第4話 タヌキの○○○は挨拶だ
お食事中に読むのはやめましょう。絶対。
流石に巣穴の中でするのは嫌だ。衛生的に、それ以上に、精神的に。
重い瞼を開き、俺は巣穴からのっそり顔を出す。目を擦るという動作が出来ないことが、以外にも不便に感じる。まぁ、差し込んできた朝日がちょうど目に当たり、否応なく眠気は飛ばされたが。
ここは山の中。それも人も立ち入ることのない山奥深く。どこで用を足したって関係ないさ。
適当な木の陰に移動して…………ん?
ふと、何かの臭いが鼻を突いた。餌……ではないな。そもそも、今はお腹いっぱいに食べてきたのだから食べ物に釣られることはない。だが、なんとなくそっちに引っ張られる。
用を足してからの方がいいだろう。目下の用事を済ませてから、気にかかる原因についてゆっくり調べればいい。だがなんだろう。どうしてかそっちに引っ張られる気がする。
無視して用を足してしまおうとも思ったが、どうしてもその臭いの原因が気になって仕方ない。しかも、気になり過ぎて便意が吹っ飛んでしまった。
――これじゃあ仕方ないな。
寝ながら出てしまっても嫌だし、とりあえず臭いの元を確かめて、それから用を足せばいいか。
この後の行動を結論付け、俺は臭いをたどってその元凶へと向かうことにする。
***
草をかき分け、融け残った雪を踏みしめ、臭いの元へと急ぐ。俺の意識の中に突如として現れ、そのウェイトの大半を埋め尽くした原因に向かって。俺はとりあえずそこに向かって進んだ。
谷に囲まれた俺の巣の近くは、一度日が射し込めば一気に明るくなる。すでに辺りは朝の陽ざしに包まれていた。見上げて仰ぎ見る太陽の位置からして、時刻はおそらく十時前くらいか。タヌキの就寝時間はとっくに過ぎていた。だが、俺の意識を埋め尽くすそれを確かめないと、一睡もできる気がしなかった。
そして、それは案外早くに見つかった。
黒っぽくて真ん丸なモノが積み重ねられている。いや、積み重ねられているというか、集められている……のか? ――つーかコレは!!!?
その丸っこい物体には見覚えがある。って見たことがあって当然。なにせ昨日も、一昨日も、その前の日も、タヌキになってからは毎日見たからだ。俺自身が排出した――排泄したそれを。
――な、何でこんなものが……。
まぁ、そこに積み重なっていたのは、言うまでもなくタヌキの糞である。
――臭いの元はコレかぁ。
……そりゃ鼻につくよなぁこんなの。しかしなんでこれが一か所に溜められてんだか。あれか? タヌキも衛生志向で公衆便所とか作ってんのか?
と、そこで俺の脳が刺激される。タヌキになってしまう直前、聞いてもないのに穂田がタヌキの説明を始めたが、そこにこんな言葉があった。
『特徴的なのは【溜め糞】と呼ばれる行為で、他のタヌキと共有のトイレをあちこちに作り――』
散々聞いた俺からすれば、必要な情報は脳内から芋づる式にするすると引き出された。
タヌキの【溜め糞】と呼ばれる行為の理由は分かっていない。タヌキはナワバリ意識の強い動物ではなく、複数のタヌキのナワバリが重なっても気にすることはない。そんな中で形成された【溜め糞場】は人間の目線からは公衆便所になる。
排泄行為は野生動物にとって重要だ。野良イヌや野良ネコがあちこちに小便をするのも、ここが自分のナワバリだと知らしめるため。また、肛門の臭いを嗅ぐことはイヌの挨拶であるという話もある。
タヌキに話を戻すが、タヌキは公衆便所よろしく複数のタヌキ通しで共同利用する【溜め糞場】を形成する。俺が知っている限りの知識では、この【溜め糞場】はタヌキ通しのコミュニケーションのためではないかと予測されている。互いの糞の臭いから、その周囲に住んでいるタヌキの情報を得るのだとか。一種の情報掲示板のような扱いである。
さて、そこまで思い出したうえで、俺は排泄物の溜まり場に目を向けた。
――これが、情報交換の場?
知識では分かっている。これが野生動物にとってどれだけ重要なのかも理解しているつもりだ。だが、元人間である俺からすれば、大きく首をかしげるのは当然だ。
だって糞の溜まり場なんだぞ!? 衛生的に嫌悪感を持たざるを得ない。
汚物――排泄物の溜まり場で、何の情報を交換するって言うんだ!? この場所から俺が読み取れることといったら「ああ、今日も健康な糞ですね。よかったよかった~」くらいだろうが!! しかも、その糞が誰のものか判別できる訳ねーし!
しばらく、呆れた気分でその場にとどまり、ふと思い出す。そういえば、俺も用を足すために巣穴から出て来たんだ。そして、ここの臭いに引かれたのも、タヌキとしての意識と俺の現状が大きくかかわっているのだろう。じゃないと、進んで排泄物のたまり場になんか行くわけがない。そうだと思いたい。
というわけで、さっそくこの公衆便所(タヌキ用)を活用するか。ちょっと失礼して……。
――さて、用事も済んだし、帰ってひと眠りしますかぁ。
帰路に向けた足が……しかし何か引っ張られる感覚が俺の足を止める。いや、俺の感覚というより、タヌキの本能。五感の内の一つ――嗅覚が大きく反応してるぞ。その向かう先は……。
できたてホカホカの俺のウ○○。
……なんか、へこむわー。
なに自分の排泄物に反応してんだ俺は。悲しくなってくるぞ。俺はウ○○を突っつく人型ロボットじゃないんだ。何が悲しくて……いや違う。
タヌキの感覚が、臭いの中から何かを感じている。確かめなくてはならない気がする。確かめ、なくては……ならない……のか?
――確かめるって……アレを!?
…………はっはっはー。それはつまりアレですね。初対面の犬同士が互いに尻の匂いを嗅ぎ合うみたいなアレですね。その上位版ってわけだ。つまりはー、俺はー、あの自分の排泄物とー、他人の排泄物がまじりあった掃き溜めにーちょんと尖った鼻を近づけてくんかくんかしなければならないんですねー……って馬鹿!!!!
どんな想像してんだよ! 何が悲しくて公衆便所の臭いをくんかくんかしなきゃいけないんだ! いくらタヌキの習性つったってこれだけはやりたくねぇわ!!!!
俺は断る、断固断る!!
が、タヌキとしての本能か、俺の脚は地面に縫い付けられたかのようにその場から動かない。それどころか、そろりそろりとその公衆便所に体を寄せていく。
――いやだー! それだけは御免だー!! んなことしちまったら、俺の元人間としての尊厳とか意地とかその他諸々いろんなものが泡となって天に昇っちまうわ!!
絶対、絶対やんねぇからなぁー!!!!
***
が、やはりタヌキの本能には逆らえなかった。
くんかくんか。
俺は出来るだけ遠ざかり――と言っても鼻から数センチ先には掃き溜めの塊が――排泄物の臭いを嗅ぐ。
――ああ、親父お袋親戚一同友人達。そしてその他諸々よ。こんな俺を見ても、嫌いにならないでください。
さて――嫌々だが――、意を決して――タヌキとしてはノリノリで――、人間としての尊厳をぶち壊し――タヌキとしてはごく当たり前に――、まさに精神を削る思いで手にした情報を整理するとしようか。
驚くことに、この【溜め糞場】からは実に様々な情報が得られた。この付近のタヌキの情報なんかもたくさん得ることが出来た。その成果を俺の感想を交えて発表していこうか。
それでは、
『先日、不覚にも風邪をひきました。 大吾』
……うん。どっかの大吾とか言うタヌキが風邪をひいたらしい。
『冬籠りしてました。お腹空いたのでいい餌場があったら教えてください。 郁夫』
あ、郁夫さん。それ俺にも教えてもらっていいですか。情報リークしてください。
『こないだ、第一掲示場を人間が誤って踏んで変な奇声上げてました。年増の女性です。うるさかったなぁ…………ザマァ、プギャー! 辰巳』
第一掲示場って……やっぱり【溜め糞場】はあちこちにあるんだな。
ところで辰巳さん。それ、どこの人間でしょうね。ちなみに、二週間くらい前にお袋が親父と冬山登山に行ってきて、帰った後鬼神のような顔で靴を洗ってたんですがあのその。
『初めまして。先日このあたりに引っ越してきました。今後ともよろしくお願いします。 伊吹』
あ、どうも伊吹さん。たぶん俺も新入りです。今後ともよろしく。
『数日前でしょうか。見知らぬタヌキがすごい形相で毒キノコをむさぼってました。怖くて近づけなかったのですが、どなたかあのタヌキをご存じないですか? 嘉六』
……そんなに怖かった? 俺、人畜無害なタヌキを心掛けていこうと思うんだけど……怖かった?
『もう一ヶ月の間、朧さんを見なくなったのですが、どなたかご存じないですか? 景千代』
存じませぬ。
『冬って暇だよー誰か遊ぼうよー 金次』
金次君。暇なら赤い斑点のあるキノコを食べなさい。少なくとも三日は暇が潰れるぞ。
『フキノトウの群生地を見つけました。郁夫さん一緒にどうですか? 常盤』
常盤さん。郁夫さんと一緒に俺も連れてってください。
『本当ですか!? ぜひ一緒に行かせてください。どこに集まりましょうか? 郁夫』
ぜひ連れてってください。あ、でももう終わっちゃったんですかね?
『それでは第五掲示場でお会いしましょう。 常盤』
『分かりました。よろしくお願いします! 郁夫』
ああ、何かこの山菜を食べる話はもう終わってるっぽいな。ま、しゃーないか。つか、土壌微生物ども。古い排泄物はさっさと処分してくれ。
『先日、人間の町で若い方が亡くなられたそうですよ。いつもの神社でお祈りしません? 暇つぶしに。 久松』
タ、タヌキにまでお祈りされてたのか……地味に感動だ。……でも、暇つぶしなんですね。
『僕は冬の食べ物と言ったらネズミが一番だと思うのです。穴の中でぐっすり寝ているネズミを脅かしてパクッと……皆さんはどう思います? 忠吉』
ネズミ、タベル、ダメ、ゼッタイ。
ミミズとか木の実のが美味しいと思うのよ、俺は。
『常盤さん、今度会えませんか? 美味しいネズミを持ってディナーなんていかがですか?』
ダカラ、ネズミ、喰う、ダメ、絶対!
『本当ですか? ぜひとも窺わせていただきます。郁夫さん(はぁと)』
…………リア充タヌキ死ねっ!!
『常盤さ~ん(はぁと)』
『郁夫さ~ん(はぁと)』
うがぁああああああああああああ!!!! 排泄物で何逢引きしてんだクソタヌキどもがぁああああああああああ!!!!
とまぁ……俺が精神を削り倒して得た情報は実にくだらないものだった。特に常盤と郁夫とかいうリア充クソタヌキ!
いちよう――クソだらけだが――ここはタヌキ同士の情報交換の場所なんだろ。そこで何やってんだこいつら。
これを俺の常識に当てはめるとだな、インターネットの情報交換サイトで堂々と逢引き、さらに一歩踏み込んだことをやらかしてるんだこのタヌキどもは。出会い系サイトとか俺は知らないけどさ、そういうのはそっちでやれっ!!
排泄物に鼻を近づけるという暴挙を――しかも自分の意志で――やらせといてどんなクソな話を知らせるんだよ! いや、確かにクソに鼻を突っ込んだけどさ。
――もー嫌だ。やってられん。帰って寝る!
ただ他にもこういう場所はあるらしいし――嫌だけど――タヌキ同士の情報を得るためにも何度か顔を出さないとな。
そう決めて住処へ足を向け、俺はふと、あることに気づいた。それはさっきのクソの塊な情報交換掲示板。
そこにもう一つ、俺以外が残した比較的新しいウ○○から漂ってくる臭いとそれに添付された情報だった。
『明日、今月の大山タヌキ集会を行います。大山山系在住のタヌキの皆様、ぜひともお越しください。 鈴之助』
…………大山、タヌキ集会?