第三章 三幕 『異空間』
しばしの間が空き、沈黙が辺りを支配する。
何故か、ピリピリとした空気が部屋中に立ちこめていた。それを打ち破ったのは、やはりそういった事に最も鈍感そうなこの男だった。
「フン…ディアーダとやら、何で旅に出てぇなんて言い出したんだ?」
自信満々に鼻を鳴らしながら、ハルバードで自らの肩口を叩きつつ近づくと、イリューンはまるで威圧するかのように、ディアーダを上から見下ろしつつ訊く。しかし、彼はそれに全く臆そうとせず、真っ向からイリューンの顔を見つめ返すと言った。
「……諸国を見て回る良い機会だと思ったからです。」
「ほぉう…? …まぁ、いいさ。せいぜい、はぐれねぇようについてくるこったな。」
視線が絡み合い、一瞬だったが火花が散る。しかし、それだけだった。言葉少なに答えるディアーダに、これ以上話す事もない、といった風にさっさと背を向けると、イリューンは様子を伺うばかりのマナ・ライに向かって大股で歩み寄った。
「…話は終わったぜ、ジジィ。わかったから、さっさと手続きを終わらせてくんな。」
「助かるの、イリューン。感謝するぞ。」
顎髭をさすりながら、マナ・ライは満足げに微笑んだ。そして、ふと気がついたように、部屋の端に佇むジョージに目を向けると、訝しげに眉を顰めた。
「…それはそうと、はて、そこの騎士様はどちら様になるのかの?」
「…あ、え、その…わ、私は…、その…」
肩書きを使わねば名乗れぬ自分が情けない。しかし、そうせねばならぬ事情もあり、結局ジョージは渋々と『それ』を口にするしかなかった。
「…あの、コーラス正騎士百人長――ジョージ・フラットと…申します。」
「ほほぅ、あのコーラスの…で、その騎士様が何故イリューンと?」
想像通り、痛い質問が続けて投げつけられる。まさか敵前逃亡したから、などと言える筈もない。これまでにも何度となく繰り返されてきた苦しみに唇の端を噛みながら、それでも本当の事は話せず、またもジョージは曖昧な答えを繰り返してしまった。
「その…ド・ゴールに向かう密命を受けまして…所謂、成り行き上の事でして…」
「どういった用件ですかな?」
「いや、その…密命で…」
「おお、そうでしたな。それでは言える筈もない。…ふむ。」
「…え、ええ。そ、そうなんです。それで、まぁ、道中共になるというから…」
「――成る程のぅ。…ま、要するに、訳有りという事じゃなぁ、のぅ?」
そこでギラリと、刃のような目がジョージを睨み付けた。それは老人とは思えぬ程に凄まじい、心臓を握り潰さんばかりの圧迫感を伴っていた。
(…ひょっとすると、とうの昔に俺の嘘は…バレているのかも…)
そうジョージが考えたのも無理はない。初めはただの老人にしか見えなかった存在が、今やその肩書きに違わぬ恐るべき気を放ち、眼前に立ちはだかっているのである。
ジョージにはマナ・ライの姿が、まるで数十メートルの巨人のようにさえ見えていた。
「…よぉ、ジジィ。早くしてくんねぇかな?」
イリューンが待ちくたびれたかのように、欠伸をしながら呟いたのはその直後だった。
それを受け、「仕方がない」とばかりに大きく溜息を吐くと、マナ・ライはジョージとの話を途中で切り上げ、今まで側に立ち尽くしていたフレイムに目で指示を出す。すぐにフレイムはその場で『気をつけ』の姿勢を取ると、掌を胸元で水平に構える仕草――魔術師ギルド内での敬礼をして見せた。
結果的に、ジョージはようやく胸を締め付けられるような息苦しさから解放された。この時ばかりは彼も、イリューンの図々しさに感謝をしたい気持ちになった。
「…イリューンよ、そう急かさんでも旅証は逃げんぞ? …まぁ、待たせる事に変わりはないから、偉そうには言えんのじゃが…暫し待っておれ。このフレイムが処理を済ませるまでの辛抱じゃからの。…フレイム、頼んだぞ。」
言われたフレイムが物凄い形相でイリューンを睨み付けたものの、そのまま何も言う事なく、彼はさも嫌そうな素振りを見せながら、暗い部屋の奥へと消えていく。
ドアの閉まる音だけが細く長く聞こえ、後、再び静寂が戻ってきた。
――不意に。
今まで感じられなかった別の人間の気配が、突然その場に現れた。血の臭いのような生臭さ、夏の昼下がりのような生暖かい風がそっと頬を撫でていく。続けてザワザワと、鳥肌の立つような感覚までもが、背筋を走り始める。
マナ・ライの視線が殺気の主を捉えるのに、然したる時間は掛からなかった。
「――何者じゃ?」
「…遂に見つけたぞ、イリューン…ッ!」
くぐもった声が理不尽なまでに反響した。同時に世界がぐにゃりと歪んだかと思うと、高所から落下するような浮遊感が全員の体を包み込む。
ぱぁっ、と眩いばかりの光が大きく広がった。そして次の瞬間、ジョージ、イリューン、ディアーダの三人は、見たこともない世界に立ち尽くしていた。
そこは、小さな部屋の中のようだった。しかし、外のようでもあった。水の壁のようなものが辺り一面を彩り、揺らぐ壁面の向こう側には二重、三重の螺旋階段が連なっている。
目の前には小さな扉。だが、とても先に出口があるとは思えない。
見上げれば、まるで曇りのような暗い空。所々に浮かぶグレーの雲は、それ自体が生き物であるかのように、風の流れに従ってユラユラと蠢いている。
明らかにこの世の物ではない、不可思議な場所へ転移させられたのは間違いない。
「……な、な、な……なんじゃこりゃぁぁッ!?」
「異次元…世界のようですね。」
狼狽えるジョージに対して、極めて冷静に状況を分析するディアーダ。そんな二人とは対照的に、イリューンはさも口惜しそうに歯軋りをしながら天を仰ぐ。
「…あの声…ッ! …そうだ…、少しばかり思い出したぜ。…バルガスの野郎かッ!」
「やっぱり身に覚えがあるのか…」
半ば呆れてジョージは頭を掻く。続けて、ディアーダが至極当然な意見を訊いた。
「どういう間柄なんですか?」
「…そ、そうだッ! 俺達まで巻き込まれているんだぞ!? 一体どんな関係があるってんだ、イリューンッ!?」
しかし、イリューンは詰め寄るジョージ達から目を背けると一言、
「人には言いたくない過去ってモンがあるのさ…」
それだけを呟き、黙り込んでしまった。
お前は人に言えない過去だらけだろうが、とも思ったが、やはり小心者故、ジョージはそれをとても口には出せなかった。
「…と、とにかくここから抜け出すには…そのバルガスとかいうヤツを何とかしなくちゃならないって事なんだよな?」
「転移理力の内の一つ、異空間転送は持ち得る理力を限界まで使用して、対象者をその場に縛り付けます。つまり、発動者がそれを維持できねば、空間は自然に消滅し、対象者は解放される筈です。」
目を瞑り、ディアーダは静かに持ち得る知識を口にする。恐らく今はそれだけが、唯一この場から脱出する方法に違いない。
「…話し合いで何とかなる訳…ねぇよなぁ。……ハァ……」
「ま、頑張ってくれや。」
「オメーが原因だろーがぁッ!」
まるで他人事のようなイリューンに流石のジョージも怒鳴り声を上げる。しかし、当の本人は退屈そうに小指で耳を穿っては、耳垢を吹き捨てる仕草を繰り返すばかりだ。
数分の後、誰が言い出すでもなく、三人は共に行動を取ろうとお互いに頷きあった。どちらにしろ、協力無くしてはこの異空間を脱出できないだろうし、何よりこの異常事態ではその方が、個人で行動するよりも遙かに効率的だった。
だが、指針になるような目安もない。とりあえずジョージは、目の前にある小さな扉を開けて進む事を提案する。
捻り開けた扉の向こう側は、真っ直ぐ一直線に延びる水の回廊だった。いや、正確には水のように見える壁の、と言い直すべきか。
辺りをちらちらと見やりながら、三人はひたすら先を急ぐ。そのうち、通路がひらけると、こぢんまりとした部屋へと辿り着いた。
「…人…か?」
目の前には、椅子に座るフードを被った人影が三つ。ジョージは恐る恐る彼らに話し掛けようと近づいた。
同時に――
背後から不気味な呟き声が聞こえてくるや、巨大な火球がそのすぐ横を通過すると人影にぶち当たった。
激しい熱線。凄まじい爆発音。すぐ側にいたジョージも同時に巻き込まれ、一緒になって吹き飛ばされる。
壁際まで転がり、何が起こったかも解らず、呆気にとられたまま部屋の端にへたり込んだ。
「…な、な、な…」
「…人形だぜ。…おちょくってやがるな、あの野郎…ッ!」
ペッ、と唾を吐くと、イリューンは先程まで人影だった残骸を蹴飛ばした。ディアーダが前触れもなく理力を使ったらしかった。
「デ、デ、ディ、ディアーダァッ! な、な、何て事しやがるんだぁッ!」
未だ及び腰ではあったものの、立ち上がり、ジョージは大声を張り上げた。しかしディアーダは事も無げに涼やかな顔をしたまま、
「――先手必勝です。」
そう呟くだけだった。
ジョージは理解した。マナ・ライが変わり者と言った理由をようやく我が身で実感した。
そう、この男は自己中なのだ。周りの人間がどうとか、こうしたらどうなるとか、そういった事に対して全く興味を示さない、そんな男だったのだ。
(イ、イリューン一人でもとんでもなかったのに…また、こんなヤツが…!)
確かに、理力に関する知識、技術は誰よりも頼りになる。だが、今後のことを考えると、ジョージは頭痛を感じざるを得なかった。
そうこうしている間にも、部屋の奥に小さな階段を見つけだしたイリューンが、ズカズカと奥へ向かってしまう。慌ててジョージ、ディアーダも後を追う。
十五分程も経っただろうか。前列にディアーダとイリューン、そのすぐ後ろをジョージがついていくという隊列で、三人は迷宮を彷徨い歩いた。細い道を右へ左へと進みながら、やがて通路は行き止まりへと辿り着く。
「…ちっ…こりゃ、戻るしかないか…」
そう小さく舌打ちをし、さっさと来た道を引き返そうとするジョージ。ところが、イリューン、ディアーダの両名は、その場で立ち止まったまま全く動こうとせず、ただ目前にある水面のように揺らぐ壁を凝視し続けている。
「…なんだよ? まさか、もう疲れたなんて言い出すんじゃぁないだろうな?」
すると、ディアーダはちらりとこちらに目線を送るや、手の平の上に乗る丸い何かをジョージにそっと差し出した。
それは理力で作り上げたと思われる、小さな球体だった。赤く光るその玉は、壁に向かって激しく光を放ち続けている。
「敵意を特定する理力『Snake』がこの場所を指しています。壁の向こう側ですね。」
「…そ、それって…!? て、適当に道を進んでいたわけじゃ…!?」
「いくら何でも、そこまで馬鹿ではありませんよ。成し得た根拠の元に歩く――それが私ですから。」
「…た…確かに、…そうだよな。は、ははは…」
乾いた笑いをあげるジョージに重ねて、顰め面のイリューンが一歩前に出る。
「…まったく、イヤな感じが肌にピリピリ伝わって来やがるな。ど〜れ、――どいてな。」
次の瞬間、イリューンは手に持つハルバードを振り上げるや、力の限り壁に向かって斬りつけた。
水を裂くような抵抗感が切っ先に伝わった。
走った亀裂は大きく広がっていき、やがて止まっていた滝が流れ落ちるかのように。壁は水飛沫を挙げ、大音響を伴って崩れ落ちた。
壁の向こう側には、今までとは比べ物にならぬ程に広い空間――まさしく大広間が拡がっていた。三人は揃ってその場に足を踏み入れた。
パシャン、と先程の壁の残骸である水溜まりが変に澄んだ音を立てる。
警戒しながら、少しづつ広間の奥へ奥へと歩んでいく。
やがて、場にそぐわぬ玉座らしき椅子と――そこに腰掛ける一人の男が視界へと飛び込んできた。
「バルガス…ッ!」
イリューンが吐き捨てるように言った。
「アイツが…!?」
「…あれが、そうですか。」
イリューンと同じ黒い鎧を身に着けた、屈強そうな戦士だった。
年の頃は二十五、六といった風体。座った状態の為に確かなことは言えないが、恐らく身長はイリューンと同じかそれ以上。不敵な笑みを浮かべたその顔には、歴戦の証なのか、方々に刀傷が残っている。短く刈り揃えた銀髪に、グレーの眼。そしてその傍らには、まるで刀身から炎をも放ちそうな、相当にゴツイ両刃剣があった。
柄頭に大きな赤い宝石、ルビーが填め込まれている。
ジョージの頭に嫌な予感が過ぎった。あれは、まさか――
「随分と…随分と探したぞ、イリューン…!」
「…バルガスか。顔と名前とが一致したのは今日が初めてだぜ。――で、何でテメェ、オレ様を探していやがった? まったく心当たりがありやがらねぇ。あるとしたら…子供の頃のアレか? …だとしたら、まったく根に持つ野郎だな? おぅ?」
軽く言い放つイリューンに悪意はない。しかし、バルガスは額に青筋を浮かべると、凄まじい形相で立ち上がった。
「貴様…やはり記憶を封印されているのか…! だが、容赦はしない。貴様が忘れていようとも、我が父の恨みは消えはせん…ッ!」
「父? テメェの父って…? 思い出せねぇ…! 何か知ってやがるのか、テメェは!?」
「…問答無用…ッ! せめて死す前に全てを思い出すがいいッ!」
バン、と激しく足を踏み鳴らし、両刃剣を手に取るや、バルガスは猛烈な勢いで此方に向かって駆け出した。
それを前に、大声でジョージは叫んだ。
「ちょ、ちょっと待てっ! お、俺達は関係ないだろーがぁッ!」
こんなヤツと心中して堪るか、そんな気持ちが大いに籠められた一言だった。しかし、
「――それがどうしたッ! 俺はイリューンを殺す為ならば何だってする! 誰が何人死のうが知ったことかッッッ!」
同時に、まさに先程感じていた通り――バルガスの両刃剣から勢いよく炎が噴き出した。
剣にとぐろを巻く炎竜は雄叫びをあげ、次の瞬間! 激しく熱線を放射するや、凄まじい爆音と爆風がその場全体を包み込んだ。
「う、うわぁぁぁぁっっ!」
「――ぐぅぅぅっっっッ!」
「…う、うぉぉぉぉぉっっっッ!」
瓦礫が舞う。水飛沫が跳ね上がる。三者三様に吹き飛ばされ、床に叩き付けられるや、三人は激痛に身体をのたうち回らせた。
ガチャリと肩口で剣を構えると、バルガスがニヤリと口の端を歪めながら呟く。
「…どうだ? この炎魔剣ブラッディ・ローズの味は? こいつは剣の半径三メートル以内を、無尽蔵に爆破出来る理力を秘めている。そして、威力を少しばかり弱めれば…ッ!」
はっとし、イリューンは咄嗟に立ち上がるや、残された力で床を蹴った。
振り下ろされたバルガスの剣から、炎の鎌が放たれた。真っ赤に燃える三日月型のそれは、轟音をあげるや先程までイリューンの倒れていた場所を削り取った。
再び、爆音が轟いた。耳をつんざくような衝撃は、その場を通過して尚、頭の奥で繰り返し響き続けた。
ニヤニヤと笑うバルガスの顔には余裕が一目で見て取れる。一方、イリューンは息も絶え絶えといった様子に変わりない。
(…え、炎魔剣…!? ま、まさか…あれが噂のハルギスの…!? ほ、本当に存在するだなんて…っ! こ、このままじゃ…このままじゃ本当に殺られっちまう…! うぁぁぁ!)
腰を抜かしたままの体勢で、この期に及んで逃げ場を探し出すべく、ジョージは辺りの様子を伺った。ふと、その視野の端に見覚えのある影が動くのが見えた。
影はそっとバルガスの背後に近付いていく。耳に届くか届かないかの小さな声で、ブツブツと何かを唱えている。
「――呪文――!?」
バルガスが気付いた時には既に遅かった。ディアーダがその手に巨大な火球を作り上げ、詠唱を終えるやそれを撃ち放った。
「炎にて焼かれ、浄化されよ! 『Salamander』ッ!」
閃光が眼前で炸裂する。炎の塊が弾け、バルガスの背中で火蜥蜴が踊った。
「…ぐ、ぐわぁぁぁぁぅぅぅッッ!?」
巨体を振るわし、バルガスは炎から逃れようと必死に手をばたつかせる。しかし、炎はまるで生き物であるかの如く、その身にまとわりつき離れようとはしない。
怯んだバルガスに隙が出来た。機を逃さず、イリューンは立ち上がった。手にしたハルバードを構え、ここが勝機とばかりに突進する。
地面を蹴る。宙を舞った。だが、バルガスもそのまま棒立ちという訳ではない。理力の効果をどうにか打ち消し、バルガスはイリューンを迎え撃つ。
ハルバードが風を斬って振り下ろされる。向かって垂直に、バルガスは自身の炎魔剣を勢いよく振り上げた。
激しい金属音。激突。しかし、イリューンは弾き飛ばされず、そのまま地面に舞い降りるやバルガスと鍔迫り合いに突入する。
ギリギリと、バルガスが歯軋りをする。イリューンも負けじと奥歯を噛み締める。
狙って、ディアーダが再び火球を繰り出した。連続して着弾する理力の凄まじさは、床を抉り、その場に拡がっていた水溜まりさえも蒸発させる。
爆裂音がバルガスを追いかけていく。しかし、巨体に似合わぬ素早い動きで、バルガスはその全てをかわしきった。
呆然と、真っ白になった頭の中で、ジョージは考えていた。
何故、こんなにまでして闘わなければならないのか。何故、イリューンは命がけで闘っているのか。そして、何故ディアーダもそれに加わっているのか。
が、すぐにジョージは気が付いた。
これは、自分自身の闘いなのだ。闘わねば命が危険に晒される事態なのだ。
二人が倒れたとして、バルガスは自分を救ってくれるのか?
イリューンが倒れたとして、ディアーダと自分だけは見逃してくれるのか?
言うまでもなかった。――そんな事はあり得ない。
自分には関係がない、と傍観を決め込めるような状況では無かった。
まるで足が痙攣しているかのようだった。しかし、腹を括り、ジョージはすっくと立ち上がった。未だ震えは止まらなかったが、それでもそれを言い訳には出来なかった。
遠目にジョージは様子を見た。バルガスは相変わらずイリューンを目の敵にしている。ディアーダの事もある程度は気に掛けているものの、「五月蠅いハエがいる」ぐらいにしか感じていない――殆ど眼中に無い様子だった。
ジョージだけが完全に浮いていた。全くのノーマークだった。それは逆を返せば、この上ないチャンスに違いなかった。
一方、バルガスは三度、イリューンに向かって炎魔剣を振るった。呼応して生み出される三日月型の炎が、削岩機の如く床を削り取る。どうやらイリューンが至近距離にいる為に、爆裂の理力に巻き込まれることを恐れているようだった。
それが故に、尚更、恐れを抱かず近寄れた。
足下はおぼつかなかったが、それでもジョージは精一杯の勇気を振り絞った。剣を胸元に構え、一歩、また一歩とバルガスに立ち向かっていった。
(…気付かれないよう…やるしかない…! お…俺が…!? い、いや…、出来るはず。やるんだ、やらなけりゃ…みんな殺される…っ!)
あと五メートル。あと三メートル。あと二メートル――
「…う、う、うわぁあぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
だが、押し寄せる緊張感に耐え切れる筈もなく。ジョージは遂に叫び声をあげた。
感情のままに走り出し、そのまま剣を振り上げ、力の限り斬りかかった。
驚きに目を見開き、そこでようやくバルガスはジョージの存在を認識した。勿論、そんな俄剣法が通用する筈もなく、バルガスはあっさりとその剣を受け止めた。
しかし、予想外の人員に攻撃されたとあってか――呆気にとられたバルガスは、一瞬だったがイリューンから気を逸らした。
「――もらったぁぁぁッ!!」
イリューンは叫んだ。同時に、真横からハルバードを突き出した。
衝撃音。分厚い鋼が貫かれる音。
鉄板の奥、肉を突き刺す強烈な手応えが、イリューンの手元に伝わった。
ポタリ、ポタリと矛先を伝い、鮮血が滴り落ちる。
「ぐ、ぐわぁぅぅっッ……っ!?」
何が起きたのかさえ理解出来ない――そんな表情で、バルガスはイリューンを突き飛ばし、ハルバードを引き抜くと、脇腹を押さえながら身体をふらつかせた。
痛みに顔を顰める度に、どくり、どくりと血が流れ続けた。それを信じられないような顔で見つめつつ、憎悪に燃える瞳でバルガスは言った。
「お、おのれ…イリューン…っ…ま、またしても…ッ! だが、覚えていろ…いつか必ず、必ず貴様を殺す…ッ! 必ずだッ!」
「ま、待て、テメェッ…! 俺は、俺は一体…ッ!?」
イリューンが思わず声を挙げる。刹那、バルガスの身体が光に包まれた。そして、そのままその身体はまるで陽炎の如く揺らめくや、その場から完全に消え去った。
同時に、辺りの風景が歪んだかと思うと、徐々に見覚えのある風景が戻ってきた。
ギルドの一室。暗がりにも似た質素な部屋の中、マナ・ライとフレイムが一様に驚いた顔で戻ってきた三人を見つめていた。
「――ど、どうしたんじゃ? イリューン、…一体何があったというんじゃ!?」
心配そうに訊くマナ・ライに、イリューンは何も答えなかった。ただ、口惜しげに奥歯を噛み締めるばかりだった。
「また…出会う時が来るのでしょうか…?」
ディアーダが心配そうに呟く。
腰を抜かし、今更ながら脂汗が止まらないジョージもまた、不安に心を掻き乱されていた。
お昼を報せる尖塔の鐘の音が、遙か遠く、いつものように優しく鳴り響いていた。