私の悩みの抜け出し方
家庭環境について、悩むこと自体が苦しみだった。
学校でのいじめについても、自分の非行についても、そうだった。
何かを飛び越えてくれる、観念的な”答え”を求めていた。
宗教にはまらなくても、救いがあるとどこか自分に言い聞かせた。
いわゆる”大人の対応”を仕方ないと受け入れ、世の中は厳しいと人に説きたがった。
同じ袋小路にはまった人の作ってくれた”慰め”で”我慢”した。
出来もしない”復讐”の快楽を想像して自分を慰めた。
本心は欲求不満だった。
欲求不満でも善人でいたいと思ったから、建前と本音が乖離していた。
今までの”我慢”は”大きな救済”で差し引きゼロになるのだと思っていた。
期待は高まっていて、”執着”した。
復讐せず、復讐より気持ちよくなる究極の方法があるはずだと、強迫的になっていた。
結局のところ、そんなものはなかったのだが、なくても大丈夫だった。
苦痛と快楽の軸でしか生きてこられなかった自分は、”ずれて”しまっていたのだと思う。
感情豊かな人と触れ合える今は最高に楽しい。
嬉しい・楽しい・癒される・落ち着く・疲れた、自分の感情のレパートリーがどんどん増えていく。
褒められたかったんだな、甘えたかったんだな、と欲求も具体的に感じられる。
今も”ずれる”ことはあるけれど、”きっと大丈夫”が増えていくそんな毎日が幸せだ。