序章
スフィア王国は、肥沃な土地と海に面していて豊かな国だ。
長い間、特に戦争も起きていなければ内戦すらない。王族による統治は安定を極め、また有事の際の育成にも取り組んでいた。まさに理想の国。住めるならスフィア王国でとの言葉は民衆も、貴族も皆が口をそろえて言う巨大な王国。
歴代の王たちは栄華を求めるよりも質素で徳が高く信仰心にも厚いことで有名だ。
もちろん跡目争いがなかったわけではないが、賢明な王たちは国の舵取りを臣下の助言とともに行い発展したのがスフィア(神に愛された知恵の子たちの)王国だ。
そして今日。
新たに王に、いや、女王が誕生する。直系の王位継承者であり、美しき年若い女王が。
ただし彼女には暗い噂があった。
神に守られ愛される国で、禁忌の噂。
彼女は生まれ落ちたときから左の頬に縦長く黒い蔦のようなアザがあり、白い彼女の肌にはくっきりと誤魔化しようがないほど現れていた。
彼女が生まれたとき、スフィア王国の賢者であり予言者は告げる。
『神の加護と、悪魔に愛され口づけをされた子』
そう告げられた彼女が、今年で16歳になり彼女をめぐる物語が幕を開けたことに人間で気がつく者はいなかった。
スフィア王国、白亜のバルコニー。
そこは歴代の王たちが、跡目を継ぐさい最初に民衆の前に立つ場所。
つねに美しく磨かれた床は、汚れの一つさえも見つけることは困難なほど完璧だった。雨ざらしの場所であるにかかわらず水たまりも、靴あとさえも無い。丁寧な仕事のあとが見られるその場の奥に複数の人影が見える。
向かって左側には、めずらしいプラチナブロンドの髪に堅苦しそうな服に身を包んだ若い青年。中央には銀髪の髪を後ろは垂らし、前は額が見えるように分けており両サイドに三つ編みが編み込まれ真横で持ち上げ(シニョン)られそれを王冠が飾り立てる色白の肌と赤い熟れた林檎のような唇をもった少女。右側には少女と同じく銀髪にも見えるし白髪ともとれる髪と、無表情で前だけを虚ろにみるドレスを着た年配の女性。
中央の少女が、蒼く虹色に輝く瞳を不安そうにゆらした。
それを見ていた青年は、少し口を歪めさせたもののすぐにニッコリと安心させるように微笑み少女へと口をひらく。
「どうぞ。教皇からの後押しがあるのは俺がこの場にいることで証明されています」
「そうね……」
少女は嬉しがるどころか、逆に少し目を伏せて瞬きを繰り返す。
「…………」
年配の女性は口さえ開かず、干渉するつもりはないようだ。
少女は年配の女性と、若き青年を交互に見やり再び瞬きを繰り返した。
*****
バルコニーから五歩くらい離れた奥まった場所からでも城下を見下ろすことが出来る。城下を見下ろすと、幾万人もの民の姿が見えた。
胃が締め付けられるような緊張と、本当に私で良いのかと思う不安感。私の内側を感情が支配している。理性よりも感情が勝った私は一歩を踏み出せないでいた。
表面上は誰にも悟られることのないように毅然とした態度を崩さない。それが今の私にできる精一杯のこと。私は、それが出来ていると信じることにした。
「さあ、女王。皆が待っています」
未だかと催促したいだろうその男性は冷静に言葉を紡ぐ。
プラチナブロンドの美しい髪に、見透かれそうな紫暗の瞳。整った顔には眉間に薄い縦皺。見ただけでも冷徹で、急かすなんて、せっかちなタイプじゃないかしら。
「今、行くわ」
声が心なしか震えていて、さらに落ち込む。
きっとプラチナブロンドの枢機卿は、内心、私に対して幻滅しているだろう。
この枢機卿が、このスフィア王国の女王お披露目のあとに教会にもどり私の事をなんて教皇に報告するだろうか。
いや、いまは暗い未来を勝手に想像で埋め尽くしている場合ではない。
背筋を伸ばして、無表情でいいのだ。
私がどう見られるかが大事であり、最初で失敗するわけにはいかない。
前へと踏み出す。
左横には私を産んだ母。右横には私をじっと見る枢機卿。二人の間を通り抜ける。
息を吐き出し、言うことだけに集中する。
熱気、歓声にのまれそうになりながら、声を張り上げた。
「私は――――」
私はこの国の新たなる女王、ベラーム・ムーア。
その言葉は私の口から紡ぎ出されることはなかった。
突然、左側に熱い痛みを感じながら体が後ろへと倒れていく。
死の予感とともに、意識は遠のいていった…………。