母と娘
それは爽やかな朝だった。四月と言うこともあり、まだ肌寒い朝、長月紗英はランニングの準備をする。朝五時に起きジャージに着替えて玄関を開け放って朝の空気を肺に入れ、吐き出す。その動作で頭がスッキリして来る。学校のある平日は朝から走ることなどしないが、土日は毎週朝、走ることにしている。自主練というより、その週の鬱憤をリセットするために走っていた。特に今週は興味のない事を調べさせられ、お化け屋敷さながらの建物へ入り、話を聞くため先輩の教室へ突撃したのだ。精神的にヘトヘトだった。しかも、たまに視線を感じてしまい、心はガリガリと削られていた。
調べる事に夢中な伊藤は長月紗英の事情など知らず、今日も調べる為に市の図書館へ向かうと言っていた。
いつものランニングコース。大体十五キロほどの距離を二時間かけて走る。犬の散歩をしているお爺さんや、たまに見かける同じランニングをしているお姉さんと挨拶をしつつペースを崩さずに一定の速度を保つ。
朝のランニングは車も少なく走りやすい。空気も澄んでいて、昼の空気とはまるで違う。都会とは言えないながらもそれなりのビルが立ち並びそれに比例して車の量も多い。当然仕事をしている人間も朝は少ないから別世界のような気持ちになる。平日の事など頭の隅へと追いやるにはちょうど良かった。
そしてランニングが終わり、シャワーを浴びて漸く今日が始まるのだった。
「おはよう。ご飯できてるわよ。」
母親の長月瑛里華は浴室から出て来た長月紗英に話しかける。
「ほんとに走るの好きね?私が若い頃は運動嫌いだったわ。」
今もでしょ?と長月紗英は笑ってみせる。さっと着替えてリビングへ向かう二人。そういえばと思い出したように母親は話す。
「さっき結衣ちゃんから電話あったわよ?昼くらいに図書館に来てですって。何か嬉しそうだったわ。」
はて?何か見つけたのだろうか?と考え、分かったと答える。後でメールでもして確認してみようかなと思い、朝食を食べ始めた。
リビングでソファに座りながらテレビを見つつメールを打つ。テレビでは特に好きというわけでもないがアニメがやっていてそれをなんとなく見ていた。今日は伊藤との予定以外何もないからだ。図書館へ行く時間は昼の一時、まだ九時を過ぎた時間である為ダラダラと過ごす。いつもの日常だ、と長月紗英は思った。
メールの返事はすぐに返って来た。
『あっ、図書館来る前に途中のお店でお菓子買って来て!頼みます(笑)』
仕方ないと考え、出掛ける時間までのんびりしていたのだった。
出掛ける時間になって準備をしていると、出掛ける格好をした母親に声を掛けられた。
「買い物行くから途中まで一緒に行きましょ?」
との事だった。別に気にした様子もなく長月紗英は良いよと返事をする。そう言えば母親と出掛けるのはいつ以来だろうと少し思ってみたりもして。
準備も終わり、靴を履く。今日はボーイッシュで、大分ラフな格好をしている為、靴もそこまで気にせず履き慣れた運動靴を選んだ。
「紗英は女の子らしくないわね。もっとオシャレもしなさいよ。」
母親はこんな格好を見るたびに言ってくる。最早口癖みたいなもので長月紗英もハイハイと受け流す。
商店街は図書館の先にあり、歩いて十五分位。いつもは自転車で行く母親だが、長月紗英と話す為か自転車を押して歩いて向かっていた。
「学校はどう?楽しそう?」
「部活はやっぱり陸上?友達出来た?」
などなど、普通の質問に紗英は別段気にする事なく答えた。伊藤に振り回されている事、七不思議が本当は六つしかない事、新入生代表がめっちゃキレイでオカルトが好きな事、そして
旧校舎に入った事。
その言葉を聞いた母親は立ち止まり驚いた顔を見せる。
「ご、ごめん。まさか立ち入り禁止になった場所に入ったって言うから驚いちゃった。ケガとか無かったの?もう入っちゃダメよ!」
焦るのを誤魔化すように言葉を吐き出す。親らしいと言えば親らしい言葉を言う母親に分かった。とだけ言い、また行くんだけどね。なんて前を向きながら小さい声で呟いた。
母親も気を取り直し自転車を押して長月紗英の隣に並ぶ。心の中が騒つくのを抑える様に左手を胸の前でギュッと握るのを長月紗英は横目に見ながらも特に考えなかった。その母親の気持ちも、言葉の重みも。
商店街には思いの外早く着いた。今日の夕食の献立を聞くと、長月紗英の好物であるビーフシチューだそうで多めに作ってもらう事を約束した。
「いい?旧校舎には近づかない事。絶対に守りなさい。じゃないとビーフシチューは無しだからね?」
ビーフシチューを人質?にされては反論出来ず、任せといて!と調子のいい事を言う。長月紗英は花より団子なのだ。
母親は鼻歌交じりに商店街の前を通り過ぎていく娘に心配そうな眼差しを向ける。
「ちゃんと約束守ってね、紗英。」
小さな呟きは長月紗英に届くことはなかった。
商店街から図書館へは十分程で着く。そこまで都会という訳ではないこの街では商店街の周りにはそれ程高いビルは存在しない。それ故か穏やかな空気が流れている。商店街のすぐ近くにはそこそこ広い公園があり、小さな子供を遊ばせている親子が見える。
その公園に入って反対側の出入り口から出ると、片側二車線の道路に出るちょっとした近道なのだ。
少し歩くと交差点があり、歩道橋を渡ると目的地の図書館がある。
お菓子は家にあったのを適当に持って来た。商店街の中にあるお店で買う為には商店街の奥まで行かなければならず、かと言って家から商店街までは住宅街な為コンビニも無い。
図書館の中では食べることは出来ないから食べるなら先程通った公園だろうと思い、他に食べたくなれば二人で商店街の中に行けばいいと考えた。だから家から持って来たのだ。
市の図書館は大理石の様なタイルで貼られた柱が正面入口の前の駐車場に何本も建っていて、コンクリートが屋根代わりを果たし暗くなるとその屋根に取り付けられた蛍光灯が照らし出す。
入口は建物の真ん中にあり、手動で開く両開きのガラス張りの扉を潜ると、正面に受付があり、その横には本の場所を検索するための機械が三台置いてあった。
受付を真ん中に階段が左右にあり、入口を背を向ける様に上に続いている。
この図書館は一階に受付やパソコン、静かな場所で読みたい人の為の個室などがあり、二階には調べる為の部屋レファレンスルームや書架、書庫がある。
伊藤はレファレンスルームにいることが多い為迷わず二階へ上がる。が、その前に受付の人に利用者カードを渡し、入館者受付を済ませてからで無いと上がる事が出来ない。
このシステムは少し厳重じゃ無いかと伊藤と話した事があったが、大切な資料があるのだろうと予想し合い話が終わったのを不意に思い出した。
二階へ上がると入口を入った時よりも、紙の匂いが強まる。上りきると壁一面が窓になっており、その窓に沿って長机が伸びる。等間隔に置かれた椅子に座り外の景色を見ながら寛ぐも良し、読書するのも良しである。
太陽の光が直接本に当たらない様に本棚は反対方向を向いていて、本棚の背は白で統一している。その白の背には小学生か中学生が描いたであろうポスターが貼られている。きっと去年のポスターコンクールか何かなのだろうと予想をつけた。
左右に分かれて同じように並べられた本棚。長月紗英から見て左手が文学や小説、ライトノベル、趣味などの雑誌、童話や絵本なんかが置いてあり、右手には歴史書や教養の為の本、外国語版の本や翻訳された本、小説などなど、所狭しと置いてある。
長月紗英は取り敢えず歴史書の置いてある右側を案内に沿って歩き始める。レファレンスルームはガラス張りの方とは逆側にある為、一度本棚の森を抜ける。そして、レファレンスルームの一角に山積みにされた所があり、瞬間伊藤だと考えた。
アニメなどにありそうな本大好き人間が良くやりそうな行動に少し笑みをこぼし、その一角へ向け歩く。本の山から中を覗くと同時にお疲れと声をかける。
「えっ?」
と、驚くような声が聞こえ、そして伊藤ではないことを理解した。横山さん!?と長月紗英も驚きの声をあげた。
「長月さん、珍しい所で会いましたね。」
とお互いが驚いた後、栞菜からそんな言葉を掛けられる。
あはは、と笑って誤魔化す。栞菜と伊藤は合わせちゃいけないような気がして、伊藤と調べ物をするという事を言えなかった。
横山さんがこの山積みの本の主だったか!などと考え、山積みの本を一冊取り、題名を見る。
『神隠しの真実』などという胡散臭さ溢れる題名を見て、しかし、長月紗英は伊藤と栞菜の二人が同じ事を調べている事に気付いた。
本を置き、次の本を取って題名を見る。『世界で起こる怪現象』もはや、引き攣った笑いしか出てこない長月紗英だった。
伊藤を探してなぜか栞菜を見つけてしまった長月紗英はじゃあまたと栞菜に言うとそそくさと離れようとする。それを栞菜が待ったをかけた。
「また伊藤さんの手伝いですか?程々にしないとずっと付き合わされますよ?」
と、心配してくれてる様だった。正直、興味のない事を調べるのは苦痛以外の何物でもない。けれど、友達なのだ。少しでも力になってやろうと思うのは自然な事だろう。
そう考えてありがとう、とだけ言っておく。他に何も言うことがないのか。何も言わずに調べ物を再開する栞菜だった。
伊藤はどこだろうとキョロキョロしながら探して見るがどこにもいない。仕方ないとメールで場所を聞くことにした。
返事はすぐに返ってきた。そのメールを見て青ざめた顔をして駆け出した。途中栞菜のいる場所を通ったが、声も掛けずに走り抜け、それを注意しようとした栞菜が訝しげな顔をした。
あまりの焦ったような顔だった長月紗英を見送り、栞菜は開いていた本をバタンと閉じ、元あった本棚へ一冊ずつ戻していく。真面目故の行動なのだろう。