第四章 二幕 『不可抗力』
「――お、どうやら止んだみたいだぜ?」
寝ぼけ眼を擦りながら、徐々に明るさを増す空を見上げ、イリューンはいつも道りの呑気な声でそう切り出した。
結局、一行は一夜を祠の中で過ごした。そして翌朝、三人は入り口のすぐ前で天気の具合を伺いながら、それぞれの時間を過ごしていた。
昨夜から、ジョージは悩み続けていた。
あの邪教の一団について、ギルドに報告すべきか否か。
しかし、主立った人間は殆どイリューンが斬り殺してしまっている。しかも、悪魔に変身した者の死体は消滅してしまい、一体として残っていない。下手をすれば、墓荒らしとして此方が訴えられかねない状況である。
やはり、ここは黙ってこの場を去るしかないだろう。そう考え直し、ジョージは外の情景に目を這わせた。
朝靄が掛かる中、鳥の囀りが響き渡っている。木々の間から射す木漏れ日が、嫌が応にも爽やかさを強調して止まない。
が、相変わらずジョージの気分は重かった。この先も、様々な困難が待っているのだろうと、不安を感じずにはいられなかった。
「なんだなんだ? 随分と湿気た顔してやがんな? もっと景気良く行こうぜ?」
「…お前はいつも元気で羨ましいよ。…まったく。」
もはや、怒る気力も無い。世界はこんなにも輝いているのに、どうして自分の上からは雨雲が取れないのかとジョージは真剣に思った。
(…いや、待て。我慢だ。我慢、我慢。…このまま武闘会を終えさえすればどうにかなる筈だ。確かに性格には問題あるが、イリューンの強さは折り紙付きだ。きっと、魔剣を手に入れてくれるに違いない。…後は、巧く口車に乗せて…)
様々な思惑が浮かんでは消えていく。今や、それは目的と言うよりは、苦難を乗り切る為の手段と化していた。
「…で、これからどうするんです?」
後ろから、努めて冷静な口調でディアーダが言った。ジョージは自らの頭を人指し指でコツコツと叩きながら、
「…とりあえず、森を抜けよう。方角は間違っていないから、そのまま進めばどうにかド・ゴールには向かえる筈だし…」
「ま、しょうがねぇよな。歩く以外に方法がねぇんだからよ。…誰かさんのせいでな。」
突然、イリューンが口を挟んできた。眉を顰め、ジョージはそれに冷たく答えた。
「…誰だよ?」
「何言ってるんだ? …ジョージ、おめぇだよ。」
「何で俺が!」
「…おめぇが金出せば、全てが万事巧くいったんじゃねぇのか?」
「だ、だ、だ、誰の為に俺がぁ…っ!」
一瞬で、頭の上で湯が沸くかと思った。しかし、そこでストッパーが掛かった。まるでオウム鳩のように、抑揚のない単語が脳裏で延々と繰り返された。
(…我慢、我慢、我慢、我慢、我慢、我慢、我慢…!)
「……ま、た、確かに……金が無いのは……わ、悪かったよな。」
心の中で叫びまくった。思い付く限りの罵倒を、目の前に立つ木偶の坊に向かって浴びせ掛けまくった。が、それも全て解っているとでも言いたげに、
「――なんだ、本気にすんなよな? ジョークだよ、ジョーク。――はぁっはっは!」
イリューンは底意地の悪い笑みを浮かべながら、高々と嗤った。
本気で切れそうになった。
視界の隅から刺すような視線に気が付き、ジョージはその方向をキッ、と睨み付けた。
ディアーダが相変わらず「どうでもいい」といった顔をして此方を見つめている。
そのすました顔が余計に気に障ったが、敢えてそれに触れることなく、我先にとジョージは立ち上がるや森の中へと一歩を踏み出した。
とりあえず、イリューンとは距離を置きたかった。同様に、ディアーダとも深く付き合わないようにしようと思った。
それが心の平安を保つ最善の策だと、ジョージは今更ながら気付き始めていた。
朝露に濡れた森の中を歩き続け、やがて三人の目の前には、遠く拡がる広大な地平線が現れた。
早朝の澄んだ空気が漂っていた。恐らくは今日もいい天気になるであろうと、風が頬を撫でて通り過ぎていった。
「お? お? お? なんだ、ありゃ?」
イリューンが遠くを指さして素っ頓狂な声をあげる。額の上に手をかざし、ジョージはその方向に向かって目を凝らした。
確かに何かがある。町にしては規模が小さいし、村にしても見窄らしい。
「市ですね。――時期からして、恐らくはルミディアの一年市ですよ。」
ディアーダが嘯いた。
「ほぉう、そりゃぁいい。じゃぁ、この状況をどうにか出来そうじゃねぇか。ちょうど腹も減ってきたところだしよ。」
ニカッと歯を出して笑い、イリューンはそう言ってジョージの肩をバン、と叩く。
確かに、市ならば食材に事欠くことはないだろう。しかし……
「その金は誰がもつんだよ……?」
「あ? 決まってんじゃねぇか、騎士様よぅ?」
「………」
訊いた自分が馬鹿だった、とジョージは思った。すると、意外なところから意外な一言が飛び出した。
「私が遠征費として幾らか預かっています。そこから出しましょう。」
ディアーダが冷静に呟いた。
「おおおっっっ!」
思わず声に出して驚いた。案外、いいヤツじゃないか。そうジョージは心の隅で呟いた。
が、同時に、一つ疑問に思ったこともあった。
「…ちょっと待て。じゃ、どうして最初っからそう言わなかったんだ? その金があれば、馬車に乗るなり…」
「遠征費ですから。無駄には出来ません。最低限の食費だけとお考え下さい。」
性格とは裏腹にしっかり者だった。ボンボンとして生活していた自分に比べ、生活感のある男なんだな、とジョージはディアーダを少しは見直した。
「まぁ、とりあえずは行ってから考えようぜ? な?」
イリューンの言葉を聞きながら、二人は市の小さな門をゆっくりとくぐった。
所々で、市特有の活気が渦巻いている。野菜を売る者、遠征してきたのか、魚の乾物を店先に並べる者。馬屋に、雑貨屋まである。そして、そのどの軒下にも多くの人々が集い、賑やかな様相を創り上げていた。
「ほぉう? …なかなかに活気づいてるじゃねぇか、なぁ?」
漁師町育ちのイリューンにとって、野市はかなり珍しいらしく、まるで田舎者のようにあたりをキョロキョロと落ち着きなく見回している。ディアーダはその後ろについて、食材の一つ一つの品定めをしているようだった。
歩きながらジョージは感心し、溜息をついた。いわゆる庶民の生活に密接に関わるのは初めてのことだった。
「しかし…なんというか…こういう世界もあるんだよなぁ…」
ポツリと呟いたジョージに一言、
「何言ってるんだ、ジョージ? おめぇんとこの城に並ぶメシだって、こういうとこから仕入れられてるんだぜ?」
イリューンがそう突っ込みを入れた。それを聞き、思わずジョージはかつての自分の生活を鑑みてしまった。
(考えてみれば…俺は、何だったんだろう…? こうして、庶民生活の上に立っていたっていうのに…何もしてこなかったっていうのか…?)
思い起こすに、食事が出ることは当然だと考えていた。いつでも城には調理師がおり、朝、昼、晩と食材を提供してくれていた。
しかし――今、自分達には何もない。衣食住、全てを一人でこなさなければならない。それが、いかに大変な事なのかを、ジョージは今更ながらに思い知ったのだった。
市のざわめきを後目にジョージは空を見上げた。青い空の下、無力感を知りつつも、何故だかとても爽やかな気分だった。
「…そうだよな。…生活するってのは…大変なんだよな…、イリュ……――ッ?」
はっと気が付くや、イリューンの姿が見えない。一緒にいたはずのディアーダの姿も完全に消えている。
何処へ行ったのか。その辺りの店先で寄り道でもしてるのだろうか。
やれやれだな。そう首を二度三度横に振った後、ジョージは大変な事に気がついた。
大通りに歩み出たジョージの目前に、水平線が覗いていた。
――そう。この市は世界規模だったのである。
ルミディア地方で行われる一年市は、その名の示すとおり、一年に一度だけ世界各地から持ち寄られた各種名産品のおかげで賑わうこの地ならではの行商場である。すなわち、その広さも半端ではない。
元来は、帝都ド・ゴール領領主であるサムタンが、領地内での経済生活を活発化させる為に始めたのが切っ掛けであったが、昨今のラキシア、コーラス両国の諍いが激化の一途を辿ると、貿易の手段は海路のみに限られ、その為にこの市の規模もまた年々巨大化するという結果を生んでいた。
小さな城塞都市に匹敵する程の市で、二人の人間とはぐれ、再び出会える可能性は果たしてどのぐらいのものなのだろうか?
もちろん、市の期間が終われば周辺の家屋は撤去され、ただの平原に戻るだろう。しかし、当然の事ながらそれを待っているほどの時間などあるわけもない。
――とんでもないことになった。
焦った。冷や汗がどっと沸いてきた。何しろ、当面の全てをあの二人が握っていると言っても過言ではないのである。
踵を返し、大慌てで市の大通りを逆送した。片っ端から店先を覗いては走った。
数件目。ついに、ジョージはそこにイリューンの姿を発見した。しかし、ディアーダの姿はそこにはなかった。
息を切らせてジョージは走り寄ると、
「おい、何してるんだイリューン!」
そう声を荒げた。振り返り、そこに立つジョージに気が付くと、イリューンは言った。
「お、ジョージ。いいとこに来たな。なぁ、これ、面白いと思わねぇか?」
手には小さな木彫りの騎士の人形。振り回すと、カタカタと奇妙な音を出し、手に持つ剣を振る。それは、エレミア地方では有名なおもちゃだった。
何度もそれを振り回し、おもちゃが剣を振る度に目を輝かせ、イリューンはまるで子供のように夢中になって笑った。
――不思議な光景だった。デーモン相手に大立ち回りを演じ、修羅の如く大暴れをした男が、今はあまりにも無邪気に遊んでいる。
空気がそこだけ弛緩しているような、そんな緩やかな時間が流れていた。
今の今まで荒々しい吐息だったジョージも落ち着きを取り戻し、イリューンの隣に寄り添った。
少年の頃の記憶――ジョージにも確かにあったその時間。それがゆっくりと思い出されてきた。
「――なにをしている! もっと早く剣を突き出さんか!」
厳つい獅子のような顔をした父――アレクス・フラットの叱咤が響き渡る。
泣き出しそうな顔の少年――幼き頃のジョージは、仁王の如く立ちはだかる父を恐怖と嫌悪、そして涙の入り交じった目で見上げていた。
ジョージには母がいなかった。物心付く頃には既に病死しており、優しい母の面影という物がその心には存在しなかった。
代わりに、男手一つで父はジョージの事を鍛え上げた。それは、朝から晩まで続く地獄の特訓――騎士団長の子として生まれたジョージに対して、当たり前のように行われる過酷な仕打ちであった。
事あるごとに父は同じ言葉を口にした。
「よいか、騎士になるということは生半可な事ではないのだ。ジョージ。お前は我が第一子。いずれはコーラス騎士団を率いて王国を守らねばならんのだぞ。」
幼いジョージが嗚咽を漏らす。やがて、涙声でジョージは言った。
「…父さん…わからない…わからないよっ…! なんで僕でなくちゃだめなの? 嫌だよ、痛いもの…戦いたくなんてないよ…っ!」
父は何も答えなかった。ただ、何かを憂えたような目で、じっとこちらを見つめていた。
訓練が終わり、部屋に戻ったジョージは伏し目がちにベッドに腰掛けた。くたくただった。涙が目の縁に貯まったまま、ただ自分の立たされた境遇を呪った。
ふと首を動かすと、机の上に置いてある物が目に付いた。
――小さな、木彫りの騎士の人形。
それは、父からの誕生日のプレゼント。しかし、幼いジョージにとって、それは重すぎる期待を、そのまま形にした物にしか思えなかった。
ジョージは唇を噛みしめた。涙目のまま、その人形を掴み、勢いよく放り投げた。
人形は放物線を描き、石造りの冷たい壁に当たった。と、カタカタと音を立て、そのままピクリとも動かなくなった――
あれから何年が経っただろう。いつの頃からか、父に逆らうこともしなくなった。ただ流れに逆らわず、成り行きに任せて生活していけばいいと考えている自分がいた。
(…そして、その結果が今のこの様か…ははっ…)
思わず、ジョージは自嘲した。情けなくて、悔しくて、口惜しかった。
空を見上げた。
そこに答えが有る訳もなかったが、何故あの時、父は何も言わなかったのか…そんな事を考えつつ、ただ流れる雲を目で追い続けていた。
物思いに耽るジョージを、イリューンが不思議そうに見つめ、訊いた。
「おいおい、どうした? また湿気た面になってやがるぜ? 運が逃げちまうぞ、そんな面じゃぁな。」
そういうとイリューンは大口を開け、がははと豪快に笑った。気恥ずかしくなり、ジョージは目を反らすとそのままの格好で返した。
「そ、そういや…ディアーダはどうしたんだ? 姿が見えないみたいだが…?」
「――ん? ああ、アイツなら、なんか馬屋で交渉するとか言ってたな。ひょっとしたら馬車に安く乗れるかもしれねぇとか言ってよ。」
何故だか、イヤな予感がまたジョージの背筋を通り過ぎていく。
刹那。
「火事だァァァ――――――ッッ!」
絶叫。
予感は大的中だ。
二人は大慌てで道の中央まで駆け出すと、声のした方角の空を見上げ、目を見開いた。
巨大な炎があがっていた。赤い、まるで大蛇のような、凄まじい火の渦が市の中央から此方に向かってうねりをあげていた。
黒い煙があたりを一瞬にして包み込み始める。しかも、悪いことに追い風まで吹いてきた。風に巻かれ、炎は更に勢いを強くし、辺りの仮設店舗一体を飲み込みながら、徐々にこちらに向かって迫ってくる。
「な……ななな、ななななんなんだぁぁぁぁぁっ!?」
「…お、おい、やべぇぞ、ジョージッ! 早ぇとこ、ここから離れねぇとッ!」
イリューンが叫ぶ。乱暴にその手を引っ掴まれ、ジョージは足下定まらぬまま、たたらを踏みつつ通りをひたすらに走らされた。
が、火の手は予想以上に周りが早い。藁葺き屋根だらけの市場では、燃え広がるのにそうそう時間は掛からない。
逃げ惑う人々の絶叫、怒号、悲鳴。辺りはまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
煙が鼻につき、ジョージは勢いよく咳き込んだ。焼け付く熱気が目に染み、涙が出て止まらなかった。
あばら屋の倒壊する凄まじい轟音。厩から逃げ出したのか、蹄の音が数多く響き渡り、人々を踏み潰すのもお構いなしに通りを馬が疾走し始める。
逃げ遅れたジョージ、イリューンを大蛇の如く、炎が徐々に追い詰めていく。熱気は頬に照り付け、額からは玉のような汗が噴き出し始めていた。
「くそっ…火の手に囲まれちまったぞ…ッ! どうしやがるか…!?」
舌打ちをし、イリューンはそう悪態を吐いた。絶体絶命の状況に、ジョージは言葉も出せなかった。
(これは夢だよな…うん、そうだ、そうに違いない…って、あちぃぃぃっ! …く、くっそぉぉぉ…どうしていっつも俺ばっかりがこんな目に…っ!)
泣きたくもなるが、その涙も出てこない。呆然と火の手を見つめ、ジョージはその場にヘナヘナとへたり込んでしまった。
その時だった。最も厚く火の手が上がっている場所から、馬の蹄の音が近づいてきた。聞き覚えのある声がジョージの耳に届いた。
「――乗ってください! すぐにこの場から脱出します!」
突如、荒々しい馬の嘶きと共に、炎を掻き分け、中から一台の馬車が姿を現した。
従者席にはディアーダの姿。
引き馬を巧みに操ると、ディアーダは目の前で幌のついた荷台をターンさせた。その期を逃さず、イリューンはギラリと目を光らせた。へたり込んだままのジョージの首根っこを掴み、力任せに放り投げた。
「――ど…どわぁぁぁっっ!!」
何が起きたのか理解する間もなく、ジョージの体が宙を舞う。そして、見事に幌の中へとストライク。
ジョージを乗せた事を確認した後、イリューンもまた、すかさず馬車に飛び移った。否や、ムチが打ち鳴らされた。激しく蹄の音を響かせると、馬車は再び炎の中へと駆け出す。周囲に炎のトンネルを作り上げながら、やがて三人は燃え上がる市を脱出する事に成功した。
頬に当たる風が、先程までとは打って変わって肌寒かった。
遠くに、かつて市であった物の残骸が、黒い煙を上げ続けているのが見える。それをホロの中から遠く望みながら、ジョージはディアーダに礼を述べた。
「…助かったよディアーダ。…あの時、来てくれなかったら…」
九死に一生を得た安堵感からか、照れ臭くもあったが、それでもジョージは素直に頭を下げた。今までお世辞にも良くは思ってなかった人間だったが、ジョージの心中でディアーダに対する印象が変わる瞬間だった。
――ディアーダの、その次の言葉を聞くまでは。
「…いえ。礼には及びません。あの馬屋の主人ときたら、あまりにも融通が聞かなかったものですから。お二人は丁度目に留まったものですから、お拾いしただけです。」
時が止まる。凍り付いた空気の中、ジョージとイリューンが重い口を開く。
「……おぃ、ちょっとまて……!?」
「――お、おまえ…、なにしたぁぁぁッッ!?」
眉をひそめ呟くイリューン。顔を引き吊らせ叫ぶジョージ。馬車を走らせながら、ディアーダは当然のように一言。
「いえ、ちょっとばかり炎霊召還の呪文を馬屋に。少し脅かすだけのつもりだったんですけどね。上手く手加減が出来なかったようで。…残念なことです。」
二人は顔を見合わせる。すぐさま、同時に後ろを振り返る。黒煙は更に激しく巻き上がる。
ジョージの頭の中で、ザザザ、と血の気が退く音が音量を増していった。次の瞬間、ジョージはそのままの体勢で後ろにひっくり返っていた。