第3話 タヌキの食糧事情
キュルルルルゥ……。
穴の中に、空しい腹の音が反響する。
キュルルルルゥ……。キュルルルルゥ……。キュル、キュルゥキュルルゥ。キュッキュッキュルゥ。
……タヌキ悠治先生の空腹虫演奏会。
前売り券は五〇〇円。当日チケットは一〇〇〇円だ。世紀末の演奏家、タヌキ悠治先生の大演奏会。観客満員で拍手絶賛。次回もお楽しみに!
……何を言ってるんだ俺は。
俺は見つけた巣穴の中に居る。タヌキ生活はそろそろ一週間を迎える。空腹が酷い。
雑食なんだから適当に何か食べればいいだろうと、そう考えたのが運のツキだった。
タヌキ生活四日目の夕方のことだ。俺は食料確保に出かけた。生活に必要なのは衣・食・住。その内の衣・住はすでに解決した。俺はタヌキなんだから、体を覆う毛が「衣」で相違ない。つまり「衣」はタヌキになったその時点で解決済み。「住」についてもタヌキ生活三日目にてちょうどいい穴を見つけたのでそこを俺の拠点とした。……拠点って言い方、なんとなくカッコいいよな?
そして圧倒的に足りないのが「食」。巣穴を探している最中にキノコを一つ食べたが、タヌキになって以来、口にした食べ物はそのキノコただ一つ。だから四日目の時点で空腹度はすでに臨界点を突破していた。四〇〇パーセントくらいで。
俺は、もはや正常な判断を下せる状況ではなかったのだ。寝起きで食料探索に行ったのも、それに拍車をかけていた。
巣穴から出てすぐ、拠点のそばに数本のキノコが生えていた。
なーんか色も赤いし、怪しさ満点だったキノコ。だが、昨夜散々歩き回って巣を発見し、ふらふらながらに見つけた食べられそう?――冷静に見れば食えるわけがない――な食材。その時の俺に我慢が出来る筈もなかった。
飢えた百獣の王よろしく、俺は獲物に飛び掛かった。ライオンは一匹のウサギを狩るのにも全力を尽くす。俺も、動かないキノコを食すのに全力を尽くすのだ。貪るようにして、一帯に生えていたキノコを喰らい尽くした。
そして、ものの見事に食中毒に苛まれた。
味は、悪くなかったよ。空腹だったおかげかもしれないが。
以前、穂田がフグ料理について「毒があっても食ったらうまい」なんてことを言っていた。通のフグの食べ方は毒の処理をしっかりした上でフグの血をほんのちょびっとかけて食べるらしい。舌がピリピリする感覚が堪らないんだとか。
その「ピリピリとした感触」とは、要するに毒が効いているのだ。量を間違えたらフグ中毒で死ぬ。
その考え方を、身をもって――毒の食材を食べたという点において――知った俺からすれば、確かにうまいけどその反動がデカすぎる。
そうしてキノコの毒に中った俺は、気持ち悪さと吐き気と寒気――と空腹感――に襲われながら、巣穴の中で地獄の3日間を過ごした。
ようやく収まったのが今日だ。まだちょっと気持ち悪いが、これ以上何も喰わなかったら餓死まっしぐらだろう。うん、やるしかない。サバイバル飯の幕開けだ。
***
まずは巣穴の近くを流れる川で喉を潤す。雪解け水の冷たさとうまみが五臓六腑に染み渡る。いつ飲んでもうまい。水道水を直接飲める環境は都会からすれば感嘆ものらしいが、こうして毎日天然水を飲めるのは、さらに贅沢だな。
水を飲み、ついでに近くの溶け残りの雪を齧って頭をしゃっきりさせると、俺は巣穴付近を後にして山中を歩き回ることにした。
――タヌキの食べ物かぁ、なんなんだ?
それが、目下俺の疑問である。タヌキが雑食というのはこれまで何度も話したが、いざ何かを食べようと思うと、とたんに迷ってしまう。見境なく口にすればキノコ毒の二の舞だ。人間の頃と同じ食べ物でもいいのだろうが、しかし山にあるもので食べられる物って……?
真っ先に浮かぶのが木の実とかなんだが……実りの秋ならまだしも、今は芽吹きの春。木の実なんぞどこにも見当たらない。
……キノコは? あれも秋の味覚だが、基本、生育条件が整っていれば年がら年中生えている。……ってことはやっぱキノコが狙い目か?
……いや、出来れば避けたい。地獄の三日間を過ごす元凶になったのは、そのキノコだ。空腹に負け、闇雲に口に入れた結果がこの三日間だ。種類も分からないのにキノコを口にするのは危険の方がデカい。
だが、いざとなったらキノコを食べなければならないのだろう。だから、キノコを食すのは、最悪の場合だな。本当に何も見つからなかった時だ。三日間のトラウマが、俺にキノコを食すのを憚らせる。キノコ全般が毒ではないのは分かっているが。
人間の頃はいろいろ食べた。エリンギ、エノキ、シメジ、マイタケなどなど。お袋が作るエリンギの天ぷら。あれは俺の大好物の一つだ。毒キノコを食べた後だと、きちんと管理し、栽培されたキノコの大切さが身に沁みて分かる。
さて、木の実もダメ、キノコもダメ、となると……あとは何がある。魚か?
だけど巣穴周辺の上流では「魚」の「さ」の字も見つからない。俺の巣穴のある場所の川は雪解け水の流れが速く、水底まで十センチ前後。とても魚が過ごせるような流域ではなかった。もう少し下に行けば川幅も広く底も深い、魚が住める場所があるのだろうが。
魚も難しいとなると……爬虫類はどうだろうか? 蜥蜴とか。口に入れた時を想像すると気持ち悪いが、四の五の言ってはいられない。世界ではスッポンやウミガメを食すとこもある。日本でも、蛇を食べる習慣があったとか。以前親父から感想を聞いたことがあるが「かば焼きにしたらウナギみたいで美味しかった。精力がついた」らしい。しかし、タヌキの俺ではうまく蛇を狩れるかどうか。
そもそも三月という時期に蜥蜴や蛇がうろついてるだろうか?
三月は、世間では卒業式があったりして春の訪れを感じる時期だ。だが、ここは標高900m近い山の中。狼山の山頂付近(1202m)や大山山頂(1709m)は厚い雪に覆われ、このあたりもまだ冬を感じさせる寒さ。雪だって、溶け残りをあちこちに見かけるのだ。爬虫類たちはまだ冬籠りの最中かも知れない。
もう少し下に降りてみれば、冬籠りから目覚めた動物たちを見かけるかもしれないが、ここはまだだろう。
食べられそうな動物は、残念ながら見つからない。
巣穴を手に入れて早々だが、一旦下に降りてみればなにか食べられそうな生物がいるかもしれない。
よし、そうと決まればいつまでもここに居る訳にはいかない。
俺はもう一度水を口に含み、のどを潤すと川に沿って降りる道を選んだ。
***
かなり下ったが、このあたりならどうだろうか?
辺りに溶け残りの雪は見当たらず、緑の雑草が僅かながら顔を出し始めている。うん、これなら何かしら居そうだ。
俺が今居るのは山の麓。山神を祀る【白狼神社】の長い階段がある付近の森だ。結局、それなりに町の近くまで下りてきてしまった。ここにたどり着くまでかなり時間が経過した。おそらく、住処に戻るのは二日後になりそうだ。つまりは食料を探すためにわざわざ遠征をしているのである。サバイバルにはあるまじきではないか?
が、それだけすれば発見もある。
まず降りる途中で穴を掘る技能を身に着けた。というのも、山を下る途中に俺の鼻がモーレツに反応した。すごくうまそうな匂いを感知したんだ。それはもちろんのこと、待ち望んだ食い物の匂いさ!
俺は己の鼻に従って「ここ掘れワンワン」見たく穴を掘った。その先には、金銀財宝があると信じて。
ザクザク必死に掘った先に見えたのはくりっとした小さな木の実。硬くて茶色い木の実。ドジョウとコンビで民謡にもなった子供に大人気の木の実――そう……ドングリ!!!!
……ドングリ。
ドングリって、どうやって食うんだ? と思ったのはほんの一瞬だ。
俺はタヌキの本能に従って硬い殻を食い破り、中の薄ら黄色がかった身を一気に齧り尽くした。
そこで気づいたのだが、ドングリってかなりうまいのだ。栗とかと形が似ているからだろうか。それと同じ感覚でがりがり食べることが出来た。
何でこんなところにドングリが? なんてことはどうでもいい。
おそらくうっかりやのネズミやリスが、せっせと隠したのに「あ!? あのドングリはどこに隠したんだっけ?」とかそんなオチだろうさ。
そんな忘れん坊ネズミorリスに感謝しつつ俺は鋭いタヌキの嗅覚で隠された財宝――もとい木の実を発掘することが出来たのだ。秋の恵みだから諦めかけてたけどさ、その忘れ形見みたいなのがあちこちに落ちてたりするんだな。
いやーラッキーラッキー。
そんなことがあって、山の麓に降りる必要もなく、少し腹を満たすことが出来た。
そして、今は人里にほど近い森の中で土を漁ってるんだ。このあたりならまた別の食糧が見つかるかもしれないからな。
俺の目標は巣を出る前と今では違っていた。巣を出た時は食料の確保。今は、タヌキの俺が問題なく食べられるものは何があるか。
鼻を地面近くまで寄せて匂いを嗅ぐ。何もなければそのまま少しずつ移動し、匂いを探索。匂いセンサーが一瞬でも反応すれば、がむしゃらにそこを掘るべし掘るべし!
で、見つかった忘れ物の木の実を口に運んでいく。見つかるのは大体ドングリ。芽吹きかけているドングリも、寒さで芽吹くことが出来なかったドングリもお構いなしだ。この時点で、俺はドングリの味にすっかりはまっていた。人間だった頃も食べてみればよかったとさえ思ったほどだ。
人間時代に見つけられたら、今みたいにひたすら生のドングリを食べ続けるんじゃなくて、ちょっとした調理も出来たのに。
――ああ、ドングリ料理も模索できたら面白かったかな……。
ぼんやりと、そんな思考が頭を過る。
かさっ。
――ん?
枯葉のこすれる僅かな音。それを俺の耳が敏感に察知した。
タヌキの耳、野生動物の五感ってのは馬鹿にできないモノだ。人間だった時よりもたくさんの情報が流れ込んでくる。僅かな水のせせらぎに気づけたのも、この聴覚のおかげ。
そしてタヌキは夜行性生物であり、人間と比べたら夜目の効きは段違いだ。夜中に歩き回った時は、まさに「世界が変わった」という印象だ。タヌキの身で歩く夜の世界は、完全に別世界なのである。
俺は音のした方向に嗅覚と視覚を向け、意識の多くを聴覚に向ける。
カサリ
また音がした。もう聞き違うはずがあるまい。俺は足を忍ばせ一歩、また一歩と音の原因に近寄る。俺が足を踏みだすたびに、カサリと腐葉土の上の枯草が小さな音を立てる。その一つ一つすら消し去るような慎重さで、俺は歩みを進めた。
――いた。
小さな小動物だろう。線のように細い尻尾が腐葉土の上を踊り、生え始めの僅かな草の間を縫って消える。
どうやら、小動物は俺の気づいていない……が、何かを感じているようで、警戒心を逆立てて当たりの様子を窺っている。俺と小動物の間の距離は、目算して……五メートルくらいだろうか。かなり接近することが出来た。
すると、「ピクッ」っと小動物の身体が緊張した。そして、わき目も振らず、一心不乱に駆け出した。
――バレたっ!?
小動物が駆けだした一瞬後、俺の身体も走り出す! 全身に循環させた力を解放し、一瞬で全身をバネの様にして走った! 目標目がけて。
走る、走る、走る!
速いな。
目標は体長が十センチにも満たない小動物。それは確かだ。小さな、小手先の身体をしなやかに躍動させ、茂みから茂みへと移動する。
だが逃がさない。俺だってこの一週間――三日間は寝込んでいたが――、なんとかタヌキの体を慣らしたんだ。今、この場はその集大成を見せる場なのだと、俺にはそう思えた。
夜闇に包まれた森の中でも俺のタヌキ眼は光る。そして、また別の茂みに移ろうとした小動物を、ついに俺の前脚が捕らえた。当然、小動物は暴れるが前脚2本で押さえつけて離さない。
――よっしゃあ!! 獲ったあ!!!! ……あれ?
が、そこでふと思った。こんな森の中で、小動物なんてたかが知れてる。森にすむ小動物はせいぜいネズミがいいとこ。後はリスとか……生息条件が整ったらモモンガ、天然記念物のヤマネなんかもあり得る。もしかしたら俺の知らない小動物だったのかもしれないが、それでも共通していることがある。それは、俺が知る限り全ての小動物が持つ身体的特徴。
――め、めっちゃかわいいんだけど……
思わずため息が零れた。
ちょんと突き出た愛くるしい耳。俺のそれよりもクリクリとしていて真ん丸とした目。僅かに開かれた口から鋭い牙を覗かせ激しく威嚇しているが、そんな姿も愛くるしい。
やはり種類は分からないが、とりあえずコイツはネズミ……なのだろうか。線のように細いかと思った尻尾はフサフサの毛が生えていてそれなりの太さがある――様に見える。
もしもコイツがネズミなら、人家では叩き出す。間違いなく。だが、森の中で見つけたそいつはハムスター顔負けのプリティマウスだ。下手するとネズミよりも小さい。体長十センチにも満たない小柄な動物。
「タヌキってさ、森で小動物を食べるんだってよ」
以前、穂田が聞いてもないのに自慢げに話したタヌキの生態、その一部分を脳内で反芻する。タヌキは小動物も食べる。ここでいう小動物は、当然ネズミも入るんだよな。
つまりは……あれだ。俺は、これから生きるために、このネズミも食さなきゃならん、と。
改めてネズミ(暫定)を視界に収める。犬歯をむき出しに威嚇するネズミを見て、俺もギラリと牙を閃かす。
途端にネズミの顔には怯えがありありと現れ、全てを諦めたかのように目を閉じた。プルプルと目元を震わせ、さらに全身を震わせ、しばらく恐怖に打ち震えたのちに、嘆願するように、上目使いで俺を見上げた。
俺は相変わらず牙を閃かせながらネズミを見下ろしている。それに気づくと、ネズミはまた目をつぶった。
追記しよう。俺はネズミを飼っていた。俺が「ウリ」と名付けたカヤネズミを。
――……俺は、お、俺は……この、ネズミを………………。
食べる。
食べざるをえない。
食べなきゃならない。
食べなきゃ俺が死ぬ。
それこそが自然の摂理。弱者は強者に食べられる運命。
食べる。
ネズミを、食べる。
愛くるしかろうと、ネズミを食べる。
ネズミを……食べ、なきゃならない。
食べ……食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べたくない食べる食べやくない食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べる食べたくない!!!! 食べる!!!!
「うわあああああああああああああっ!!!!!!!!」
***
俺は、ため息交じりに巣穴に帰宅した。腹は満たされたが、あの場の行動が果たして正しかったのか。タヌキとして、元人間として。
結果的に言えば、俺はネズミを食べることが出来なかった。あのか弱き小動物の嘆願を、俺は無下にすることが出来なかったのだ。
そろそろと俺が脚をどけると、ネズミは一瞬「あれ? 何で?」みたいな顔をして、苦悩に満ちた表情だったろう俺の顔を見ると、ゆっくり、一定の距離を取ってからは速やかに去って行った。人里近くの森に消えたあのネズミに会うことは、もう二度とないのだろう。
少しばかり寂しく、そして自分の弱さを知ったと思う。同じ哺乳類のネズミを、結局俺は食べることが出来なかったのだ。弱肉強食たる野生動物の世界ではあるまじき行動だろうな。
その反動から、俺はあの後あちこちの腐葉土を掘り返しミミズとか幼虫とか木の実とかを食い漁った。
ミミズとか虫の幼虫とか、今時の人間なら気持ち悪くて食べたくないと思うだろう? 俺もそうだ。だけどタヌキの身になったからか、幼虫がただの丸々とした餌にしか見えなかった。
しかし、カヤネズミを飼っていた俺にはどうしてもネズミ――それ以上の愛らしさを持っていたと思う――を食べることは憚られた。身はタヌキになり、食生活もタヌキに近づこうと、越えられない一線があるのさ。
魚は食べれるけど観賞魚は食べたくない……みたいな? ……なんか違うな。
やっぱネズミ、食べられるようにならないとダメだろうか。春先の今は虫たちが――麓なら――ぽつぽつと活動を始めているのでそれを食べればいい。しかし今後のことを考えると食べられる種類は多いに越したことがない。
食わず嫌いは、身を滅ぼすのだから。
後は住処の近くでも食べれる物を探さないと。食料確保のために一々麓まで行ってたら効率が悪いことこの上ない。
そんなことを考えながらも俺はとにかく一眠りすることにする。すでに巣の周囲には朝日が差し込めているのだから。
タヌキは夜行性だ。夜の方が調子が良くなる。活動もしやすい。人間だった頃の深夜テンションとはまた違った、生き生きとした感じだ。
――さーて、一眠りしますか。
俺は巣穴の奥に体を潜り込ませ、くるっと丸くなって前足に顎を乗せる。いつもの寝る体勢だ。
……あ、食べすぎたかな。トイレ、行きたくなった。