第五章 一幕 『エマへ』
馬車は走る。ただひたすらに荒野を走り続ける。
翌日、クラヴィッツを出発した一行は、一路、エマへと向かっていた。
帝都ド・ゴールまでは、クラヴィッツから馬車で二日の距離にある門前町エマを経由。エマにて連絡客船に乗り継ぎ、海路を中一日の道程である。
幌から見える景色も、今までの原野から人の通る素朴な農道へと変わりつつあった。
昨晩の騒動から一夜明け、ジョージは二日酔いにズキズキする側頭部を抱えながら、酒場のオヤジの言葉を思い出していた。
それは、今の状況を覆す最後の希望に間違いなかった。
「しっかし、オヤジよぅ。どうしてまた、この町はこんなにもサビれちまってるんだぁ?」
管を巻くイリューンに、酒場のオヤジは溜息だけを返してのける。
言っても無駄、とでも言いたいのだろうか。ただひたすらにオヤジは酒瓶を片手に自分もチビチビと琥珀色の液体を口にし続けている。
ちっ、と舌打ちをするイリューン。飲み過ぎ、カウンターに俯せになったまま、ぐったりとしたジョージ。
するとそこに、見知った顔が入ってきた。ディアーダだった。
「…ん…珍しいじゃねぇか。今日の瞑想は終わったのか?」
ディアーダは答えない。銀髪の酔っぱらいを一瞥すると、カウンター席のジョージの右隣に座った。
ふん、とイリューンが鼻を鳴らす。それに対して溜息を一つ。
ディアーダは髪を掻き上げる動作をし、
「…町の教会を回りましたが、どこも不在です。クラヴィッツにはギルド派遣のダイバーが地方連絡官として待機しているはずなのですが…困ったものです。これではマナ・ライ様に旅の報告が出来ません。」
途端、ジョージはがば、と目を覚ました。え? と信じられない顔だった。
「なんだって? ディアーダ、もう一度言ってくれないか?」
「ですから、教会が不在なのです。」
「いや、そこじゃなくてだな。…ここには、なんだって?」
「……ダイバーですか……?」
ぱぁぁ、とジョージの顔がみるみる生気を取り戻していった。
前述したが、ダイバーとは記憶検証を行うギルドの執行官の総称である。地方には、数こそ少ないものの、冤罪を防ぐ為に数人の執行官が待機している。彼らは中央へ情報を伝達する連絡官でもあるのだ。
勿論、全ての町に、という訳ではない。町や村に一人か二人。そんな離島の派出所のような体制ではあったものの、それがあるのと無いのとでは雲泥の差であった。
勿論、ジョージが期待した理由は言うまでもない。ダイバーが事件に関する正確な調書をギルドに挙げさえすれば、晴れてジョージは無罪放免。全てのしがらみを捨て去れるのだ。残った二人は非常に怪しいものではあるが。
「いるのか!? ダイバーが!? 地方取締局の人間がここにっ!?」
「えぇ。…そのはずなのですが…」
がた、と席を立ちあがり、がっしとディア−ダの肩を掴んで揺さぶるジョージ。そんな必死のジョージに訝しげな表情を返すディアーダ。
「――いないよ。」
突然、今の今まで酒瓶を片手にカウンターに突っ伏していたオヤジが、吐き捨てるようにそう言った。
ジョージがなぬ、とばかりに振り返る。イリューンの片眉がピクリと吊り上がる。
「…どういうことだ? オヤジ?」
ふぅ、と、ここに来てから何度目かの溜息。オヤジは三人を端から端まで睨め付けるように見やると、仕方がないかと言わんばかりの表情で口を開いた。
「…理由はわからねぇ。けど、数週間前からこの町の執行官様はエマに出かけちまった。」
「…エマ…に?」
ジョージは眉をひそめる。すぐにも疑いを晴らしたいというのに。
オヤジは続けた。
「おぅよ。…こんなちいせぇ辺境の町で、ギルドの執行官様がいねぇ町がどうなるか。そのぐれぇお前さん達にだって解るだろう?」
ぐび、と再び酒瓶を口にする。そんなオヤジを余所に、ジョージはイリューン、ディアーダと顔を見合わせる。
オヤジの言葉はこの町の現況を端的に物語っていた。クラヴィッツは旅の中継点として使われているような小さな町で、当然の事ながら流れ者も多い。そんな町で、自治を預かる執行官がいなくなってしまえば、争いが絶えず、揉め事も少なからず増える。そんな状況が数週間も続けば、完全に町は活気を失ってしまうだろう。執行官は、だからこそ地方の要とも言える大事な存在なのだ。
ディアーダは首を傾げた。
「なんでまた、エマに…? 普通、ギルドの執行官は中央から特別な命令でも受けなければ当直の教会からは席を外せない筈…」
唇の端を『へ』の字に曲げながら自問自答する。当然、ディアーダに解らないものを他の二人が出せるわけもない。
「あんたら、もしエマに行くんなら、早いとこ執行官様に戻って貰えるよう頼んでおくれよ。大した礼はできねぇが…今日の飲み代ぐらいは『ロハ』にしておくからよ。」
ジョージはもう一度イリューンの顔を見た。イリューンもまた、ジョージの言いたいことが解ったようだった。
「…エマはどうせ、ド・ゴールの門前町だし…なぁ?」
「ん、まぁ、いいんじゃぁねぇの。ちょっとした暇潰しにはならぁな。」
「いずれにせよ、旅の報告は必要ですしね。」
百年に一度の奇跡か、三人の意見が見事なまでに合致した。こうして、ジョージは希望を首の皮一枚で繋げている状態で朝を迎えることになったのである。
ガコン、と車輪が路傍の石に乗り上げ、ジョージは我に返った。見上げれば、幌の外には抜けるような青空が広がっている。海が近いのだろう。ウミネコの鳴くにゃぁにゃぁという声が聞こえてくる。
思わず誘われるように幌の外に顔を出し、ジョージは進行方向を見やった。水平線の向こう、霞掛かった雲の果てには、帝都ド・ゴールの城塞壁がうっすらとその姿を見せている。
なだらかな段丘を越えれば、古ぼけたアーチ状の石造りの門が一行を出迎えてくれた。
門前町エマ。海を隔てた帝都ド・ゴールの対岸に位置するこの町は、完全な城壁に阻まれたド・ゴール唯一の入り口である。
ド・ゴールは第二次ラキシア大戦時、クラメシアのコーラスに対する最終防衛戦としてその国自体が要塞へと姿を変えた特種な城塞都市だ。
コーラス領地と目と鼻の先に位置していたこの都市は、海にせり出した三日月型の半島に建築されており、前面は海、後方は崖という、まさに難攻不落の要塞として過去、何度もその名を歴史に轟かせている。
現在はコーラスの同盟国であり、その要塞としての機能は殆ど捨て去っているものの、クラメシアとの緊張が増す昨今は後方の崖に架けられた橋が落とされ、入り口はエマからの連絡客船に限られている状態だった。
活気が渦巻いていた。道行く人々の顔には笑みが溢れている。買い物を楽しむ者。街頭茶屋で食事を楽しむ者。そして、定期船であるド・ゴールへの船を待つ者達。
雑踏が馬車の幌の中にまで溢れ込んできた。そこはまさにクラヴィッツの対極にあるような町だった。
「ふぇぇ…すごいな…。まぁ、エレミアやコーラスに比べりゃ大したことないんだけど…いくら何でも昨日と今日とのギャップが激しすぎるからなぁ。」
幌の中から道の左右を見やるとジョージは言った。船頭を勤めるディアーダがその声を聞いてか、
「もうすぐ宿です。まずは、先だっての通り教会に向かうことにしましょう。」
そう言った。
木造二階建ての宿。そのすぐ脇に馬車を停める。馬車はここで馬屋へと引き払う。そもそもが盗品なわけで、ジョージは今にもバレるのではないか、と気が気ではなかったが、そもそもこの世界での馬車自体が現代の中古車のように買い取り・引き取りを繰り返していくものなので、思ったよりもスムーズに引き取りは終了した。
ディアーダは報酬(ある意味でのあぶく銭)を受け取ると、ほくほく顔でジョージ達に合流した。
「…お前…よく平然としてられるよな…」
「貰える物を貰わないわけにもいかないでしょう?」
図太いを通り越している。これにはさしものイリューンも呆れ顔だった。
チェックインを済まし、宿の女将に聞けば、ド・ゴールは現在武闘会が近づいている為、入国を制限しているとの事。次の船は明朝の八時という話だった。
時間の余裕はある。食料、荷物を部屋へ置き、三人は一路教会を目指した。
教会は町の外れに位置していた。町の中心地とは違い、小高い丘の上に建つそこだけはひっそりと静かだ。
空気がそこだけ違うようにも見える。町は抜けるような青空だというのに、教会の周りだけは暗雲が立ち込めている。いかにも、というヤツだ。
「…やはりおかしいですね…私がマナ・ライ様に聞いていた話とあまりにも違いすぎる。」
「おいおい、ディアーダ。そういう違いがあるからこそ、おめぇを旅に出したんじゃねぇのか?」
「…まぁ、…そうなんですけどね。」
不服そうなディアーダを余所に、イリューンはずかずかと無遠慮に正面玄関前へ立った。拳を思い切り振り上げ、
がん、がん、がん!
「たのもぉ〜う!」
「おぃっ! ど、道場破りじゃねーんだからっ!」
本当ならば、突っ込む気力もないジョージだが、一応そこは声をあげておく。
少しの沈黙。やがて、古ぼけた木製の扉が軋みつつ、観音開きになった。
フードを被った男だった。憔悴しきった顔をし、目線も虚ろ。どこを見つめているのかも解らない。
ディアーダが口火を切る。
「…牧師様ですか? こちらに、クラヴィッツのギルド連絡官が来ていると伺って来たのですが。」
――沈黙。男は何も答えない。
「おぃおぃ、てめぇ! 遠路はるばる来たってんだからよ! 茶ぐらいだすのが常識ってヤツじゃぁねぇのか?」
イリューンの恫喝にも、男は黙ったままだ。
数秒。イリューンが背中に背負ったハルバードに手を伸ばそうとした瞬間、
「…牧師は外出中です…連絡官は来ておりません。」
それだけを本当に小さな、聞き逃してしまいそうな声で呟き、背を向けた。
「おぃ」とイリューンが問い返す間もなく、開かれた扉はまるでバネ仕掛けだったかのように勢い良く音を立てて閉まった。
がしゃ――ん…っ! ばんっ!
呆気にとられた。男が姿を現してから僅か1分足らずの出来事だった。
当然、イリューンは収まりがつく筈もなく。
ピクピクと青筋が立っている。逆立った銀髪が天を突く。ヤバイ。限界寸前だ。
「――なぁめぇやぁがぁってぇぇぇぇぇ…っ!」
今にも扉にぶちかましを食らわそうかという勢いのイリューンを背中から抱き止めつつ、ジョージは叫んだ。
「待て、待て、待てって! どうしてお前はそう短気なんだ! ここで騒ぎを起こしたら俺が――じゃなくて、武闘会に参加できるかどうか怪しくなってきちまうぞ! ただでさえ指名手配されちまってんだぞ、お前はっ!」
俺は指名手配者じゃない、と思っていたからこそ出た台詞だが敢えて突っ込みは許さない。
荒い息を止めることなく、まるで盛のついた野良犬のような鼻息で、
「ふーっ…ふーっ…じゃぁ…どうしろってんだッ!」
と、町場のチンピラよりも質の悪い絡み方を見せるイリューン。
「と、とりあえず一度宿に戻ろう。何かしら、いい方法を考えるんだ。」
「…そうですね。何にせよ、このままでは話になりませんから。」
ディアーダもまたジョージに同意した。一対二では分が悪いと考えたのか、イリューンはようやく落ち着きを取り戻すと、渋々二人に従った。
「…で、どうするんだよ?」
イリューンが憮然とした態度でそう吐き捨てた。しかし、簡単に答えが出る筈もない。
「とにかく…牧師にさえ取り次いで貰えないというのは明らかに異常です。ここは、ちょっとした強攻策でも取ってみますか。」
いつだって強攻策じゃないか、と言い出したい気持ちを抑え、ジョージは「それは?」と誘い水を出した。
「こんな事もあろうかと、ギルド査察官の制服を数着、マナ・ライ様にお借りしてきました。辺境では身分を明かさねばどうにもならないこともある、と聞き及んでいました故。」
今の今まで何が入っているのかよく解らなかったディアーダの鞄だったが、そんな物が入っていたとは。
部屋の端から鞄を引きずり、バチン、とロックを外すと、中から三着の白いローブを取り出す。それをディアーダは丁寧に一着づつ手渡した。
「…でも、これを着ていたって、俺達の面は割れているんじゃないのか?」
「大丈夫です。そこは何とかします。要は、顔さえ認識できなければいいのですから。」
ジョージの問いかけにも冷静に、いつものアルカイックスマイルを浮かべるとディアーダは言った。ゾクリとするような凄味があった。
「――おぃ、これ、ちいせぇぞ。」
声に振り返ると、ローブを着たイリューンが苦しげに突っ立っていた。見れば、所々が身につけた黒い鎧の角に引っ掛かり、破けてしまっている。
何故、鎧を脱いでから着るという発想が浮かばなかったのか…
『――もう少し考えてから着『てくださいっ!』ろぉっ!』
二人の声が重なった。
三十分後。
白一色のローブを纏った三人が宿を出る。ひそひそ声で、人々がざわめき立つ。子供の中には指さす者までいる始末。明らかに目立っている。それはまぁ、そうだろう。現代でも白装束の集団が、いきなり町中を闊歩すれば注目の的になるのは間違いない。
「なぁ、これ、本当にギルドの正式な制服なのか…?」
「さぁ…マナ・ライ様はこれを適当にあった服の中から選んでいましたから…」
「…もし、コスプレだったらあのジジィ、生かしちゃおかねぇ。」
文句を言いつつも、先の教会前まで辿り着いた。再び、玄関前に立つ三人。今度のノックはディアーダだ。
こん、こん、こん。
「…もしもし。」
ディアーダの声に反応したのか、またも虚ろな目をした男が姿を現す。
「誰もいないと……」
ぴたり、とそのくぐもった声が止まった。ただでさえどこを見ているか解らなかった目線が、更に明後日の方向を見始める。そして、
「…おぉ…査察官様であられますか…我が主もお待ちでおられる。どうぞ、こちらへ。ふひひひひ…」
不気味な笑い声をあげると、ローブの男は三人を手招きしつつ部屋の奥へと消えていった。
「…ど、どういうこっちゃ? これは…?」
ぽかん、と首を傾げながらジョージはディアーダに訊いた。
「なに、単純なことです。ちょっとばかり幻覚を見ていただきました。」
「…ダイバーが必要な訳が良く解るよ…」
溜息を吐き、ジョージは言った。一方、首を傾げながらディアーダは続けた。
「しかし、妙です。私はさっきの男に幻術をかけたのですが…どうも彼は、私の術よりも前に何者かに操られている節があります。」
「…それってぇことは、なにか? アイツを操っている何者かがいるってぇことか?」
「…可能性です。用心してください。」
ごくり、とジョージは唾を呑んだ。嫌な予感だ。エレミア外れの祠で感じた物と同じ感覚だった。
しゃりん、と鞘から剣をゆっくり抜き、胸元で構える。イリューンもまた、神妙な顔つきで教会奥の闇を見つめている…
――と、思った矢先。
「――チャラチャラめんどくせぇぞ、この野郎ッ!!」
背中のハルバードを抜き放つや、勢いに任せてイリューンは室内へと突っ込んだ。え? と疑問符さえ付けられない。ジョージが次の言葉を考える間もなく、イリューンは部屋奥の漆黒に飲み込まれる。
一秒後。
ずっどぉぉぉぉぉぉんっっ!!
凄まじい衝撃音。砂埃。そして、焦げ臭い臭いが鼻を突いた。
「先手を切りましたか。…私達も行きましょう。」
事も無げに言うディアーダ。そして、ローブの裾を翻すと、続いて躊躇いもなく闇の中へと飛び込んでいった。後に残されたのは、茫然自失のジョージ一人だけだった。
(…ま、またかよぉぉぉぉっっ! な、涙が出てくるっ! ちくしょぉ…)
左手で顔を覆うように項垂れる。数秒。ジョージは遂に意を決した。退路は無し。進むしかない。そして、イリューンと一緒にいる以上、この程度のことは予測の範疇にしなくてはならないのだと吹っ切った。
嫌々ながらも顔を上げる。ジョージは剣を腰元へ下ろし、自らも教会奥へと飛び込んでいった。