけ、あの娘に会いたかった…)
『起きねぇかぁッ! ジョージィィィッッッ!』
「うわぁぁぁっっっ!」
がばぁっ、と上体を起こした。海水が濡れた髪から顔面に滴り落ち、鼻に入るとごほ、げは、と少々むせる。潮っぽい香り。海水の味が顔全体を包み込み、やっとの事でジョージは意識を取り戻した。
喉の塩辛さに耐えながら、ゆっくりと辺りを見回してみる。
右を見る。しゃがみ込んだ――俗に言うウンコ座りの体勢で、呆れ顔のイリューンがジョージを上から覗き込んでいる。
左を見る。ディアーダが細い上半身を晒し、濡れたシャツを雑巾のように搾っている。
記憶も徐々にハッキリとしてきた。見渡せば、辺りは薄黄色をした閑静な倉庫群。晴れやかな町並みも人の声も聞こえてこない寂しい波止場だった。
「どぉーうよ。どーにかこうにか、ド・ゴールに侵入成功だぜ? 途中でおめぇが気絶しちまうモンだからよ、どうすっかと思ってたけんどもよ。」
悪びれる風も無く、イリューンがニッカリと白い歯を見せた。
「…こ、こ、こ、…殺す気かぁぁぁッッッッッ!」
記憶が繋がると、一気に恐怖が襲ってきた。涙目になりながらジョージは叫んだ。
早いうちに気絶してしまったせいか、殆ど水を飲まずに済んだらしく、それが全くもって不幸中の幸いだった。一歩間違えば、二度と起きあがれなかったかもしれない。
しかし、イリューンはそんなジョージの気持ちなど露知らず、
「あんだよ、怒るなよ。無事に着いたんだからいーじゃねぇか。全く。大体よぉ、助けたのは俺だぞ、俺。」
と、自分を親指で指し、自らうんうん、と頷いてみせる。
幾度と無くイリューンとの意識乖離を経験してきたが、今回もまた改めて、この男には一般常識が全く通用しない事を思い知ったジョージであった。
「早く着替えないと風邪を引きますよ?」
事も無げにディアーダが呟いた。既に二人の着替えはあらかた済んでいるらしく、ジョージだけがずぶ濡れの状態のまま放置されていた。
ようやく腰を入れて立ち上がろうとする。イリューン、ディアーダはそれを待たず、さっさと町の方向へ歩いていってしまった。
待ってくれ、とは言わなかった。どちらかと言えば、一人でいたかった。
願わくば、このまま二人と別れられれば――星の数ほど思い浮かべたそんな想像を、着替えながらジョージはまた口中で噛みしめるのであった。
倉庫群から五分程歩けば、そこはド・ゴール港である。既にサムソンの武装商船は到着し終えているらしく、辺りにそれらしき人影も、あれ程沢山いた船員達の姿もない。
遠く並ぶ、三角形をした煉瓦屋根の向こうに、一際大きな城の一部が覗いている。城塞都市の名残であり、現在のド・ゴール王宮の尖塔だ。
波止場に背を向け、タイル敷きの道を歩きながら街の様子に目を向けた。
派手に飾られた街路樹。花や縄飾り。遠くでは花火が鳴っている。武闘会が近いからだろうか、お祭りのような雰囲気がそこかしこに漂っている。
どの家も高級そうな白塗りの壁造り。扉は解放され、今まで見てきた地方都市のような警戒心が感じられない。城塞都市として栄えてきたドゴールの民族性だろうか、まさに絵に書いたような平和がそこにはあった。
「エレミアも立派な都市だと思ってたけど…この治安の良さは凄いな…。ラキシアとの緊張感が溢れてるコーラスとは正反対だ…」
ジョージは呟きながら更に歩を進めた。なだらかなジグザグのタイル路を先へ先へと急いで行くと、やがて人混みを思わせるざわめきが聞こえてきた。
声の方向へと足を向ける。途中、騒ぎ立てる幾人もの子供達とすれ違うと、やがて目の前がパッと明るく開けた。噴水のある広場だった。
広場には出店が幾つも開かれ、活気に満ち溢れていた。
野菜の行商、果物の切り落とし販売、毛皮や日用品の雑貨屋…
人混みの中を掻き分けるようにしながら、看板の一つ一つに目を這わせる。宿はすぐに見つかった。
入り口では、既にいつもの黒い鎧に着替え終えたイリューンが、羽根ペンをクルクル回しながらチェックインを済ませている真っ最中だった。
「なんだ、やっと来たかよ。代わりに済ましといたぜ。」
ジョージに気付いたイリューンが相変わらずの憎まれ口を叩く。いつものことと、ジョージは黙ってそれを聞き流す。
「よゥ、遅かったなネギ坊主! おめェの荷物も部屋に運んどいてやったぜ。」
後ろから、ぬうっと長身のターバン男が顔を出した。サムソンだった。
「あ、…ありがとうございます…」
有無を言わさぬ迫力に気圧される。兄のアドンとはまた違ったやり難さがある。萎縮するジョージを見るや、
「ハッハッ! そう堅くなるな、アドンの兄貴みたいに取って喰いやしねェよ!」
と、何を勘違いしているのか、サムソンはまた大笑いをしてみせた。
「ところで、武闘会は明日の筈ですが…何やら賑やかですね。」
荷物を置いたディアーダが奥の階段から降りてきた。サムソンは首だけを振り向き、
「おゥ、なんでも前夜祭ってんで、遠くコーラスの王子様が査察に来てンだとよ。」
そう威勢良く言った。コーラスと聞き、ジョージの顔色がサッと青冷める。
「…コーラス? …ジョージ、確かおめぇ、そこの百人長だったんじゃなかったけか?」
こんなとき『だけ』記憶力がいい。イリューンの問い掛けに、あう、あう、あう、と続く言葉が出せず、ジョージの目が宙を奇妙に泳ぎ続ける。
「…あ、ああ、…む、昔…昔、な。」
どうにかこうにかそれだけを口にした。嘘ではない。しかし、今はコーラス関係者に会うわけにはいかない。時期尚早である。敵前逃亡の罪を相殺出来るだけの手柄が無いまま自分の所在がバレでもしたら――良くて国外永久追放。下手をしたら縛り首だ。
(どどど、どうすりゃいい? どうすりゃ? どうすりゃぁぁぁ!?)
脳内会議が大勃発。そんなジョージの様子に首を傾げると、
「そういえばそうでしたね。なら、早速会いに行くとしましょうか。」
余計なことをディアーダが口走る。
「い!? いやいやいやいや、だだだ大丈夫だって。そもそも俺はさる密命を受けてだな、その、とにかく表立って動くわけにはいかないわけよ、うん。」
「まぁまぁ、遠慮すんじゃねぇって! さ、行こうぜッ!」
人の気も知らず、イリューンはかんらかんらと高笑いをしながらジョージの首根っこをがっしと掴む。併せてサムソンもまた上機嫌で、
「んじゃァ、俺はまた仕事にもどらァな。イリューン、武闘会は影ながら応援してるゼ。頑張れよッ! ほら、元気だせッ、城にはお仲間がいるんだろ? ネギ坊主ッ!?」
そう言ってつかつかとジョージに歩み寄ると、バン、とその両肩を叩いた。ギラリと光る眼が、「なァ?」と肯定を促した。無言の圧力がジョージを襲う。もはや言い逃れは許されない状況だった。
まな板の上の鯉。イリューンの手の中のジョージ。
渋々、ジョージは頷くしかなかった。
人混みは益々酷くなり、城へと向かう一本道はさながら縁日状態だった。その間を縫うように、いや、どちらかというと押し退けるようにイリューンは人混みの中を突き進む。
勿論、嫌な顔をする人もいるにはいるが、その度にイリューンが凄い顔で睨め付けるのだ。
銀髪、グレーの眼をした強面の男が、ひ弱な騎士くずれを引きずりつつ歩むその様子は、まるで鬼の行軍そのものである。
皆一様に目を逸らし、恐ろしい男から少しでも遠くに離れようとする。まさに、モーゼの十戒。蟻の子を散らすかのように、イリューンが歩けば人混みは真っ二つに割れていった。
(覚悟を決めるしかない…イリューンが城に入ると同時にトイレだとか言って…どうにかコーラス関係者から姿を隠すようにしないと…っ!)
ジョージの想いとは裏腹に、イリューンは掴んだその手を離さない。
とうとう王宮目前まで辿り着くと、やってきた不審人物に門前の衛兵は槍を交差させ道を塞いだ。
「何者だ!?」「何用か!?」
声高に二人は問い掛ける。ジョージは小さくガッツポーズ。しかし構わず、
「通してくんねーかな。こいつの知り合いが中にいるんでね。」
そう言い、イリューンはジョージを衛兵の前に突き出した。首根っこを捕まれたまま衛兵の前に放り出され、ジョージは慌てて小さく首を振る。
訝しげな顔を見せると、衛兵は槍襖を改めて強く交差させ、
「駄目だ! 今日は武闘会の前夜祭だ。貴様らがどこの誰であろうと通す訳にはいかん!」
イリューンに負けず劣らずの気迫で睨め返した。流石は一国の門前を預かる兵士だった。
(いいぞ! その調子だっ! 衛兵っ、ナイスッ!)
しかし、ジョージが目を輝かすのと、イリューンの表情が怒りに変わるのとはほぼ同時だった。
はっとし、ジョージはイリューンを止めようと身を翻して立ち上がるが、時既に遅し。イリューンは目にも留まらぬ早さで衛兵の胸ぐらを掴み挙げると、
「グダグダ言ってんじゃぁねぇぞッ、このヤロウ!」
衛兵を持ち上げ、一喝。
途端、場の空気が明らかに変わった。重苦しい、緊張感の張り詰めた感覚がその場にいる全員の背筋を走り抜けていく。
一触即発。爆発寸前の状態。後ろに控える衛兵が腰の得物に手を掛けた。
口元をニヤリと綻ばせるイリューン。ヤル気満々だ。
(…あ、あぁぁぁぁっ…ま、まただぁぁぁぁぁ…! も、もうだめだぁぁぁぁぁぁ…)
おたおたと、殺気立った衛兵とイリューンの顔とを交互に見やり続けるジョージ。
暫しの沈黙が辺りを支配する。殺気が満ち、それが一定値を越えようとしたその刹那…
遂に、胸ぐらを捕まれた衛兵が口火を切った。
「…どぉ〜ぞっ! どうぞ、お通り下さいませっ!」
突如、ニカッと二人の衛兵が満面の笑みをその顔に浮かべた。
(……へっ…?)
呆気にとられるジョージ。先ほどまでの殺気はどこへやら、弛緩した空気が突然その場に流れ込んだ。
状況が掴めないのはイリューンも同じだった。掴んでいた胸ぐらをぱっと手放し、二度、三度と首を傾げるしかない。行き場のない怒りが天に昇ってしまったようだった。
「…やれやれ、面倒ごとは御免ですよ。」
――冷静な声。振り返らなくても解る。ディアーダだった。
かざした掌にほんのりと光が灯っている。理力が発動した直後の様子だった。
「ま、まさかお前っ……!」
「魅了しました。意志が強い方達だったので、ほんの少々手こずりましたけどね。」
人の精神を翻弄する――幻術を使って相手を視覚的に騙すよりも、更に上級な理力の一つだった。ディアーダにとっては朝飯前の事に違いない。
ジョージにとって不幸は、この場に最大級の力を持つ魔術師がいたという事。そして、その性格が最悪だったという事の二つに違いなかった。
「ちっ…俺ぁこのままやっちまってもよかったんだけどよ。…ま、いいか。いこうぜ。」
イリューンが顎で門を指すと、二人の衛兵は先程とは打って変わり上機嫌な様子で閂を上げた。やがて、三人の眼前で巨大な門戸が軋んだ音を立て開いていった。
ふたたび首根っこをふん掴まれ、ジョージはまたも引きずられるようにして城の中へと足を踏み入れる。もうどうにでもなれ、と半ば諦めた表情がその顔には浮かんでいた。
花火の音が空虚な心に一つ、二つと響いていった。