第8話 穂田龍星
夜も更けたころ、俺はあくびを噛み殺し足元に目を向ける。そこには齧りかけのキノコが落ちていた。
「……ああ、これ食ったら眠くなったんだっけ?」
もう一度あくびを噛み殺し辺りを見渡す。すでにテント場から灯りは消え、夜の闇だけが広がっていた。この時間は、夜行生物であるタヌキの夜目が良く効く。
おや? と思い、もう一度足元を見ると、齧りかけのキノコとは別に、木の実が幾つかと、ミミズとネズミの死骸が置いてあった。金次が置いて行ってくれたのだろう。脇の方には、それを証明する情報伝達のアレが落ちていた。そこから漂ってくる臭いには、
『ご飯置いとくね。あと「朝までには戻りなさい」って伊吹ねぇちゃんが。 金次』
「……サンキュー。金次」
木の実とミミズを食べ、ネズミを丁寧に埋葬すると俺は腰を上げる。山の夜は冷える。穂田たちも明け方までは動かないだろうし、俺も一旦巣穴に戻るかと思ったのだ。
「…………ん?」
動こうとした俺の耳に、カサリとビニールの布がこすれる音が聞こえてきた。次いで「ジーーッ」とジッパーが引かれる。見ると、たくさんあるテントの一つの口が開き、一人の人間が出てきていた。そのテントは、俺がずっと見張っていたテント。出て来たのは、
「穂田?」
穂田龍星だ。テントの中から登山靴を取り出して履き、薄く張られた雪化粧の上を踏みしめて行く。手に持つ懐中電灯の明かりが、やけにまぶしかった。
俺は、雪道を踏みしめて歩く穂田を慎重に尾行する。雪道で音を立てずに歩くのは大変だ。雪を踏みしめるたびにザクザクと氷雪の砕ける小さな音が足元から響き、静寂の山の中に反響する。が、それは穂田も同じことなので俺の足音がバレることはなかった。
ただ、穂田は時折、何かを感じている様子で振り返ったりしていたが。
穂田は、テント場からかなり離れた地点で足を止めた。そこは、傍目には何の変哲もない森の一角。振子沢を流れる川を生み出す大滝がある場所だ。
この大滝には、俺も何度か足を運んだことがある。春の澄んだ雪解け水は味も良く、心が洗われるような心地がして、気が向いた日にはここで一人佇んでいる。
そして、俺と穂田にとっては、特別な場所でもあった。
穂田はポケットに突っ込んでいたある物を取り出した。缶詰めの乾パンだ。それを滝のほとりの岩の上に置き、もう片方のポケットに入れていたコーヒーを二缶置いた。
後は何をするでもない。穂田は一人、コーヒーを飲みながら乾パンを口に運ぶ。とても、穏やかな目で。
――ここは……穂田の奴……。
『へぇ、いいとこ知ってたな』
『親父と何度かこの辺りまで来たんだ。その時にさ、何かここの景色が気に入っちゃって』
『ふっ、流石はタヌキ。山の事ならなんでもござれ、だな――へぶぅ!!』
『タヌキはやめろ! 入学早々お前が俺のことをタヌキ呼ばわりするからもう全校生徒に“俺=タヌキ”の図式が成り立ってんだぞ!!』
『元からそのあだ名だったんだろう? なるべくしてなった。そう、俺とタヌキの熱い友情の始まり――がふぅ!!』
『いい加減にしろよテメェ』
俺の脳裏には、在りし日のの光景がありありと思い起こされた。
そうだ、山岳部での初めての活動。この時は、新入生で山岳部に入ったのは俺と穂田だけで、一人だけ先輩と顧問の先生に激しく歓迎された。そして、その初めての登山活動が終わった日の深夜。俺と穂田は懐中電灯とコーヒー、それに乾パンを持って密かにこの大滝の前まで来た。
危ないのは分かっていたが、俺はどうしても穂田と二人でここに来たかったのだ。高校に入って、初めての友達になった穂田に、どうしてもここを知ってほしくて。
ここでしばし談笑して、これからも山岳部で楽しくやって行こうと決めて、先輩が引退するまでになんとか部員を増やそうと話して……。
高校生活が始まって、新しい環境に翻弄されていた一年生の四月という時期で、最も充実していたと思う一時。そして、
『なぁ穂田。来年もさ。二人でここに来ないか?』
『いいぜタヌ――十九川。……しかしこういうのってさ。漫画みたいだけど、悪くないよな』
『だったらこういう時は酒を飲み交わすんじゃないのか?』
『ははっ、それは顧問団だけだろ俺らにはまだ早い……けど、飲んでみたいよな、ビールでもさ』
そう、来年もここで語らおうと約束した。そして、それが出来なかった、俺は……。
穂田は一人、変わらず穏やかな目つきで滝を眺めていた。
俺は、自分でも気づかぬうちに、少しずつ穂田に近づいていた。知らず内に足音は忍ばせるが、やはり氷雪を踏みしめる音は隠しきれない。穂田は、くるっと首を回して、何気ない風に俺の方を見た。
時が、止まった。
穂田は何気ない風に俺を見て、俺はそれをまっすぐ見返す。タヌキ――十九川悠治と人間――穂田龍星の邂逅。流れ落ちる滝の音だけが、その場を支配した。
どれくらいそのままで居ただろうか。多分そんなに時間は経っていない。なのに、俺には一時間は経過したように感じた。
その沈黙に耐えかねたのは俺だった。「キューン」と、いつもの可愛げのあるタヌキの鳴き声を漏らし、小首を傾げながら穂田の表情を覗き込むような格好になる。穂田は、その声に撃たれたようにはっとなり、だが、何をするでもなかった。ただ、「へぇ、タヌキか」と呟いただけだ。
「おいタヌキ。やることないんならよぉ、ちょっと付き合え」
穂田は軽く手招きした。俺はそれに倣い、穂田の足元まで近づいた。
心臓は激しく高鳴っていた。野生のタヌキに会ったくらいでは動じない奴だろうが、その態度から「もしかして気づいてるんじゃないか?」という、淡い期待があったからだ。
穂田が腰かけている岩の横に飛び乗ると、穂田は缶を振って手のひらに乾パンを乗せ、俺に突き出してきた。
「食えよ。どーせこれに釣られて出て来たんだろ?」
手のひらの上の乾パンから香ばしい匂いが漂い俺の鼻孔をくすぐる。久しぶりの人間の食べ物で、思わず涎が垂れる。
「うわっ、きったねぇ! 涎なんて垂らすなよ! んーなに腹減ってんのかお前は?」
一瞬ひっこめられかけたが、穂田は笑って俺の口元まで乾パンを突き出した。俺は我慢できずそれを貪る。
ボリボリ。
決して上等なものではない。本来ならただの保存食だ。だが、懐かしさあふれる香ばしさが、俺に乾パンを食べるのを辞めさせなかった。気づいたら、もう全部食べ尽くしていた。
「なんだよ、あいつみたいだな。こんなしょーもない物を全部喰っちまうなんて」
『あ!? 乾パンもうないのか!?』
『うん? ああ、俺が全部食った』
『タヌ――十九川、お前こんなの好きなのか?』
『素朴な感じでうまいんだ』
穂田はまた朗らかに笑うと、缶コーヒーを飲んで「ふぅ」吐息を吐き出す。コーヒーの苦みを伴った吐息が、俺の中の懐かしさを増大させた。
「よーし喰ったな。んじゃあお前は俺に恩があるんだ。ちょっと愚痴に付き合え」
穂田はまるで人間の知り合いにそうするように、俺の肩を腕で抱き込むと、のんびり話し出す。
「実はさぁ、俺のダチが死んじゃってよぉ。そいつとは今日ここで語らう約束だったんだ。なのにいないもんだから、俺は一人酒ならぬ一人コーヒーってな」
穂田は缶から乾パンを直接口に流し込んで咀嚼する。
バリバリと。
「ホントは鹿目を誘おうかと思ったんだ。だけど、タヌキが居なくなってから元気なくてさぁ、今日も体調不良で来なかったし……あ、お前の事じゃないぞ。俺のダチはタヌキってあだ名なんだ」
んなこと知ってる。
そうか、鹿目は体調不良なのか。それに、やっぱり元気もなくなってるんだな。……穂田と同じように。
「んでさ、ダチが居なくなったってのは結構堪えてよ。俺もちっとナーバスになってたんだ」
そう、だな。
今日の穂田は、いつもよりかなり落ち込んでた。傍目にも分かる。そもそも、それが今の山岳部の悪い空気を作ってるんだ。
「あいつがいないってのは、ホント、きっついわ」
穂田はぐっと腕に力を込めた。俺の身体が締め付けられ、少し苦しくなる。だけど、俺は振りほどこうとはしない。変わりに、穂田に頭を擦り付けてやった。タヌキの俺には、このくらいしかできないしな。
「……あったけぇ。サンキュー。少し気分が楽になるわ。……なんだろな、タヌキが、近くにいるみたいだ。はは、何を言ってんだか。タヌキタヌキって……どっちのこと言ってんだか、俺にも分かんねぇや」
轟々と、激しく滝は流れ落ちる。
それからきっかり一時間、穂田はずっと俺を離さなかった。俺も、離れようとは思わなかった。
そして、穂田はそろそろとテントに戻る。俺に一言「ありがとよ、また会えたらいいな」と告げて。俺はそれを見送ってから、夜が明けるまでテント場の見える斜面に座っていた。
ぼんやりと、しばし考え事に耽りつつ。
――あいつ、もう、大丈夫なのかな……?
***
「――起きろぉぉぉおおおおおおおお!!!!」
バサッ!!!! と、テントの戸が激しく開かれる。勢いでテントのジッパーが噛み、ガッと途中で止まってしまうのだが、穂田は構わず力任せに開いた。おかげでテントのジッパーが壊れたのは言うまでもない。
「ちょっ!? なんですか先輩! いきなり」
「うぅ寒い」
「…………結局一睡もできなかった」
口々に不満を口にする後輩たちに、穂田はニヤリと笑みを浮かべた。
「今日は雪上登山の訓練! そんなだらしないこと言ってたら怪我するぞ! 果ては滑落だ!」
それに、と、穂田はあえて含みを入れてから口の中で小さく言葉を紡ぐ。
「これから女子の方も叩き起こす。ムフフな展開が見れるかもよ」
後輩たちの不満がピタリと止まる。が、すぐに我に返り大慌てで先輩――穂田を止めに入る。
「え!? まさか覗きに行くんスか?」
「おうよもちろん!! 男の夢だろうが!」
「い、いや、それはやめた方が……」
「そうですよ!! 大体朝からこんな騒がしくしてたらほかの学校の迷惑に……」
「んーなこと気にすんな! どーせもう起床時間なんだからさ! 目は覚めただろ? さっさと寝袋しまって朝飯の準備だ。で、俺は……」
穂田はすでにしまいこんだ寝袋を見せびらかし、これからの行動を予見させる。そして、後輩たちが止める間も無くテントの外に飛び出し。
「……あれ? 先生?」
穂田の背後に控えていたのは、どっしりと雪を踏みしめ腕組みの姿勢で立つ身長一九○センチの巨漢、山岳部顧問の霊山敏宏だった。
「穂田。……いい度胸だ。最近といい昨日といい、おとなしかったから少し励ましてやろうと思ったが……なるほど、猫を被っていたわけだな。それももう限界、と」
「い、いやー……そそそ、そんなことないっすよ。俺は……」
「お前が起こす必要もなく、女子隊ならすでに朝食の準備に入っている。……後は、お前に制裁を加えるだけだな」
「あ、あははー」
穂田は履き辛い登山靴を雷速で履き、駆け出す。が、すんでのところで霊山に首根っこを掴まれた。
「みんなは先に朝飯の準備をしておくように。後、今日の行動はサブ行動だからな。サブザックに必要なものを詰めただろうから確認しとけ」
「み、みんな! 今こそ先輩を助け――」
穂田の言葉は最後まで紡がれることなく、その顔面は冷たい氷雪の大地に叩きつけられた。
***
「いってぇ~……あの暴力教師め。顔が霜焼けになるだろが……」
赤くなった顔を押さえながら、穂田は隊の先頭を歩く。そこでふと、思い出したことがあって振り返った。
「そうだ、みんなに言っとくことがあった」
部員たちは思わず身構える。今朝の異常なテンションから、“穂田龍星”という先輩の内情の一端を見たからだ。いったいどんな言葉が飛び出すのか、恐れ半分期待半分、といったところ。
そんな後輩たちを見て、穂田は言葉を続けた。
「今夜さ、我が部の伝統にしたいことをやろうと思うんだ。消灯なってからだから、二十一時くらい。テントの前に出てこいよ」
ぽかんと、一瞬何を言われたか分からないような後輩たち。それを代表して、一人の女子が聞き返す。
「あの、何をするんですか?」
穂田は「うんうん」と頷いてから答える。
「俺のダチが教えてくれた絶景スポットを見に行こうって話。覚えとけよ」
その日の夜。新たに山岳部に入った部員たちは、穂田とその友人が語り合った大滝の前に向かった。そこで山岳部の活動や穂田の経験を聞かされ、今後の部活動に期待を抱くのだった。
もう一つ。
その様子を和やかに見つめるタヌキが一匹。その両耳には、くっきりと歯形が浮き出ていた。
今年最後の投稿ですね。
来年もよろしくお願いします。