第四章 三幕 『指名手配』
言葉もない。
そう表現する以外に、今の状況を的確に表す言葉がない。
気を抜くと、今にもジョージは倒れ込んでしまいそうだった。
現在置かれた状況、即ち、自分達こそがルミディアの一年市を大延焼させた張本人と、その関係者だという事実。
その事実が、ひたすらにジョージの脳裏をぐるぐると駆け巡っていた。
(あぁぁぁぁ……どうすんだ、どうすんだよぉぉぉぉぉ……申し開きなんか出来っこないぞこの状況……っ! ディアーダがやった事とはいえ、馬車をかっぱらったことは紛れもないし、どうしようもないってばさ、これはよぉ…っ!)
胃がキリキリと引き吊った痙攣を続けている。この数日間で何度目か。穴が空きそうだ。
しかし、そんなジョージを余所に馬車を走らせるディアーダは相変わらず冷静そのもの。自分に非があるとは、これっぽっちも考えていないのだろう。
一方、イリューンはといえば、流れる馬車からの景色に目を這わせ、鼻歌交じりの観光気分だ。この男にとって、悩みなどという言葉は無縁なのかもしれない。
ジョージの胃がまたシクリと痛んだ。多少の吐き気も混じっていた。
夕暮れ時の太陽が顔を赤く染めていく。ふと、先導を勤めるディアーダが鞭を振るいつつ言った。
「もうそろそろクラヴィッツの港町です。ド・ゴールまであと半分といった処ですか。」
ジョージはそれに「あぁ」と溜息を繰り返すだけだった。
大通りへと馬車を走らせると、既に人通りもまばらで活気がない。
町を行き交う人々は、その多くが老人で施設も老朽化が目立っている。言うなれば死んだ町だった。
「…おいおい、ジョージの面ほどじゃねぇが…湿気た町だな、こいつはよ。」
イリューンが皮肉たっぷりに呟く。しかし、ジョージは返す気力もない。
町の南西にあたる門前に馬屋があった。そこに馬車を繋ぎ止めると、三人は大通りを宿を探して歩き始めた。
気力はなくても腹は空く。痛むジョージの胃が、キュルル、と小さな音を立てて鳴った。
「とりあえず…今日の宿を探そう。食料の調達もしなきゃいけないしな…」
気落ちしながらも、そう呟くとジョージは町の様子に目を這わす。
ふと、この静かな町の中、やけに多くの人影が集まっている場所があるのにジョージは気が付いた。何やらその一角だけが騒がしい。数人の老人、それにごろつきと思わしき男達が何かを見上げつつ口々に言葉を交わしている。
「…だよな、まったく迷惑…きっとあやつらも…」
「ほんに、困ったことじゃて…あの件もあるというに…」
「見かけたらとっちめるしか…」
気がかりになり、遠巻きからそっと騒ぎの原因を探ろうと、ジョージは人の輪に加わった。刺激しないよう、後ろから背を伸ばし、人々が何を見ているのかを探ってみる。
それを見た瞬間、ジョージの顔は冷凍ミカンのように凍り付いた。
この者、ルミディアの一年市を恐怖に陥れた張本人。
体格巨躯にして銀髪、長大なる槍を掲げ、凶暴無比。
女子に見まがう金髪、背は低く、理力を扱う者。
風体、華奢に見え、疲れた様子を見せる騎士。
そこには、三人の人相描きが貼られていた。ご丁寧な事に、人相描きの下には、懸賞金までもが賭けられている。
三人合わせて十五万ギルス。一般的な騎士の半月分に当たる金額だった。
くら、と立ち眩みがした。片足が折れてしまったかのように力が抜け、あからさまにがっくりと右の肩が落ちた。
お尋ね者である。ここでいうお尋ね者とは、決して尋ね人などということではない。言うまでもないが、狙われる立場になった、ということだ。
懸賞金制度。それは、理力写真での指名手配が出来ない場合や、犯人不明の場合に行われる、いわば有志による犯人捜索制度である。
勿論、ギルドの連絡網が整っている都市部においては、この制度が幅を利かせるような事態は殆どない。しかし、残念なことに、この世界ではギルドによる統治が行き届いていない場所も多く存在し、そういった地域では未だに似顔絵や証言による犯人捜索が一般的なのだ。
凶悪犯罪が多発する未開地域ほど、この制度を使用する頻度は高い。しかし、それ故に冤罪も多いのがこの制度の欠点である。何しろ、人の証言だけが全てであり、生死を問わず、人相さえ判別できるならば賞金がもたらされるのだ。それ故、懸賞金目当ての賞金稼ぎという職業までもが台頭する、ある意味での無法地帯が出来上がるのは当然の事だった。
しかし、この惨憺たる地方の状態をギルドは半ば黙認している。いや、黙認せざるを得なかった、というべきであろうか。
地方にまで理力写真を使いこなせる人員・装置を完備するには莫大な資産が必要である。しかし、ギルドは基本的に都市部の治安を守ることが最優先項目であり、それ以外の業務については片手間に過ぎない。よって、大多数の善良なる市民を守る為、あえて冤罪もやむなし、といった空気が上でも下でも流れていたのだった。
ギルドもまた、万能の存在ではないという良い一例である。
「……あ、ぅ、ぁ、……」
金魚のように口をパクパクさせながら、立て看板を凝視するジョージ。
看板に掲載される。即ち、それは寝込みを襲われようと、酒に酔っている所を襲われようと、いきなり宿を出たところを後ろから斬りつけられても全て容認という事なのだ。
四面楚歌どころの騒ぎではない。ジョージの目前は真っ暗、お先も未来も闇の中だ。
ふと、ジョージの様子に首を傾げたイリューンが、ぐい、とジョージの肩に手を掛けた。
そして、おもむろにジョージを後ろに引き、更に眼前の人混みを掻き分けながらずずい、と立て看板の前まで歩を進めていく。
ふ〜む、と顎に手をやりながら、イリューンは人相描きをしげしげと見つめた。そして、
「似ってねぇ〜な! ここをこうやったら、もう少し似るんじゃねぇか?」
いきなり、泥をべったりと指につけると、人相描きを修正し始めた。
ジョージは真っ青になった。一も二もなくイリューンの手を引っ掴むと、呆気にとられる町人達の輪から猛ダッシュで裏路地に逃げ込んだ。
「お…、おい、ジョージ。どうしたってんだよ?」
「ば…っ! おぉい!? 似せてどぅするよぉっ! えぇっ!?」
「いや、あんだけ下手くそだとよ、やっぱ気分わりぃだろ?」
「誰が好きでこんなqうぇrちゅいおp@ッ! うぅぅ…も、もう駄目だ…うぅ…」
ジョージはしゃがみ込み、目頭を押さえた。涙が出てきた。
以前にも説明をしたように、ギルドは懸賞金制度に登録された犯罪者の情報を持ち合わせているが、それをもって逮捕や刑の執行を行うわけではない。
都市部では、自治体によって逮捕・拘束を行った上で、冤罪を押さえる為に必ず理力による記憶検証を行う。記憶検証とは、ダイバーと呼ばれるギルドの執行官が、近い過去についての記憶を犯人自身の精神に潜る事によって検証し、その結果によって正当防衛、あるいは過失などを判断するというものだ。
ちなみに、証言者の記憶には潜らない。何故なら、証言者は見た物を幻影か魔物か人間なのか判別できないからである。犯罪人の中には、理力で姿を変える者もいるからだ。
尚、数十年単位での遠い過去については記憶検証が出来ない。記憶は、深くなればなるほど潜ることも難しくなり、遠い過去に潜った場合、ダイバーの命の保証が無いからである。その場合は、現代の裁判のような形で、ギルド長マナ・ライが判決を出す事になっている。
ジョージの場合、都市部で記憶検証を行えば恐らくは無罪放免だろう。しかし、ここは地方である。いきなり後ろから斬り付けられたとしても文句は言えないのだ。
絶望、という言葉はこういう時こそ使うべきなのだろうか。
項垂れたまま、ジョージはしばらく立ち上がることさえ出来なかった。しばらくイリューンは黙ったままだったが、困った顔で一言。
「おいおい、泣くなよ。悪かったよ。今度はもっとカッコよく描いてやるからよ。」
と、相変わらず全く話が噛み合わない。
後ろから様子を見ていたディアーダは遠い眼をすると、
「まぁ…やってしまったものは仕方がないですね。」
と、俺には関係がない、と言わんばかり。
「誰のせいだぁぁぁぁぁっっっ!」
泣き怒り状態でジョージは大声を挙げるしかなかった。
数分後。
さしものジョージも精神的ダメージは酷かった。しかし、路地裏で泣き叫んだところでやってくるのは賞金稼ぎが関の山である。
実は懸賞金制度には穴が多い。前述もした通り、ギルドは都市部の治安維持が精一杯であり、自治体によって逮捕出来なかった賞金首について、いつまでも追っているわけではない。
懸賞金制度の登録について、ある程度の期間はデータを残しているが、その期間を越えてしまえばそれらは全て削除されてしまうのだ。都市部で起こる犯罪人の登録の為に、地方で起きている事件についてはおざなりになっているのである。
つまり裏を返すならば、数週間。あるいは数ヶ月。ひたすらに逃げ続けられれば、この問題は万事解決する。勿論、それまで生き残れるならば、という注釈付きではあるものの。
しかし、そんな小さな希望であっても、今のジョージにはすがるしかなかった。例え沈むと解っていても、藁をも掴むしかないのだ。
――結局沈むよ、などとは口が裂けても言えない。
ふらふらとした足取りではあったものの、どうにかジョージは町の離れにあった小さな民宿にチェックインした。幸いにして、宿の女将はジョージ達の顔を見て人相描きの賞金首だとは気付かなかったようだ。
小さなダブルの一室。ディアーダは早々に瞑想に耽っている。こうなったらディアーダは一切口を開こうとはしない。今までの旅路でもそれは同様、特に話すこともないので、それはそれでジョージにとっては最高に好都合だった。
イリューンはというと、宿の夕飯を平らげるや否や、その場でゴロン、と横になっている。こっちも一度この状態になったら梃子でも動かない。
ふぅ、と今日何度目かの溜息をもう一度つき、ジョージは遂に意を決した。
『…逃げるしかない…!』
このまま、この二人と一緒に行動していては間違いなく狙われる。自分一人ならば、何も知らないどこぞの領主に事情を話すことで匿ってもらえるかもしれない。
魔剣の報酬は無くなってしまうが、そんなものは二の次だ。死んでしまっては元も子もない。とにかく、今は一刻も早くこの二人から距離を取ることが先決だった。
そっと部屋の扉に手を掛ける。軋む音を立てながらドアが開く。廊下に足を踏み出した。
「…ん〜…ジョージ、どうした。」
寝ぼけ眼を擦りつつ、イリューンが起きた。まさか、気が付いた!?
「い、いや、…夜風に当たろうかな、と。」
ジョージは心の中で連呼する。
(寝てろ、寝てろ、寝てろ、寝てろぉぉぉ)
「…そうか。よし、景気づけに酒でも一杯やるか!」
「…へ!?」
いつになく。いつもなら、絶対言わないであろう台詞。それなのに! 突然イリューンがそんな事を言いだしたのだ。
(ま…まさか、イリューンなりの優しさなのか? …こ、こんな時に! こんな時にいつも出さない優しさなんか出さなくてもいいのに! お、おいおい、マジかよ…おい! 神様、俺が何か悪いことでもしましたか!? えぇ!?)
「い、いや、いいって! いいって! すぐ寝るんだし! なぁ?」
「遠慮するなって! 元気を出すなら酒が一番だ。な?」
豪快な笑みを浮かべながらイリューンが迫る。
ジョージの灰色の脳味噌がフル回転する。
『狙われているから駄目だ→俺が倒す。』
『俺が後ろから斬られるかも→大丈夫だろ、そんなの。』
駄目だ、どう足掻いても断れない。
結局、ジョージはイリューンの後に続く形で宿を出るしかなかった。やたら背後に視線を感じるようで全くもって落ち着かない。明らかに選択ミスだった。
がっくりと肩を落とし、頭を垂れ、夜道を歩く。
酒場は宿の二件隣。古びた作りの掘っ建て小屋に、ぼんやりとした明かりが酒瓶の形を作っていた。
ぎキィィィ〜……!
気が進まないジョージの気持ちを代弁するかの如く、うらぶれた酒場のドアは金具の壊れたようなへたった音を立てた。
同時に、バーカウンターの後ろで酒瓶を片手に飲んだくれていた親父が「…ん?」と顔を上げる。
構わず、ズカズカと立ち入り、カウンター前の席に有無を言わさずどっか、と座ると、
「おぃ、オヤジ! 酒だ! 酒!」
そうイリューンは机をバン、と叩きながら息巻いた。
二秒ほどの沈黙。オヤジはプイ、と顔を逸らすと、
「…酒なら無いよ。」
コンマ二秒でイリューンがオヤジの胸ぐらを掴みあげる。
「おい…オヤジ、死にてぇのか?」
「イ…イリューンっ!」
いきなり一触即発、瞬間湯沸かしも甚だしい。だから嫌だったというのに。
しかし、オヤジはそれにも動じようとしなかった。どこか遠い眼をしつつ、一言。
「ふん…こんな町で生きていても面白くも何ともないさ…。どうせ殺すなら金を払ってお願いしたいぐらいだよ。」
しょぼくれた顔を崩さず、疲れたとばかりに溜息をついた。諦めの境地なのか、悟りきっているのか。その理由はジョージには解らなかったが、イリューンは拍子抜けした顔をし、
「はっ…オヤジ、いい度胸だな。気に入ったぜ。酒だ、酒! ねぇってことはあんめぇ? なぁ? 倉庫からでも引っ張り出してきやがれ!」
また酒、酒、と五月蠅く騒ぎ出した。何か出さねば引っ込みがつかない様子だった。
「…バーボンでよければ、出してやるよ。」
根負けしたのか。あるいは、五月蠅い客を早く追い出したいのか。オヤジはカウンターの下から埃まみれの瓶を2本取り出す。その埃の量からも、商売をする気がないのは明白だった。
勿論、イリューンはそんな事には目もくれていない。酒が出てきた、というだけで上機嫌に早変わりだ。
グラスを1つ。瓶を開け、グラスに数センチほど注ぐ。言うまでもないがこれはジョージの分である。イリューンはラッパ飲みを敢行だ。
どうにもバツが悪かったジョージだが、何もしないわけにもいかない。チビチビとグラスを傾けながら早くこの居心地の悪い空間から脱出したいと願い続けるばかりだった。
…願い事は、叶わない事が多いというのに。
ぎキィィィ〜……!
再び、ドアがヘタった音を立てて開いた。視線の端に男のシルエットが映り込む。
男はカウンターを見やるや、突然、甲高い声をあげた。
「イリューン? やァだ、イリューンじゃない!」
聞き覚えのある独特のアクセント。カマっぽいおねぇ言葉。
「なんだ、俺の名前を…、……っ!?」
振り返り、イリューンは凍り付いた。
一度見たならば二度とは忘れないその姿。白い歯、黒い肉体、そして角刈りと三拍子揃ったある意味完璧なマッチョマン。二度と会いたくないと思っていたが出会いは突然やってくる。そう、ガルガライズの船乗り――アドンだった。
息を呑みながらイリューンは声にならない声で返事をする。
「……ぉ、おぉう、ぁ、アドン…ひ、ひさしぶりだなぁ…!」
「そぅね、久しぶり。あなたとの腕相撲は忘れたことはなかったわ、ウフ。」
空気が微妙にゆらぐ。端から見れば、二人とも白目で顔面蒼白。オヤジは何も見ていないフリ。ジョージが願ってからたった数秒の事、居心地の悪い空間は以前を遙かに凌駕しようとしていた。
口元をヒクつかせながら、イリューンは聞く。
「…と、ところでどうしておめぇ、こんな所にいるんだ? エレミアとガルガライズの間を行き来しているのがなんでまた…?」
「そぅよ、それなのよ!」
待ってました、と言わんばかりにアドンはイリューンに詰め寄る。隣の席に強引に座り込むと必要以上に体を密着させながら、
「実はね、このすぐ近くでルミディアの市が開かれてたんだけど、何者かに放火されちゃったんですって! それで物資が入ってこなくなっちゃったってワケ! まったく、迷惑な話よねぇ?」
迷惑なのはこっちだ、とイリューンが眼で訴えかける。ごもっともだ。
アドンは続ける。
「ルミディアの市のおかげで物資が陸路で入るから、いつもは動く必要が無いんだけど、おかげでアタシ達が動かないといけないって状況なのよ! もぉう、最っ低!」
一息に捲し立てると、アドンはイリューンの持っていた酒瓶を無理矢理もぎ取り、同じくラッパ飲みを敢行。数秒で飲み干すと、ふぅ、と溜息をついてみせた。
勢いに押されっぱなしのジョージだったが、ようやくそこで一言。
「…た、大変…です…ね。」
申し訳なさそうにそう呟く。犯人がバレたら殺されかねない。いや、別の意味で体が危険でデンジャラスでエマージェンシーだ。
「…イリューン、ひょっとして、あなた、何か隠してたりしない?」
ブンブンと首を振る。ジョージもそれにつられて振る。言うまでもなく怪しさ大爆発だ。
しかし、訝かむ様子だけ見せるとアドンは腰を上げ、
「そぉう…? まぁ、いいわ。アタシはこれからまた出航よ。あんまり夜間に船は出したくないんだけど…とにかくてんてこ舞いなのよね。それじゃまた、ど・こ・か・でね。ウフ」
パチリ、と魔眼ではなかろうかと思われるような目でウィンクし、そのまま振り返りもせず酒場のドアを開けて出ていった。
嵐は去った。パリパリと音を立て、緊張が一気に溶けていった。
(よかった…俺の貞操は守られた…)
イリューンもまた安心したのか、大きく息を吐き、
「…ぷはぁぁぁ……こ、こわかったぁぁぁ……苦手なんだよ、アイツはよぉォォ……」
そんな泣き言を繰りだした。いつもの勇猛果敢さからは想像も出来ない情けない顔に、気がつけばジョージはその顔を綻ばせていた。
「へぇ…お前にも苦手ってモンがあったんだな…」
「どういう意味だよ!」
むっとした顔で迫るイリューン。失言だったか。言い訳がましくもジョージは続けた。
「い、いや、別に…ただ、お前ってばいつも怖い物なしじゃないか。ホントに闘いが好きなんだろうなぁ、って。俺にもお前ぐらいの度胸と力があれば、少しは違うんだろうけど。」
イリューンの事だ。きっとそれにも悪態をついて怒るに違いない。ジョージは半ばイリューンの反応を想像しながら、ちび、とバーボンに口をつけた。
緩やかな時間。酒場のオヤジは静かにグラスを拭き続けている。
少しの後、返ってきたのは意外な返事だった。
「おい、勘違いしてんなよ、ジョージ。…俺にだって苦手なモンぐらいあるし、世の中は怖いモンだらけさ。」
ジョージは目を丸くした。いつになく真面目な顔でイリューンは言った。
「…けどよ、そんな臆病な自分に負けちまったら、あとはただ飲み込まれていくだけだろう? そんな奴らに負けちまったら悔しいじゃねぇか。…死んだら何も出来ねぇ。死ぬのは怖ぇ。でもよ、恐れて死んじまったり、恐れて大事なモンを盗られちまったらまるでバカみたいじゃねぇか。…俺は負けるにはいかねぇんだ。いいか、負けたら負けなんだよ!」
「………」
ぽかん、と口を開け、ジョージはグラスを手にしたまま静止っていた。想像を遙かに超えた答えだった。正直、最後の一節は意味が分からなかったが、何故だかイリューンの言いたいことが理解できるような気がしたのだ。
何故、イリューンはそんな事を口にしたのだろう。それは誰にも解らない。
今でもこの場から逃げ出したい。一刻も早く、諸悪の根元の側から離れたい。
しかし、それでもジョージは今。もう少しだけイリューンを見ていたいと思った。それが酒に酔ったせいではないと知るのは、まだまだ先の話ではあったのだけれども。