~第ニ夜~
「二の君。二の君。」
乳母の夏穂に興奮気味に揺さぶられ頭がぐわんぐわんと鳴り響く中迎えた目覚めは最悪であった。
「起きて下され、二の君」
ああ、どうせなら夏穂の女にしてはやけに太い褐色の腕ではなく、白く細い女の手に起こされたかった。等と失礼なことを考えつつもしぶしぶ重い身を起こす。
「どうした」
外を見るとまだ霧が立ち込めていた。いつもより大分早く起こされたことに少し腹をたてながらそう問えば
「どうしたも何も朝餉の時間が始まってしまいます!早う広間にお越しを。」
と早口で言われたので眠気が覚めない頭では情報処理が追い付かなかった。
二の君はいつも自室に食事を運ばせ、そこで食べる。
だから時間など気にした覚えもないし好きな時に好きなように食べていた。
とどこか説明っぽいことを考えている二の君が突然はじかれたように起き上がり叫ぶ。
「あ、ぁぁぁぁぁああああああ!」
情けない声をあげた二の君に夏穂がこめかみをおさえるもそんなことにかまっている時間はない。
「金狐とその後継者候補たちが一日ともに過ごし、別々に暮らしてきたそれぞれの近況報告」
本日皇宮で行われるイベントだ。何せ金狐とその後継者候補たちが一堂に会するのだから前々から重臣や奥仕えの女どもが注意深く計画した一大イベントである。
ここで遅刻でもしたら無作法者として見られ金狐から一歩も二歩も遠ざかるのは確実だった。事前に夏穂が用意しておいてくれた華やかな着物にとりあえず身体を突っ込みずるずると引きずりながら自分の房を出て広間へ向かう。
引きこもっていた二の君は久々の場所に右往左往するがそこは夏穂の先導で何とかなった。
指定されて赴いた広間には金狐直属の武人が並んでいた。
その中心にいた女が言うにはしきりに囲まれたこの部屋は大広間とつながっており朝食を各々の仕切りの中で食べ終えた後一人ずつ金狐に挨拶をし、顔を合わせるのはそれからになるらしい。一体兄弟や甥に会うというそれだけでなぜこんなにも面倒くさいことをしなければならないのだろう、二の君の顔にはそうはっきりと書いてあったらしく訝し気な顔をした女に
「規則ですから…」
と言われてしまい二の君は顔を赤らめた。
金狐の好みなのかいつもより味の薄い食事にぶうぶうと文句をたれながら平らげると丁度二の君の挨拶の番が回ってきた。
産まれた時ぶりに父に会えるということで彼の足は自然と楽し気になっていた。
三の君との面会を終えた後現金狐-名を公勇という-は孫息子、春日との面会を遅らせ少しの間膝に手をついたまま動かなかった。まさか国内一の美姫との間に儲けた三男があのようなことになっているとは思いもしなかったのだ。最初に面会した寒空はまだよかった。なよなよとして武術に秀でたとは言い難かったが頭が回るようだった。長く貴族たちの権力が渦巻く中それに飲み込まれ国を治めてきた公勇と対等に渡り合えるくらいの力はあるようだ。
しかし三の君はそんな長男の印象を吹き飛ばしてしまうくらい強烈だった。
髪は何日も洗っていないらしくぼさぼさに伸び放題できついにおいもしたし服は何日も着古したような下着が一枚。母親譲りの優しく美しく輝いていたはずの尾の毛は確かに色は母親のそれそのものだったが艶もなく触ってもふさふさしない代わりに手に脂が付きそうだった。
本当に彼は金狐になる気があるのか。
そう疑ってしまうような風貌に公勇は完全に肩を落としていた。公勇は多くの側室を持っていたがその中でもやはり正室に迎えた金姫…もとい春暁には特別愛を注いでいたし子供たちには側室の産んだ子よりもいい暮らしをさせ、金狐になるための…それ以外にもいろいろな分野において著名な専属教師をつけ彼らがいい金狐になるための英才教育をしていたはずだった。…のに。公勇は周りに聞こえないようにため息をつくと次の間に控えている二の君を呼び寄せた。
「やはり二の君か…」
公勇が春日との面会を終えた時そう呟いたことに気が付くものはいたが否定するものは誰もいなかった。
その日の昼は自由に過ごしてよいと言われたので二の君は自室で読書をすることにした。
書、と言っても周辺の村の治水記録だったり田畑の税率などの書物だ。ほんとは戯画を読みたかったのだが夏穂は
「もうすぐ金狐になられるのですから!」
と言って許してはくれなかった。
他の候補たちは広間に集まって談話をしていたらしい。
自分だけほかの候補たちと顔を合わせていないことに焦りを覚え今からでも向かおうかと考えるが既に蔀から差し込む光は鮮やかな蜜柑色に染まっており二の君にどれだけ書物を読むことに熱中していたかを自覚させる。そのまま夏穂が夕餉の合図に来るまでしばらくの間ゆっくりと夕日の色に染まってゆく自室の中をぼんやりと眺めていた。
夕餉の席に着くと大きな焼き魚がどんとこれまた大きな皿に乗っていた。幼い頃、母に教わった骨をとる方法を思い出し顔をほころばせながら白身をつまむ。
ゆったりとした動作で一口口に運んだ時目の前の障子がシャァアと音をたてて開いた。
その瞬間一人を除いた全員の目が金狐よりもその者に向けられたのは当たり前のことだったように思う。
目を見開いた二の君の前にいたのは女のような顔立ちをした白狐だった。彼の肌は透き通るように白く髪も一本一本が細く消えてしまいそうだったが妙な存在感があったのは黄色のような赤のような不思議な色をした瞳がぎらりと妖し気に光っていたからだろう。周りからの視線を感じた彼がこてんと首をかしげる。その動作一つでもとても幻想的でありしかしかわいらしく、その場にいた全員をさらに彼の魅力の沼にはめてしまいそうだった。
そのままいくらか時が流れこの季節にしては珍しい虫がジュっと音をたてて炉台の火に消えた時それに呼応するように部屋中からため息が漏れた。
二の君もそれに紛れて大きなため息をつき改めて目の前の少年をまじまじと見ようとするがはじかれたように立ち上がった宮仕えの者どもが障子をもとの位置に戻してしまった。どうやらこれが一度しかないという候補同士の顔合わせだったようだ。
ぼんやりとした頭で二の君が部屋に戻ると既に布団が敷かれていた。二の君はそこに腰を下ろすと先程のことを思い出す。
白狐が目の前に現れた時自身の即位は叶わないと一瞬でも思ってしまった自分が嫌になり、それを心の中で仕方がないと思ってしまっている自分を今すぐにでも張り倒したいと思った。よほど厳しい表情をしていたのだろう。夏穂が不安げな顔をしながらかけてくれた声を気持ちが荒れていた二の君は「うるさい」とぶっきらぼうに返してしまい夏穂が出かかっていた言葉を引っ込める。その顔に二の君ははっと我に返ると自分の頬を両手で挟むようにして二度強めにたたく。まだじんじんする頬をさすりながら声高々に
「私こそが次の金狐になる。」
と夏穂に向かって宣言すると夏穂は泣きそうな顔になって
「ええ、二の君はきっと、きっと次の金狐になれます」
と言った。